〈 Day 3 〉
スマートフォンのアラームで目を覚ます。
現在時刻は午前9時。
顔を洗いに洗面所へ向かう。
自室に戻り服を着替え、昨日用意したカバンを持って居間へ向かう。
目玉焼きの乗ったトーストを囓り、アイスコーヒーを飲み干す。
母親に行ってきます、と一言伝えて玄関扉に手をかける。
…ただ、それだけだ。たったそれだけのありふれた日常だ。
雨が居ないだけで急に現実に引き戻されたような気分だった。
家を出る。
「四谷くん、おはよ。」
家の前で待っていた雨から思わず目をそらす。
「やっぱりお母さんは気付いてくれなかったよ。」
罪悪感はより強くなり、カバンの持ち手を強く握る。
「四谷くんが嫌なら無理にとは言わないけどさ、やっぱり四谷くんの側に居たいな。」
俺は、雨にこんな表情をして欲しくて、距離をとったのか?
「付いていったらダメ、かな?」
「…でも、記憶を思い出そうとしたら雨が苦しむから。」
思っていたことが、ポロリ、と零れ出る。
「やっぱり気を使ってくれてたんだね。大丈夫だよ、自分の事だもん。」
雨はまっすぐな視線でこちらを見る。
覚悟ができていないのは、俺の方だった。
「改めてお願いします。私の記憶探しを、手伝ってくれますか?」
「………わかった。」
「あと変な気遣いも不要だからね。」
「ああ。」
「…四谷くん。」
「何だ?」
「引き受けてくれて、ありがと。今後ともよろしくね。」
雨は屈託のない笑顔をこちらに向ける。
その笑顔はあまりにも眩しかったが、それ以上に心が安らいだ。
「それで、これからどうするの?」
「まずは雨のお母さんに話を聞きに行こうかなって。」
「お母さん…大丈夫かな…。」
「何かあったのか?」
「昨日の夜ね、お父さんとお母さんが喧嘩していて。かなり泣き叫んでたからちょっと人に会える顔してないかも…。」
「もしかして俺、最悪のタイミングで家に帰した?」
「…割と辛いタイミングだったかな。」
濡れたアスファルトの上で、綺麗なフォームで土下座を繰り出す。
「ちょ、ちょっと土下座なんてやめてよ!」
「ホンットスイマッセンシタ。」
「他の人には見えてないんだから、四谷くん今電柱に向かって土下座してるから!いや、仮に私が見えていたとしても外で土下座してる事実は変わらないからね!お願いだからやめて!」
雨の必死の懇願で膝に穴が開く前に土下座をやめる。
アスファルトが食い込んだ跡が膝に生々しく残ったが、雨が受けた心の傷に比べれば安いものさ、などと意味不明なことを口走る。
「四谷くん、電話はしたの?」
「話をしようってだけ考えてて電話の存在を失念してた…。」
スマートフォンから雨の家に電話をかける。
「…はい、雨月です。」
「もしもし、四谷 悠です。雨のお母さん…ですよね?」
「あ、悠くんね、おはよう。どうしたの?」
「雨のことについてお話を伺いたいのですが、今からご自宅に行っても大丈夫ですか?」
「…ええ、大丈夫よ。待ってるわね。」
通話を終え、スマートフォンをしまう。
「お母さん、大丈夫そうだった…?」
「声色はなんとなく暗い感じだったけど、家には来ていいって。」
「そっか、じゃあ行こっか。」
二人で雨の家へと歩き出す。
10分ほど歩くと、きのうの夜別れた雨の家の前にたどり着く。
「そういえば昨日家の前で置いていっちゃったけど、出入りはどうしてたんだ?」
「門扉はこっちから登って、玄関のドアはお父さんの出入りに便乗してそそくさーって。」
「よくよじ登ろうと思ったな…。」
「出る時はそこの段差からぴょーんって。」
「お願いだから現実ではやらないでくれよ…。」
「ほぁーい。」
気の抜ける返事にため息をつき、インターホンを押す。
