オムレツ公爵
しからば、たちまち薄ら寒い処へ足を踏み入れぬ。
William Cowper (1731 - 1800) “The Sofa”
詩人キーツは非難を浴びて倒れ伏した。悲劇『アンドロマケー』のせいで命を落とした者は誰であったか*。とはいえ、あの霊魂ほど不名誉なものはあるまい……あのオムレツ公爵なる者は、小鳥のために非業の死を遂げたのである。それを語るには、歴史書では心許ない。ならば、料理書に宿る精霊よ、我に力を貸したまえ!
× × ×
翼を持った小さな旅人が、金色の鳥籠に抱えられて、やって来た。夢現の中で、微睡みに浸り、ぼんやりとしながら、遠くペルーの故郷より、ここフランスのショセ=ダンタン通りへと辿り着いたというわけだ。その幸福な小鳥は、六人の帝国貴族の手で運ばれて、飼主である美麗女王からオムレツ公爵へと下賜された。
その夜、公爵は一人で夕食を済ませると、書斎に籠り、かつて忠誠心を投げ出して国王と競り合った、かの名高き『末子の寝椅子』の上へ物憂げに身を投げ出した。
枕に頭を埋めていると、時計が鐘を打ち鳴らした! 公爵閣下は興奮を抑えきれず、オリーブを丸呑みに飲み込んだ。そのとき、扉が静かに開き、静謐なる音楽が聞こえてきた。
さあ、刮目せよ! とびきりの美男子の御前に、とびきり優美な小鳥が姿を見せるのだ!
いや、しかし、何故、公爵閣下は、言葉にならぬ狼狽で以て、その顔を曇らせているのだろうか……?
「あんまりではないか! ……畜生め! 罰当たりな! ……鳥が、小鳥が! 嗚呼、神よ! あの慎ましき小鳥が、羽根を剥かれ、許しもなく、皿の上に饗されようとは!」
これ以上は、もはや語る必要はあるまい。
公爵閣下は怒り心頭で、そのまま事切れてしまった。
× × ×
公爵閣下が亡くなって、三日目のこと。
「ハッ! ハ! ハァ!」と声を上げたのは、他ならぬ公爵閣下であった。
すると悪魔が現れて、傲慢風を吹かせながら、
「ヒッ! ヒ! ヒィ!」と小さな声で返してきた。
「何がおかしい? 真面目に聞いちゃくれないか。」と、オムレツ公爵は言い返す。
「確かに、ボクは罪深い……全くその通りだ……でもね、キミ、考え直しちゃくれないかい? ……だってね、そんな……そんな野蛮で恐ろしいことをさ、キミがするだなんて、そんなつもりは毛頭もないんだろ、ね?」
「戯けたことを抜かしおる! よし来い、丸裸にひん剥いてやろう!」と悪魔殿が言い放つ。
「丸裸だと、正気かね! ボクみたいな、頭の端から爪先まで清廉潔白な人間に服を脱げと言うのか! いやいや、脱ぐものか。誰かは知らぬが、命乞いをした方が身のためだぞ。
我こそは、先達って丁年を迎えたフォア=グラ家の当主、オムレツ公爵であるぞ。『マズルキアド』の著者であり、学士院の学会員でもある。
そんなボクが、ブルドンに作らせたこの極めて甘美な股引を、キミに命じられるがまま、脱がされねばならんのか? このロンベールが仕立て上げた極めて豪奢な部屋着を脱げと言うの? 許しも無く、ボクの髪を毟り取り、手袋もどうにかこうにか捨て去ろうってのか?」
「貴様、我輩のことを知らぬのか? ……なるほど! 宜しい、我が名はバアル=ゼブブ。蠅の王である。
今しがた、象嵌彫りの象牙細工で飾られた、紫壇の棺より、その方を担ぎ出したところよ。珍奇な香を纏っておった汝の身には、送り状が添えられておった故、墓守のベリアルがここまで送り届けてくれたというわけだ。
見てみよ、今、汝が佩びておるのはブルドンの股引ではなく、上質な亜麻の下着である。汝の言う部屋着は、袖も裾もゆったりとした死装束ではないか。」
「なんだと!」と公爵が応じる。
「そこまで侮辱される覚えはないぞ! よろしい、この雪辱は、近いうちに晴らさせてもらおう! ……いいな、日時は追って連絡しよう! では、そういうことで!」
