〈 Day 2 , part 1 〉
夢を見た。
特に忘れていた訳ではない、よくある昔の思い出だ。
小学校に入るタイミングでこの町に引っ越してきた俺に、真っ先に話しかけてくれた人がいる。
他に友達ができなかった訳ではない、それでも長い時間を共に過ごした。
気付けば俺にとって雨は、かけがえのない特別と呼べる存在になっていた。
ずっと一緒に居られる訳ではない、そんな小学生の約束のような夢が叶わない事は分かっていた。
だが、そんな『おしまい』が、こんなにも早くーーー
雨が、傘もささずに、暗い夜雨の中へと、消えていく。
俺は何をしているのだろうか。何ができるのだろうか。
どうして、何もできないのだろうか。
視界がどんどんと濡れていく。
カメラのレンズに水滴が付くように。
もう、雨は、見えない。
「………んぁ?」
視界が明転する。
見慣れた机からの景色だ。
課題という名の魔王に打ち破れた勇者の景色。
有り体に言う、寝落ちである。
口から流れ出した滝は、机の上で水たまりとなっていた。
「うぉやべっきったねぇ!」
被害拡大を防ぐために、急いでティッシュで拭き取る。
何とか課題は守ることができた。
べ、別に課題のことが好きで守ったとかそんなんじゃないんだからね!勘違いしないでよね!などと一瞬でも考えてしまった自分を殴りたい。
…そんな下らない茶番を終え、ふと後ろを向く。
いつもの風景の中、ベッドの上には非日常の雨が寝ていた。
不吉な夢を見たせいか、その寝顔はとても愛おしく思えた。
スマートフォンから充電ケーブルを引っこ抜き、カメラを起動し構えた所で気付く。
「…雨、カメラに映らないじゃねーか。」
落胆と虚無感とスマートフォンをポケットにしまい、洗面所へと向かった。
「………四谷…くん…ふぁぁ…ねむ。」
顔を洗って戻ってきたが、未だに雨はベッドの上で寝ている。
時計を見ると9時を少し回ったところだった。
今日の補講が10時から始まることを考えると、のんびりとしていられない時間だ。
顔を洗っている時に母親から小言と共に朝食が出来ていると知らされているので、ささっと準備を済ませて家を出れば問題ないはずだ。
寝巻きを脱ぎ捨て、制服のズボンに足を通ーーー
「おはよ、四谷くん。」
今の状況。
俺、ズボンを履ききれていない、下半身パンツ一枚。
寝ていたはずの雨、突然寝返りを打ったと思ったらぱっちり起きていてこっちを直視している。
状況、理解。
「きゃあああああああああ!」
この後、母親にうるさいと叱られたのは言うまでもない。
「四谷くん、男の子なのに『きゃあああ』って…。」
「雨が寝たふりしてるのが悪いんだろ!もう忘れろ!」
登校途中、雨と二人で談笑している。
同じ高校に入ったものの、こうやって並んで登校するのは久しぶりだ。
特に意図して時間をずらしている訳ではないのだが、他の友達とかと先に合流していると話しかけづらいというのが大半だ。
「しかし、別に補講受けに行くだけなんだから雨は付いて来なくてもよかったんだぞ?」
「私には付いて行かないっていう選択肢はなかった。」
「ですよねー。」
「その言い方からして付いて来てほしくない理由でもあったの?」
「いや、それといった理由はないんだが…俺が補講受けるような失態を改めて見られるのが恥ずかしいっていうか…。」
「はっはっは、何を今更。」
「ですよねー!」
昨日の反省から何も省みず、全力のツッコミが蝉の声すらもかき消す。
「あのにーちゃん、一人で叫んでるよー!」
「バカみたいー!」
辺りを見渡さずとも、後方から小学生に指をさされて笑われているのが分かった。
「独り言が許されるのは小学生までだよね!」
「雨も乗らなくていいから。」
補講が始まる10分ほど前に教室に入ると、俺よりも早く田中が席に着いていた。