「すいません、四谷です。」
「悠くんね。今開けるわ。」
門扉を開けて中に入ったタイミングで玄関のドアがガチャリと開く。
「いらっしゃい。こうして顔を見るのは久しぶりね。」
「ご無沙汰してます。」
「立ち話もなんだから、入ってちょうだい。」
「お邪魔します。」
雨のお母さんに招き入れられ、リビングへと通される。
「ちょっと待っててね、今お茶を入れるわ。」
「あ、ありがとうございます。」
グラスの中で氷が転がり、カランカランと涼しげな音が部屋内に響く。
「お待たせ、麦茶しかなかったけどいいかな?」
「いただきます。」
雨のお母さんからお盆に乗せて運んできたグラスを受け取りひと口飲んで机に置く。
「それで、今日はあの子の話って聞いたけれど。」
「雨を捜索するにあたって、いなくなった日の様子を聞こうと思いまして。」
「一昨日は午前中…9時半ぐらいだったかしら、はっきりとは覚えてないけれどそれぐらいの時間に玲が起きてきて、もう夏休みが始まっているのに制服を着ていてね。」
今の雨の格好も学校の制服だ。
雨が制服を着ているのは恐らく最後に来ていた服装を反映した結果なのだろう。
「部活関連の用事がどうって言って朝食を食べた後そのまま出て行っちゃった。」
ここまでは電話で聞いた説明通りだった。
「他には何か言ってなかったんですか?」
「それ以外は特には。そんなに時間のかかる用事ではないと思ってそのまま送り出しました。」
「それから連絡もなく、と。」
「お昼あたりに昼食はどうするのか一度連絡をしたのですが、いらないと一言だけ返信がありまして。」
スマートフォンの画面を見せてもらうと一昨日の12時過ぎに返信があるのが確認できた。
その後は午後6時以降からかなりの量の電話とメッセージが送信されていたが既読は一切付いていなかった。
「ありがとうございます。」
送られたメッセージに少し目を通しただけで普段雨がどれほど苦労しているのかが見て取れた。
一つ一つのメッセージが妙に重いのだ。
「玲、どうして連絡返してくれないの…。」
「そういえば、警察に捜索願を出したって昨日うちの母親から聞きましたけど警察から何か言われましたか?」
「あの時はかなり気が動転していて完全に覚えてはいないけれど、私たち保護者が捜索するときの注意点がどうとか…。ごめんなさい、やっぱり覚えていないわ。」
「いえ、警察からあれをするな、なんて指示が出ているか気になっただけですので。捜索ポスターとかは大丈夫なんでしょうか?」
「それは、確か問題ないって言っていたような…。」
「必要になるかと思って自分で作ってみたんですけど、確認してもらっていいですか?」
カバンから印刷したポスターを1枚取り出す。
「これ、悠くんが作ったの?」
「見よう見まねで作っただけなんで必要事項とか抜けてるかもしれませんが。」
「すごいわ!ありがとう!」
突然の抱擁に何が起こったのか理解できず思わず硬直する。
「あ、ごめんなさい。つい昔の癖で抱きしめちゃったわ。」
後ろに立っていた雨がこちらに回り込んですごい形相でこちらを睨んでくる。
「あ、あの、確認、これ、大丈夫か、おっ、願いします。はい。」
「確認すればいいのね。あら、この写真可愛く撮れてるわね。どうしたのこれ?」
雨がポスターを確認すると先程よりさらにすごい形相でこちらを睨んでくる。
「く、クラスの…行事でみんながいっぱい撮った写真の中にあったので、それを使いましたはい。」
「当時の服装のところを埋めれば後は問題ないと思うわ。」
「じゃあ残りの分にも書き足して貼れそうなところに貼っておきますね。」
「残りってどれぐらいあるの?」
「えっと、全部で20枚です。」