……そう言いながら、オムレツ公爵はお辞儀をして、悪魔に別れを告げようとした。だが、立派な風体の侍従に邪魔され、そのまま部屋に連れ戻されたのであった。
オムレツ公爵は、両の眼をこすって欠伸をし、肩をすくめて考え込んだ。それから正気を取り戻すなり、自分が居る場所を鳥瞰してみた。
部屋の造りは壮麗で、オムレツ公爵をして「上等にして上品たる」と言わしめるほどだった。
とは言うものの、部屋の大きさに関しては、その幅も奥行きも至って普通な部屋であった。
……ただ、天井だけは……そう、恐ろしいほどに高いのである! ……どこまで見渡しても天蓋らしきものは見当たらない……本当に何も無いのだ。……その代わりに、焔のような色をした叢雲が、重々しく渦巻いているだけである。
上ばかり見上げていると、目眩がしてきた。上空からは、なんだかよく分からぬ、血のように紅い金属の鎖が一本、ぶら下がっている。……その鎖の上端は、ボストンの市街地のように霞に覆われていて、姿を見せることはない。一方、鎖の下端には火壷が揺らめいていた。
察するに、その火壷は紅玉で出来ているらしかった。そこから放たれる光の、なんと激しいこと。なんと静かで、なんと恐ろしいことか。
ペルシア人でさえも、かような光を崇めたことは無かろう。……かの光は、拝火教徒の想像をも絶するものに違いあるまい。
たとえ、回教徒が、阿片に酔ってよろめいて、その背を芥子畑に預け、その顔を太陽神に向けたとしても、かような光を夢に見ることは無いだろう。公爵は小さな声で、明瞭たる讃美の言葉を漏らした。
また、この部屋の四隅には円筒彫りの壁龕が設えてある。そのうち三つには巨大な像が納められていた。その像は、ギリシア流の美麗さとエジプト風の奇怪さを兼ね備えており、総じて、フランス的な彫像であった。
一方で、四番目の壁龕の像は、薄布で覆い隠されている。桁外れに大きいわけではないが、すらりと長く伸びた足首と、洋鞋を履いた脚が目に映った。
オムレツ公爵は胸に手を置き、瞳を閉じてみる。そして再び眼を開けると、悪魔殿が……赤面しているのに気がついた。
いや、それにしても、部屋に飾られている絵のなんと素晴らしいことか! ……愛の女神に豊穣神、戦乱神……千の名前を持つ神々の絵画よ!
きっとラファエロもこの絵を見たのだろう。ああ、彼もこの部屋に来たに違いない。なにしろ、彼は、この××を描いたのではなかろうか。そのために、地獄に落ちたのではなかっただろうか。
いや、この絵の……そう、この絵の……なんと豪奢で、愛おしいことか。その秘められた美しさに眼を向ける者は皆、その黄金の額縁に、綺羅星や菫青石、斑岩壁のごとく散りばめられた、繊細な意匠に眼を奪われることであろう。
けれども、公爵の心は静まりかえっていた。それは、底知れぬ光景に眼を眩ませたからではない。あちこちに提げられている無数の吊り香枦に当てられて、恍惚に浸っているわけでもない。
いやもちろん、そういったことも確かにあるにはあった……だがしかし! オムレツ公爵が恐怖に慄いているのは、 あそこの剥き出しの窓から見える、身の毛も弥立つような景色のせいなのであった。
見よ! 火と呼ばれる物の中でも、ひときわ悍ましく輝く、あの微かな焔を!
憐れなるかな、公爵閣下! 部屋中に染み渡る、あの栄華に満ちた、蟲惑的でいて、滅びることの無い、あの旋律に耳を傾けねばならんとは。あの心を惹きつけてやまない窓硝子に秘められた力で以て、濾し浄められ、姿を変えた、かの旋律を。
あの音こそが、絶望した者どもの慟哭であり、地獄に堕ちた亡者らの悲鳴なのだ。
そして、ここにも一人! ……そう、ここだ! ……この寝椅子の上だ! ……あれは誰であろうか? ……あの、美男子は、誰なのだろうか。……おそらく、あれは神の如き者なのではなかろうか。……大理石で出来た彫像のように腰を下ろし、青白い面に甚く苦々しい笑顔を浮かべているのは誰なのか?