「四谷、課題やってきたか?」
教室に入るや否や、田中が神妙な顔付きで話しかけてきた。
「一応な。」
「見せてくれ!」
「俺に頼むなよ。いつも通り鈴木とかに見せて…って補講受けてるの、俺とお前だけだもんな…。」
鈴木は同じクラスの友達で、勉強ができるメガネだ。
「というか四谷、よく課題できたよな。」
「ああ…まぁ、家庭教師がついてくれてたからな。」
「何…だと………!?」
「勉強してきたぐらいで大げさな。」
「そっちじゃねえ!家庭教師は女の人か!?」
「………は?」
「大事なことだろ!どうなんだよ!」
田中に肩を掴まれ、全力で揺すられる。
「じょ…女性…だよ…だから、揺らすな!」
暴走した田中を押し返す。
「女性…だと…?うらやまけしからん!!!」
机を壊さんとする勢いでバンバンと叩く。ゴリラかよ。
「お、落ち着けよゴリラ…じゃない、田中。バナナ食うか?」
「俺のバナナ(ボロン) ってか!とんだ変態野郎だな!」
「何口走ってくれてるんだこの脳みそピンクゴリラァ!」
「にゃべっ」
我が宝刀がゴリラの魔物に突き刺さる。会心の一撃だ。
「四谷、叩くこたぁないだろぉ。」
「ふはは、いつの時代も物事を解決するのは暴力が一番だー。」
「魔王みたいな事言いやがって。」
「誰が魔王だ、俺は勇者だ。」
「は?」
「ごめん何でもない3秒で忘れて、いや忘れろ。」
我が呪われし宝刀《ソード・オブ・キョウカショマルメターヌォ=カタガツイトゥア》で今度は剣道の構えをとる。
「1 2の…… ポカン!」
「おれは さっきまでの できごとを きれいにわすれた!」
「お、時間前に二人とも席についているとは。感心感心。」
先生が意外そうな顔をしながら教室に入ってきた。
「ワタシハ、ダレ?ココハ、ドコ?」
「しまった、強く殴りすぎた。」
実際は音だけで強く叩いたつもりはなかったんだが…一発目はともかく。
「田中、ボケてないで授業始めるぞ。課題はやってきたか?」
「カダイ…課題…課題!今から四谷に見せてもらうとこッス!」
「…つまり、お前は課題をやってきていないんだな?」
「今からやるとこッス!」
「よし、田中がそんなに先生に勉強を教えて欲しいなら今日はつきっきりで授業だ。」
「アイエエエエ!マンツーマンナンデ!?」
「よし、マンツーマンなら俺は帰ってもいいな!田中、お疲れ!」
「あ、四谷裏切ったなあああああ!」
「ちょっと待て四谷。やってきた課題見せてみろ。」
逃走失敗…。渋々やってきた課題を手渡す。
「………やればできるんだったら最初からやってこい。」
「じゃあ帰ります!おつk」
「このプリント終わったら帰っていいぞ。」
逃走失敗………。渋々プリントを受け取る。
「やーい四谷捕まってやんのー!」
「俺よりガッチガチに捕まってる奴にそれ言われたくない。」
「さあ田中、今日で補講終わりにしたいんだったら気合い入れてやれよ!」
「嫌じゃ嫌じゃ!マンツーマンなら綺麗でちょっとガードの緩そうなお姉ちゃん系の先生じゃなきゃやだああああ!」
「何でお前は好みのタイプ暴露してるんだ…。」
プリントを手に、席に座る。
ふと、後ろを振り返る。
夏休みが始まるまでの俺の席に雨が座っていた。
正確には椅子にではなく机に、だが。
教室の窓から、雨が降るか降らないかの瀬戸際のようなどんよりとした雲が広がる景色を眺めている。
外を眺めている雨を眺めていると、向こうもこちらに気付いたようで、パタパタと足音を立てて駆け寄ってくる。
その様子を他の二人は全く気付かない。
「ねぇ、四谷くん。」
雨が話しかけてきたが、二人がいる前で声に出すわけにはいかないので筆談で返事をする。
『何?』
「男の子ってみんな大人のお姉さん好きなの?」
思わず吹き出して机に突っ伏す。
「どうした、四谷。」