「修正と掲示は私がやるわ。」
「いえ、これは俺が勝手にやり始めたことなんで、自分でやりますよ。」
「悠くんがこんなに頑張ってくれてるのにただ見てるだけなんて気分が悪いわ。このぐらいのことしかできないけれど、私に手伝わせて。」
「…じゃあ、お願いします。」
ポスターと一緒に昨日買った画鋲やテープも渡す。
「悠くんはこれからどうするの?」
「特に考えてませんでしたが、知人などに何か知らないか話を聞いていこうかな、と。」
「分かったわ。」
「雨は、必ず見つかります。」
拳を握りしめ、力強く宣言する。
カバンを閉じ、グラスに入った麦茶を一気に飲み干す。
「麦茶、ごちそうさまでした。そろそろ出ます。」
「あの子のこと、よろしくお願いするわね。」
最後にお辞儀をし、雨の家を後にした。
「四谷くんってお母さんの扱い上手だよね。」
雨が含みのある言い方をしてくる。
「ちょっとそこに立って。」
家を出たところで雨に止められる。
「ん?何するつもりだ?」
雨が正面に回ってくる。
不意に抱きしめられる、ような感覚に陥る。
実際には当たり判定が二重の意味で無いので…いや、この話はよそう。
「…どう?」
「どうもこうも、当たり判定無いから感想の言いようが無いんだけど。」
「四谷くんのそういうとこ嫌い。」
「どうしろって言うんだよ…。」
拘束が解除される。
「さっきの話の続きだけど、これからどうするの?知り合いに聞くってお母さんには言ってたけど。」
「知人っていうか、話を聞いた限り雨は一昨日部活しに学校に向かったっぽいから部活の顧問に話を聞くのが普通かなって。」
「じゃあ学校に向かうの?」
「実は昨日のうちに顧問の連絡先を入手しておいた。」
「えっ四谷くんすごい。今の発言なんだか凄腕のスーパーハッカーみたい。」
「その例えはよくわからないが、これでわざわざ学校に向かう必要はなくなった。」
「これで別の場所に調査しに行けるね!」
「…で、どこに向かおうかな。」
「さっきの感動返して。」
「普段雨が何してるか聞いてから関係ありそうな場所行こうと思ってたんだよ。」
「私の普段の生活?んー、学校行って、部活行って、バイト行って…そのくらいかなぁ。」
「雨、バイトしてたんだ。」
「『アーネンエルベ』って喫茶店でね。店長さんのサンドイッチがこりゃまた絶品でね!」
「ダイレクトマーケティングやめろ。」
「こりゃまた失礼しやした。」
「その口調も何か腹たつからやめろ。で、ここからどれぐらいかかるんだ?」
「私はいつも自転車で行って20分ぐらいかかるから、ざっくり三倍計算で1時間前後かかるんじゃないかなぁ。」
「結構歩くな…。」
空は相変わらずの曇り模様だが、昨日の夜に降った雨が蒸発して非常に暑い。
「まぁでも、記憶探しのためだ、そんなことでくじけている場合じゃないよな。」
「無理はしないでね?」
「それはこっちのセリフだ。少しでも頭痛がしたら言うこと。OK?」
「…うん。」
炎天下の中、アーネンエルベへと向かった。
「あ、そうだ四谷くん。昨日マクロで話してたあの公園、ちょっと寄っていかない?」
「別にいいけど、記憶に関係ありそうなのか?」
「んーんんん…多分関係ない!」
「じゃあ却下。」
「なんでぇ?どしてぇ?」
「特に意味もないのにこのクソ暑い中公園に行って何するんだよ。」
「…昨日言ってたジャングルジム、気にならない?」
「微塵もならねぇな。」
「本当に?」
「ならない。」
「花の女子高生が飛びついたジャングルジムだよ?」
「自分で言ってて恥ずかしくないのか。」
「お願い、一目見るだけでいいから!」
「………しょうがないなぁ。」
この性格だけは、どうしようもない。