いや、何とかせねばらぬまい……つまりだ、フランス人というものは、面食らって卒倒することを良しとはしない。そのうえ、オムレツ公爵は人前で醜態を晒すのを嫌っていた。
……公爵は再び我に返る。テーブルの上には細剣が数本……剣先もいくつかある。公爵はかつてB師範に剣術を習っていたことがある……それも、六人斬りを果たすほどの実力の持ち主であった。
そこに活路を見出し、公爵は二つの剣先の品定めを始めた。そして、やんごとなく雅な物言いで、悪魔に『どちらにしますかな』と剣の選択を迫ったのであった。
しかし、なんたることか!
悪魔殿には剣術の心得が無い!
ならば、トランプで勝負だ! ……いや、なんたる妙案か!
……そのとき、公爵閣下は、その優れた記憶力で以て、昔読んだ、聖職者ガルチエの 『悪魔』の一節を思い出した。その本に拠ると、悪魔というものは数札勝負を挑まれると、絶対にその誘いを断らないのだとか。
なんたる好機か。だが、勝算はあるのか。いや、現状は……絶望的だ。しかし、全く勝つ見込みが無いわけでもない。なにしろ、オムレツ公爵はエカルテの秘技を身に付けているのだ。『ル・ブラン神父の書』にも目を通したことがある。その上、公爵は廿一倶楽部(21クラブ)の会員なのだ。
「負けてしまったら」と公爵は語る。
「二度、死ぬことになる……つまり、二度も埋められるわけだ……だが、それだけのことさ。」
(そう言って、肩をすくめた。)
だが、勝ってさえしまえば、もう一度、小鳥たちのもとへ帰れるのだ。
……さあ、カードの準備は整った!
オムレツ公爵は細心の注意を払い、眼前の勝負に全神経を集中させていた。一方、悪魔殿は自信に満ち溢れた様子である。見る者が見れば、フランス王たるフランソワ一世とスペイン王であったカルロス一世の姿を思い浮かべることだろう。
公爵は、熟考して勝負に臨み、悪魔殿は一考もせずにカードを切った。
次いで、オムレツ公爵が再度、カードを混ぜる。
カードが配り終わり、いざ切り札を捲ると……そこには……なんと……王様の姿! ……あ、いや、違う……王妃様ではないか。
悪魔は、その王妃の男のような衣装を呪った。
一方、オムレツ公爵はホッと胸を撫で下ろす。
勝負は続く。
手札を前にして、公爵は熟考してみるものの、一向に打つ手は無い。悪魔殿はじっくりと手札を眺めていた。そして、笑みを浮かべて、葡萄酒へと手を伸ばすと、公爵がカードを一枚捨てた。
「貴様の番だぞ」と山札を切りながら、悪魔殿が告げる。公爵は会釈をしながら、カードを配る。そして、立ち上がるなり、悪魔にカードを突きつけた。王様のカードを。
悪魔の顔が悔しさに染まった。
かつて大王と呼ばれたアレクサンドロス三世は『余がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたいものだ』と語った。
オムレツ公爵も去り際、好敵手に向かって、次のような誓いを口にした。
「ボクがオムレツ公爵でなかったら、迷うことなく悪魔になるさ。」
*【原註】
「モンフルーリ」ことザカリィ・ジャコブ(1608-1667)。「パルナッソスの変容」の著者(訳註:ガブリエル・ゲレ)は、あの世のモンフルーリに次のように語らせている。「したがって、私が何のために死に至ったか、その理由を知りたい者があれば、熱病だの痛風だのと色々なことを口々に問うのはやめたまえ。ただ言うならば、私が命を落としたのは、それは『アンドロマケー』がためである。」
原著:「The Duc de L’Omelette」(1832)
原著者:Edgar Allan Poe (1809-1849)
(E. A. Poeの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)
翻訳者:着地した鶏
底本:「The Works of Edgar Allan Poe, Voleme 4」(2000, Project Gutenberg) 所収「The Duc de L’Omelette」
初訳公開:2018年3月25日
参考文献:
底本の欠落部の補填および翻訳の参考として下記の出版物を参照した。
1.「The Collected Works of Edgar Allan Poe, Vol. II: Tales and Sketches」(1978, The Belknap Press of Harvard University Press)に所収の「The Duc de L’Omelette」(編:Mabbot T. O.)
(「The Edgar Allan Poe Society of Baltimore」のHPで公開されているもの)
2. 「ポオ小説全集1」(1974, 創元推理文庫)に所収の「オムレット公爵」(訳:永川玲二)