「ナンデモ、ナイデス。」
雨は俺のリアクションにご満悦のようでお腹を抱えて笑っている。
その様子も他の二人は全く気付かない。
「で、実際のところ、どうなの?やっぱり男の人は大人のお姉さんの包容力には抗えないの?」
『ノーコメント 絶対に教えない』
無言で首を横に振り、こう書き示した。
「ぶー。減るものじゃないし教えてくれてもいいじゃん。」
『威厳が減る』
「そんな死にステータス、どうせ使わないから放置安定だよ。」
『死にステ言うな』
「あ、そこの答え間違えてるよ。」
話半分でやっていたプリントをよく見直すと、確かに回答に間違いが見つかった。
小さく『thx』と紙の端に書いて再び問題を解き始める。
「でも一夜漬けでここまで解けるようになったんだったら上出来だよ。えらいえらいー。」
おれの いげんは さいていへんまで おちた。
考え事をしていて目の前の課題に集中できず、結局問題を解き終わったのは、授業の終わりを告げるチャイムとほぼ同時刻だった。
「よーつーやーなーぜーうーらーぎーっーたー。」
授業が終わって先生が出て行った途端、教室内に田中がゾンビのような声が響く。
「ひどい声だな…。」
「ひでぇのは四谷だよ!俺一人に先生押し付けやがって!」
「大体の原因はお前が課題やってこないからだろ。」
「それは四谷が課題見せてくれなかったからじゃん!」
「誰も見せないなんて一言も言ってないぞ。お前が変なところで話を広げて自爆しただけだ。」
「………確かに!!!」
「きみはじつにばかだなぁ。」
「それで思い出したけど、四谷の家庭教師ってどんな人なんだ?優しい?可愛い?写真ある?てか連絡先教えて???」
「何を聞こうとしてるんだよ。」
「いいじゃん減るものじゃないし。」
「お前もそれ言うのか…。」
まさかその言い方、流行ってるのか?流行っちゃっているのか?
話題の中心である家庭教師の雨はニヤニヤと無言でこちらを見つめているだけだ。
「頼むよ〜。どんな風に可愛いかだけでもよ〜。教えてくれよ〜。」
語尾と体をくねらせながら距離を詰めてくる。正直気持ち悪い。
「ほら四谷くん、親友の頼みだよ?答えてあげようよ!」
雨も雨で、手拍子をしながら催促してくる。分かって言ってくる分、尚タチが悪い。
「絶対教えん!口が裂けても言わねぇからな!」
「そんなに家庭教師を独占したいかー!独占禁止法を知らないのかー!法律でも禁じられてるんだぞー!」
「お前、意味わかって使ってないだろ。」
独占禁止法とは、資本主義の市場経済において、健全で公正な競争状態を維持するために独占的、協調的、あるいは競争方法として不公正な行動を防ぐことを目的とする法令の総称ないし法分野である。
…そんなことはどうでもいい。
「お前も早く帰りたいんだったら、そのプリントさっさと終わらせろよ。」
田中の机の上には、俺がさっきまでやっていたものと同じプリントが全く手のつけられていない状態で放置されている。
「ちくしょう!やってやるよ!待ってろ俺の夏休みいいいいい!」
やけくそではあるが、田中もようやくプリントに手をつけ始めた。
「じゃあ俺帰るから。夏休みのどこかでまた遊びにでも誘ってくれ。」
「おう!またな四谷!」
田中は俺が教室を出るまでこちらに手を振り続けた。
教室を出て、周囲に誰もいないことを確認してから、大きなため息をつく。
「今日は余計に疲れた…。」
「結構いろいろなこと試したけど、本当に二人して気付かなかったね。」
雨は補講中、田中の眼の前で手を振ったり先生に向かって猫騙しをしたりと多種多様な嫌がらせ、もとい検証をしていたが気付く様子を一切見せなかった。
そんなことをされて集中できるはずもない。逆に時間内にプリントを終わらせたことを褒めてほしいぐらいだ。