「そうと決まればダッシュダッシュ!」
「ちょ、待てよ!」
雨の背中を見失わないように追いかけた。
「こんな…クソ暑い中…本当に…走る奴が……どこに…いるんだよ…。」
「ごめんごめん。ほら四谷くん、この公園懐かしくない?」
息を整え公園を見渡す。
確かに所々見覚えのある遊具やベンチが置いてあるが、記憶のうちにある遊具の半分は撤去されていた。
それ以前に遊具で遊んだ記憶より、雨とセミを捕まえに行ったという記憶の方が印象に強いせいであまり覚えていない。
「なんとなくしか覚えてないけど、こんなに遊具少なかったか?」
「いろいろ撤去されちゃったからね。でもこれは覚えてるでしょ?」
雨が指をさす方には花の女子高生が飛びついた回転するジャングルジム(仮)がほぼ記憶通りに残っていた。
「あの時はね、こんな感じで………そぉい!って飛び乗ったら回らなくてびっくりしたよー。」
雨が飛びついて三ヶ月前の事件を再現してくれたが、実際に見ると制服を着た女子高生がやることじゃないなと改めて認識する。
「ほら、四谷くんばっちこーい!」
「………は?」
「早く来なよ!」
正気の沙汰とは思えない。
「カモン!ヘイカモーン!」
雨は暑さで頭をやられてしまったようだ。
「えっ。どうしてここまで来て触らないの?逆にびっくりだよ。」
「こっちがびっくりだよ。」
これは先程と同じ、こちらが折れるまで絶対に引かないモードだ。
あたりを確認して人がいないことを確認する。
こんな恥ずかしい姿、人に見られたら二度と表には出られないだろう。
「ちょっと触ったらすぐアーネンエルベに向かうからなあっつ!!!!」
この公園に来るまでに少しずつ顔を覗かせていた太陽が鉄製のジャングルジムを肉が焼けそうなぐらい熱々に温めていたのだ。
「ばーか!ばーーーか!!!」
この怒りをどこにぶつければいいのかわからず思わず叫ぶ。
そのまま公園の外に設置してあった自販機までダッシュで駆け寄り冷たい缶ジュースを購入する。
「だ、大丈夫…?」
「…手のダメージより、遊具で遊ぼうとして手を火傷しそうになって一人で叫ぶ高校生がいるという事実の方が辛い。」
「………行こっか。」
「………ああ。」
心の中で中指を立てて公園を去る。
「着いたよ。」
とても長く苦しい旅路だった。
その度もようやく終わりを迎え…よく考えたら、なにひとつ解決していない。
むしろこれからがようやく本番だ。
店のドアを開くと、カランカランとドアベルが入店を告げる。
しばらくして奥からドタドタと巨躯が駆けてくる。
「らっしゃい!まぁ座れ!注文は何にする?」
にこやかな巨人は豪快にピッチャーからグラスに豪快に水を注ぐ。
「え、えっと…メニュー見てもいいですか?」
「何だ、うちは初めてか!よく来てくれたな!まあそっち座れや!」
半ば強引にテーブル席に着席させられる。
テーブルの上にメニューと水の入ったグラスが勢いよく置かれる。
「決まったら言ってくれ!この裏で作業してるからよ!」
にこやかな巨人はそのまま奥へと戻ろうとする。
「あの、すいません、このサンドイッチとアイスコーヒーのセットください。」
「なんだもう決めたのか!即決だな!ちょっと時間かかるが勘弁な!最近バイトが急に来なくなって困ってんだ!」
ものすごい勢いで喋るだけ喋り、そのまま奥へと戻っていった。
「…で、バイトさん。店長さんっぽい人がバイトが無断欠勤したって言ってましたけど、何か言うことは?」
雨が無言で土下座している。
気の済むまで放置しておくことにする。
雨が座れるように椅子を少し下げておく。
店内を見渡すが、自分以外の客は誰一人いない。
昼時にこれだけガラガラだと経営状況大丈夫か?と勘ぐりを入れてしまう。