完全無視を決め込まれ落ち込んでいるかと思ったが、声色的に大丈夫そうで少し安心した。
「ねぇ四谷くん。」
「何だよ。」
「学校の屋上、行かない?」
「…これはまた唐突だな。普段鍵がかかっていて入れないの、知らない訳じゃないだろ?」
「知ってるよ。そこで活躍するのが私の能力なのです!」
えっへん、と雨は控えめな胸を張る。
「鍵が開いてないのだったら職員室に忍び込んで取ってくればいいのだ!」
職員室前に怪しげに忍ぶ影が二つ。
うち一人は空気と喋っている完全な不審者な訳だが。
「夏休みの昼間に職員室の警備が手厚いわけがない…はず!」
「よし、見てこいカルr、じゃない雨。」
「何で死亡フラグ立てるの私死にたくないよ!?」
洋画では一種のお約束である、偵察任務に行かせる台詞を投げかける。
大抵の場合、襲われて帰ってこないことで有名だ。
「私、この偵察が終わったら屋上で日光浴するんだ…。」
「夏場にやることじゃないだろ、それ。」
周囲のクリアリングを済ませ、ドアの前にしゃがみ込む。
「で、具体的な作戦は?」
「まずは私が入って先生の数と鍵の所在を見てくる。合図したら見つからないように屈んだまま入ってきて。前後の様子は私が指示するから。」
思っていたよりはまともな作戦だった。
「じゃあ行ってくるから扉ちょこっとだけ開けて。」
指示通りちょこっと開ける。具体的には雨の胸辺りが引っかかる程だけ開ける。
「…もう少し開けてくれない?」
ーーー控えめなものも、強調すれば、良さみを感じる。
…何を言っているんだ俺は。
堪能したので、雨が通れるまで扉を開く。
「んんっ…しょっと。うわ、本当に先生少ない。」
憶測で作戦を立ててたのかよ、とツッコミをいれそうになったがグッと堪える。
「さてと、かーぎーかーぎー………あ、これかな?四谷くーん!鍵あったよ!」
扉は声が通る程しか開けていないが、ぴょんぴょん飛び跳ねる雨の姿が容易に想像できる。
そのまま雨が鍵を持ってきてくれれば万事解決なんだがな…。
雨が扉の向こう側まで戻ってくる。
「えっとね、職員室の中にいる先生は3人だけかな。」
昼食をとりながらパソコンを触っている他クラス担当の先生、いつも湯呑みをすすっている歴史の担当教員のおじいちゃん、渋い顔をしながら電話対応をしている俺達の担任の3人だけ、との事だ。
「たぶん電話してる担任だけ気をつけてれば大丈夫だよ!」
「警戒、任せたからな。で、鍵は?」
「職員室の奥側の壁のちょうど真ん中に鍵がいっぱいかかってる棚あるの知ってる?」
「やっぱりそこか。」
「それの一番左下のやつが屋上の鍵だよ。高さ的に何か長い物で突いて落とす事もできるかもしれないけど、立って一瞬で鍵を取る方が結果的にリスクが少ないかな。」
嬉々として作戦を語る雨。
「じゃ、そろそろオペレーション開始といきますか!」
「見つかったら確実に面倒な事になるんだから、マジで警戒頼むぞ?」
「分かってるよ!」
分かってなさそう。
溜息ともとれる大きな深呼吸を一度。
「…行くか。」
音を出さない事に神経を集中させ、ゆっくりと足を進める。
「その頭の高さなら先生達には見えないはず。ササっと端の机まで移動して。」
職員室にはうちの担任が電話している声とコピー機が紙を吐き出し続けている音が響いていた。
「とりあえずは潜入成功だね!」
雨は絶対にバレないから気楽なものだが、こっちは物音を立てないことに必死なのとバレた時のリスクで心臓が大暴れしている。
「次の通路におじいちゃんがいるから素早く通り過ぎて。」
机の角を曲がり、通路の方を覗き込む。
おじいちゃんは何をするでもなく、ただただ両手で湯呑みを傾けてお茶を飲んでいる。
「夏でもあったかいお茶なんだねー。」
おじいちゃん、何故にこんな暑い夏にも限らずあったか〜いお茶…?