カバンをもう一つの椅子に置き、水を飲みながらスマートフォンを取り出す。
教えてもらった顧問の連絡先に雨について何かしらないかという旨のメッセージを送る。
「おい、にーちゃん!明日の出店で出すソーセージが余ったんだが食うか?ああ、金は取らないから安心しな!あとちょっとで焼けるから待ってな!」
奥から顔を出したと思ったら返事も聞かずに引っ込んでいった。
「…店長さん、ずっとあんなテンションなのか…?」
「大体いつもあんな感じだよ。面白い人でしょ?」
土下座をやめた雨が隣に座っていた。
「店来るたびに毎回あんなテンションでグイグイ来られたらさすがに疲れるわ。」
「私がいる時は基本私が接客してるんだけどね。店長が接客してるの初めて見たからなんだか新鮮だなぁ。」
「待たせたな!」
頼んでいたアイスコーヒーと、頼んでいない………ソーセージが、渦上に巻かれて串が中央に刺さっている何かがテーブルに置かれる。
「あの、これは一体…?」
「見てわかんねぇのか?明日の屋台で出す予定のソーセージマルメターヌォだ!」
「ソーセージ…マルメターヌォ!?」
以前どこかで似たようなことを口走ったような気がする。
「それは俺からのサービスだ、味わって食えよ!」
「ありがとうございます。」
「ウインナーと一緒にコーヒーを提供する…これが本当の…。」
店長が奥に消える。
「四谷くんが…震えてる。」
「何で…何で…言い切らないんだよ…こんな事って…言ってくれなきゃつっこめないだろ…あまりにも酷すぎる仕打ち…。」
しかし、そんな状況でも、ソーセージマルメターヌォは、美味しかった。
「ちくしょう…うめぇよ…。」
「…泣くほど美味しいの?今度バイト入った時まかないで出してもらおうかな。」
勢いで全て平らげアイスコーヒーを飲んで一息つく。
「危うくソーセージマルメターヌォに踊らされて本来の目的を忘れるところだった。」
「そうだよ、私たちはソーセージマルメターヌォを食べに来たんじゃないんだから。」
「肝心の頼んだサンドイッチがまだ出てきてないんだよ!」
雨にチョップされる。当たり判定はない。
「そろそろボケるのは置いておいて本題進めよ?」
「普段唐突にボケる雨にそれ言われるの納得いかねぇ。」
頬を突かれる。当たり判定はない。
「待たせたな!これが当店自慢のサンドイッチだ!」
野菜やスクランブルエッグが挟まれている美味しそうなサンドイッチが三つ皿の上に置かれている。
「これ中身全部一緒ですか?」
「ああ!たまに気まぐれで別の味に挑戦したりするが、基本は三つともそれだ!これが本当の…」
再び奥へ消える。
「いや最後まで言えやー!」
思わず立ち上がり叫ぶ。
「………その言葉を待っていた。」
奥に消えたはずの店長がカウンターの下から生えてくるように姿を現した。
カウンターに近づき無言のハイタッチを交わす。
お互い満足げに店長は奥へ、俺はテーブル席へ戻る。
「満足した?」
「はい。」
サンドイッチは雨がオススメするだけあってとても美味しかった。
「さっきボケるの止めようねって言ったよね?」
「体が勝手に動いたんだ、しょうがないだろ。」
サンドイッチをもぐもぐしながら答える。
「というか、このボケに対してツッコミをしてしまう体質は雨のせいでついたんだからな?」
「私そんなにボケてないよ。」
「ナチュラルにそんなこと言える雨がすげーよ。」
カランカランと背後でドアベルが鳴ったような気がして振り返るが誰も居ない。
「今ドアベル鳴らなかったか…?」
「お客さんが二組以上この店に入ったことないから気のせいだよ。」
「そうか…いや、突然飲み込めないワード投げるのやめて。」