そんなことを気にしている場合ではない。
お茶でまったりしているおじいちゃんを横目に机の影から机の影へそそくさと移動する。
「第一関門突破だね!」
ほとんど関門として機能してなかった気がしたのだが…。
「鍵はすぐそこだよ!」
『関門少ないな!?』と持病のツッコミ症候群が発症しかけたが、気合いで押し込める。
「………はい、はい。確認したところ………」
鍵に近づくにつれ、徐々に会話の内容が鮮明に聞こえるようになる。
「…はい、こちらでも出来る限り調査したいと思います。」
何かの調査の依頼の電話のようだった。
しかし学校から何処かに依頼するのは分かるが、今の言葉回しだと逆に依頼されたようだった。
「四谷くん、早く鍵!取って!撤退!」
雨の声で我に返り、ここへ来た本来の目的を思い出す。
デスクワークをしていたもう一人の先生は今度はプリンターの前に張り付いている。
流石に戻ってくるまでに回収しなければ鍵の回収は困難を極めるだろう。
「…では、こちらからも雨月さんの親御さんに連絡をしますので。」
いざ鍵に手を伸ばそうとした矢先に飛んできた雨の名前に思わず二人して固まる。
ーーー先生は恐らく、警察と連絡を取っているのだろう。
先ほどの言葉をつなぎ合わせ、俺の頭はそういう結論に至った。
「お母さんが捜索願、出したんだろうね。」
雨がため息をつく。
「…それでは失礼します。何か進展があればご連絡ください。」
会話が終了するのを察し、受話器を置く音に合わせて素早く鍵を回収する。
雨に合図を送り再び警戒してもらい、素早く転回、来た道を慎重に戻る。
帰りは捜索願の話を聞いてふざける余裕もなくなり、ただ黙々と出口へ進んだ。
「あの先生が椅子に座ったらあとは出口から脱出だよ。」
耳を澄まして座るタイミングを計る。
「よし、GO!」
入る時に開けておいた扉の隙間に飛びこーーー
「しっつれいしまーす!」
勢いよく扉が開き、目の前に田中が現れる。
「あれ、四t」
田中が俺の名前を言い切る前に田中にタックルを決める。
「お前は、俺を、見ていない。イイネ?」
「お、おう…。」
上体を起こすついでに後ろを見ると、雨がすごい表情でこちらを見つめていた。
「四谷くんが田中くんを押し倒してる…。あらあらまあまあ。」
とてつもなく嫌な予感がしたので、即座に立ち上がり田中との距離をとる。
「というか四谷、先に帰ってたんじゃなかったのかよ。」
「部活動の用事だ。」
「ふーん…ってあれ、そういや四谷って部活入ってた…ってもう居ないし。」
一刻も早く職員室から離れたかったので田中に別れを告げずにそそくさと逃げるように屋上へと向かった。
「はーりっ!はーりっ!」
雨に煽られて屋上への扉に鍵を差し込み、捻る。
カチャン、と音を立てて鍵が解除された。
「よかった、ちゃんと鍵合ってたね。」
「これで鍵が間違っていたら、さっきまでの冒険が完全に無駄足になるからな。」
扉は永らく開けられていなかったのか、悲鳴のような音を立てゆっくりと開く。
「さぁさぁご開ちょ………うわぁ。」
屋上は当然ながら一切手入れがされておらず、空調の室外機から吐き出される生暖かい空気が合わさり、最強に不快だった。
「予想はしてたけど、かなり汚いな…。」
曇り空で日差しが強くないのが唯一の救いだった。
「うおー!見晴らし、ちょーいいー!」
雨は屋上からの景色に興奮している。
『大きな声を出したら先生にばれるぞ』と注意しようとしたが、が今の雨の声は自分しか聞こえない事を思い出し、言葉を引っ込める。
「いえーい!みんな見てるぅ?」
ちゅ、注意しないでおこう…。
「やっほー!やっほーやっほー…」
聞いているこっちが恥ずかしくなってきたので流石に止めさせた。
「いやぁ、テンション上がっちゃって。お恥ずかしい限りです…。」
「セルフエコーとか悲しくなるだけだから止めようね…。」
雨は話を聞かずにグラウンドで部活をしている生徒たちを眺めている。
「みんな頑張ってるねー。」
屋上にはフェンスはなく、身を乗り出すように眺めている姿は非常に危なっかしく見えた。