高校生に心配される経営状況ってどうなの…。
色々思うところもあるが、三つ目のサンドイッチを食べ終える。
「ごちそうさまでした。」
カウンターまで食器を運ぶ。
「食器ここに置いときますねー。」
「おお、すまねぇな!本来こういうのはバイトの仕事なんだがな!」
「そのバイトの…雨月さんの事についてお聞きしたいことがあって来たんですが、何かご存知ではありませんか?」
「何だにーちゃん、あの嬢ちゃんの知り合いか!むしろこっちが聞きてぇぐらいよ!あのバカ連絡も寄越さず何やってんだか!」
そのバカは隣で再び土下座をしている。
店長が皿を持って奥へ消える。
「店長は何も知らない…となると、美味しいもの食べただけで捜索的には無駄足だったか。」
「そういえば佐藤先生には連絡したの?」
雨が顔を上げる。
「雨が最初に土下座している間に送信しておいたけど…。」
スマートフォンを取り出すが、返事が来ている様子はなかった。
「返事は来てないな。」
「そうなるとまた振り出しだね…。」
あとはクラスの女子に何か知っているか聞いて回るぐらいしか思いつかない。
雨が見つかった時に穏便に済ませたいので、できるならそれは避けたい。
「なぁにーちゃん、ちょっといいか?」
腕を組み唸りながら悩んでいると店長が声をかけてくる。
「うちの娘見なかったか?これくらいの身長の白いワンピース着た女の子なんだが。」
「小さい女の子?見てないですね。」
「ここ数日、目を離した隙にフラッとどこかに消えちまうんだ。昨日も一昨日も夜までには戻ってきたからどっか遊びに行ってるだけとは思うんだが、とんと見当もつかねぇ。もし雨月の嬢ちゃんに会えたら何か知らねぇか聞いといてくれんか?」
「聞けそうなら聞いておきますけど。ちなみに娘さんのお名前は?」
「太陽の陽に花びらの花で、陽花だ。何かわかった事があったら連絡してくれよな!」
アーネンエルベの広告チラシを受け取る。
「わかりました。あ、ごちそうさまでした。サンドイッチ、美味しかったです。レジはどちらに?」
「雨月の嬢ちゃんの知り合いから金が取れるかってんだ。こっちから頼んでることもあるしな!」
「流石にあれだけ美味しいものを食べさせていただいたのに1円も払わないのは気がひけるというか…。」
「じゃあ代わりに嬢ちゃんの給料から天引いておくさ。」
「ちょっと!!!」
雨の訴えかけは無情にも店長に届かない。
「それもそれで後で雨…雨月さんに怒られそうなので。」
「とにかく、こっちは頼み事してる身分だ!お金は断固として受け取らん!」
「…わかりました。じゃあ陽花ちゃん探してきます。」
「いやいや、まずはにーちゃんのやるべきことあるだろ?まずは自分のこときっちり片付けて、それから頼んだこと取り組んでくれればいいから。」
「…ありがとうございます。ごちそうさまでした。」
「また来てくれよな!」
店を後にする。
「これからどうするかな…雨?」
後ろを振り向くと膝をつき苦しそうに頭を抱える雨がいた。
「雨、大丈夫か!?」
一度、二度、三度と深呼吸をし落ち着いた様子の雨が立ち上がる。
「………私、陽花ちゃんがどこにいるか知ってるかも。」
遊火山の麓。
立ち入り禁止のフェンスやプレハブ小屋が設置してあるが、辺りから人の気配は全くしない。
「もしかして今から登るのか…?」
「四谷くん、こんな噂を知ってる?遊火山付近、及び遊火山に工事の手が加えられないのはこの辺の人たちが反対してるからだ、って。」
「噂程度なら聞いたことはあるが。」
「じゃあどうして反対しているかは?」
「流石にそこまでは…。」
「お父さんがね、言ってた。『ここに住む人たちは遊火山にある神社が取り壊される事を恐れている。ありもしない神社を。』って。」
「ありもしない神社…?」
「航空写真で見ても存在しないし、御神木をそのように呼んでいるのかと考えて実際に山を捜索したがそんな木も存在しない。神社が存在するんだったらどこかに道が存在するはずなのに、それらしい痕跡も見つからない。」
「そんな不可思議な事が…いや、なんでもない。」
隣で苦しそうにしながらも雨は話し続け、進み続ける。
「一度反対派の人たちに神社が存在するなら私たちを連れて行って見せろ、もし無理なら工事は実行する、って言って案内させたらしいけど結局辿り着けなかったみたい。」
蝉の鳴く声と木々が騒めく音が次第に大きくなる。
「そんな話を聞いて、私はそんな不思議な神社、あったらいいな、って思っちゃった。」
苦しそうに歩いていた雨だったが、ついに木に左手をついてしゃがみこんでしまう。
「雨…!」
雨は右手で前方を指差す。
その先には石で作られた階段があった。
「前ね、お店で店番してたら厨房奥の自宅からお店にぴょこっと陽花ちゃんが顔を出してきてね。店長の奥さん、若くして亡くなっちゃっていて店長がお店で忙しくて構ってあげられなかったから、寂しくてお店まで出てきちゃったみたい。そこから仲良くなって色々話すようになったの。って言っても陽花ちゃん基本無口だから私が一方的に話してるだけなんだけどね。」
「それでこの神社について話した、と。」
「そう。だから恐らく陽花ちゃんはここに来ている。根拠があるわけじゃないんだけど、そう思うの。」
雨が立ち上がる、しかし依然としてその顔色は良くないままだ。
「行こ、陽花ちゃんが待ってる。」
石段の前まで移動し、二人で一段ずつ、ゆっくりと、それでも確かに登っていく。
「上が見えてきたぞ。」
登るにつれ、ボロボロながらも尊厳が感じられる立派な鳥居がその存在を主張してくる。
しかし肝心の神社の名前が書かれている部分は劣化が酷く、読むことはできない。
二人で長い石段を登りきり鳥居をくぐる。
「ぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!」
鳥居をくぐった直後だった。
雨が今までの比にならないほど苦しそうに叫ぶ。
何度も声をかけるが、苦しみが和らぐ様子はなく、苦しそうに頭を抱えるだけだった。
どれほどの時が経っただろう、10秒か、1分か、それ以上か。
叫び声は止まった。
「………くん、……やくん、………そこに、いるの…?」
うずくまっていた雨が手を伸ばす。
「…ここにいるぞ。」
伸ばした手の先に移動し、手を取ろうとする。
あの日、差し出した手を取ってもらえなかった記憶が蘇る。
雨が伸ばした手を受け止めるための両手は、あの日の恐怖からか地に伏してしまっていた。
俺は、雨の手を取ることを、躊躇ってしまった。
「俺は…俺は…っ!」
あまりにも自分が不甲斐なくて、自分の手を地面に叩きつける。
「そんなことしたら、ダメだよ。」
顔を上げると、雨が体勢を起こしてこちらを見ていた。
雨を拒絶した手を、地面に叩きつけた右手を、雨はその上に両手を重ねる。
文字通り、その手は重なっていた。
「声、ちゃんと聞こえてたよ。届いてたよ。」
雨がこちらを見て、微笑む。
やめてくれ、そんな笑顔を向けられる資格などない。
「…ありがとう。」
そんな言葉を受け取る資格などない。
「………よし!」
雨が手で軽く目をこすったと思うと、吹っ切れたように元気良く立ち上がる。
「四谷くん、立って!」
雨がこちらに手を伸ばす。
俺にはその手を取ることは、できない。
「ほら!」
自己主張するようにもう一度手を伸ばす。
雨は、俺の性格をわかっていた。
意気地なしの俺の右手を、伸ばす。
「………はっはっは、やっぱりダメか!」
結局何度やっても空を切るのは変わらなかった。
しかし、そんな結果でも雨は笑っていた。
「それっぽい雰囲気出したらいけるかなーって思ったんだけど、流石にそんな甘い展開はないか。失敗失敗!」
雨は、昔から強かった。
それはどんな時でも変わらない。
「その発言で全部台無しだよ。」
立ち上がり膝を軽く払う。
「四谷くん、五円玉持ってない?」
「五円玉?多分あるけど、お賽銭でも入れるのか?」
賽銭箱も例に漏れずボロボロで、鈴と鈴緒に至ってはちぎれて地面に転がっていた。
カバンから財布を取り出し五円玉を二枚取り出す。
「鈴は落ちちゃってるけど、元気良くお賽銭入れて手を合わせたら神様もきっと気づいてくれるよ!」
「元気良くお賽銭を入れるってどうやるんだよ…。」
弾かれないように慎重に投げ入れる。
二回お辞儀をし、二回手を叩き、最後にもう一度お辞儀をする。
「これは何の参拝なんだ?」
「連れてきてくれてありがとうの感謝の参拝だよ。」
参拝を終え後ろを振り向く。
鳥居の下に、この古びた神社という場所に合わない白いワンピースに麦わら帽子をかぶった女の子が一人で立っていた。
「やっぱりここだったね、陽花ちゃん。四谷くん、店長に連絡しておいてくれる?」
「わ、分かった。」
その少女は幽霊の雨を、確かに見ていた。
二人から少し離れ、先程もらったチラシの電話番号に連絡し、店長に所在地を報告する。
遊火山に入ったと報告するとひどく驚いていたが。
「…よかった。」
「…大丈夫だよ。」
断片的にしか会話が聞こえなかったが、雨の哀しそうな目だけが深く印象に残った。
「じゃあね、陽花ちゃん。」
神社の境内から陽花ちゃんを見送る。
「一人で返して大丈夫なのか?」
「ここに辿り着けるぐらいだし、帰りも問題ないよ。」
「そんなものか。」
「私達も帰ろっか。」
「そうだな。」
鳥居をくぐり、石段を下り後ろを見る。
その神社は変わりなく、そこに在った。
木々の間を通り抜け下山する。
家に帰るまでの間、互いに他愛のない話をしていた。
笑い、驚き、突っ込み。
しかし、どこか二人とも上の空だった。
「ただいま。」
「おかえりってドロドロじゃない!さっさとシャワー浴びてきなさい!」
母親に怒られ、自室に雨を案内し、タンスを覗かれ、シャワーを浴び、夕飯を食べ、天気予報を見る。
「いよいよ灯篭川花火大会も明日に迫りましたね!今日の午前まで居座っていた低気圧が流れ、明日は雲ひとつない晴れ間が観測できるでしょう。」
テレビの電源を切る。
「ちょっと消さないでよ!今からドラマ見るんだから!」
最初の目標は雨を花火大会に誘うことだった。
こんなことになってしまった今、誘えるような空気でないことは明白だった。
「あ、おかえり。」
雨がベッドに座って足をパタパタさせている。
「…雨。」
「なぁに?」
「………ごめん、なんでもない。寝る。」
電気を消して座っている雨を回避して壁と向き合うようにベッドに倒れ込む。
背後では雨が背中を向けて寝ている。
気軽に話しかけられない空気のまま、時刻は深夜0時を回り、夏祭りの当日となってしまった。
二人で寝るには狭いベッドの上でお互いが背を向け、針を刻む秒針の音がやけに大きく聞こえた。
「ねぇ四谷くん、起きてる?」
「………ああ。」
「今日ね、神社に行って、陽花ちゃんに会って、全て思い出したの。」
「………ああ。」
「…聞かないの?」
「雨の決心ができたら聞く。」
「…ありがとう。」
「………。」
「…最後の、お願い。聞いてくれる?」
「………。」
「四谷くんの明日一日、私にくれませんか?」
「…最後なんて、言うなよ…。」