「あまり身を乗り出すと危険だぞ。足を滑らせないようにその体勢のまま、そーっと戻ってくれ。そーっとな。」
今の雨は空元気モード(仮)の感じがする、警戒するに越したことはないだろう。
「四谷くんは心配性だなぁもぅ。」
俺の必死の懇願を聞き入れてくれた雨は、かがんだ姿勢のままゆっくりと後ろに下がってきてくれた。
「で、そろそろ無茶してまで屋上見に来た理由、教えてくれてもいいんだぞ。」
雨はパッパッ、と軽く膝を払い遠くの景色を見る。
「何かこの景色を見たら、昨日何があったか思い出せるかな、って。」
その横顔からは不安が隠しきれない程に滲み出ていた。
「…何か、思い出せそうか?」
昨日の柳の下での出来事が頭をよぎる。
あの雨の反応が偶発的なものではなく、何かをきっかけに起こるものならーーー
「景色…何か………思い…」
途端、雨は頭を抱え酷く苦しみ始めた。
「雨、大丈夫か!?」
やはり、偶然ではなさそうだ。
きっと何かを思い出そうとすると、頭痛に襲われるのだろう。
苦しそうにしている雨に、俺は何もしてやることができない。
触れることすら、できないのだ。
「平気…平気。」
雨から強がりの言葉を聞きたい訳じゃない。
雨に記憶を辿らせるのは、駄目だ。
これ以上辛い思いをさせたくない。
「雨。」
「…なぁに?」
「腹減ったから街に行って何か食べようぜ。」
雨が呆気にとられている。
「四谷くんが突拍子もない事言うの、珍しいね。」
「雨だけの専売特許って訳じゃないからな。」
苦痛の表情が少しだけ和らぐ。
「…じゃあ四谷くんの奢りね!」
「何故そうなる。一応聞いておくけど、雨は何が食べたいんだ?奢らないけど。」
「んー………満漢全席?」
「食べたい物を聞かれて出てくる答えじゃないだろ、それ。」
「私はどうせ食べられないし、四谷くんの食べたい物でいいんじゃない?」
「食べたいもの…特に思いつかないな。」
「四谷くんから言い出したのに?」
「むぅ…じゃあハンバーガーでいいか。マクロヌルド確か今、ドリンク100円だったはずだし。」
「マクロ行くなら私バニラシェイクね!」
「…しょうがねぇな。」
「やった!」
雨がぴょんぴょんと跳ねる。
「じゃあ早く鍵返してマクロ行こう!」
「………おおっと、何故か屋上の鍵が扉に差しっぱなしだぞ!一体誰がこんな不用心な事をしたんだー!俺は何も見ていないぞー!」
勢いよく扉を開け、わざとらしく鍵穴に鍵を差し込むだけ差し込んで放置、そのまま屋上から逃げ出した。
空には変わらず鈍色の幕がかかっているにも関わらず、ジメジメした空気のせいで汗が止まらない。
駅に近づいて行けば行くほど車の往来が増え、更に夏の暑さに拍車をかける。
建物と建物の間を通るたびに体に吹き付ける熱風が不快感を加速させていた。
「…四谷くん、大丈夫?」
「暑すぎてだんだん溶けてきたわ…。」
「四谷くんスライムになっちゃうの!?」
「明日にはきっと立派なスライムになってるさ…。」
「ついに四谷くんがツッコミを放棄し始めた…これは重症だね!」
雨がこちらの顔に向けて手をパタパタさせている。
しかしその風はこちらに届くことはなく、夏の熱風の前にかき消されるだけであった。
「あともう少しだよ!ヘーイ、よっつーや!よっつーや!」
手でこちらを扇ぐことをやめたと思えば、今度は珍妙な声援とともに反復横跳びをしながら俺の前を先行する。
「…なんだよ、そのよく分からない応援は。」
「えへへっ、元気出た?」
「ツッコミを入れないと余計に面倒な事になりそうだからな。」
「…あれ、もしかして若干馬鹿にされてる?ねぇ、ねぇ!」
「ふぅー…あぁー…すーずしー…。」
店内に入るや否や全身で冷えた空気を感じ、文明の利器に感謝する。
カウンターから店員がこちらを冷ややかな目で見ているような気もするが、今はこの天からの恵みの息吹を満喫しよう。
「いらっしゃいませーご注文をお伺いしますー。」
汗も引き、落ち着いてきたので雨と一緒にメニューを見る。
「期間限定のバーガーかぁ…でも高いなぁ…。」
「んーなに食べようかなー。」
雨は食べられないだろ、と心の中でツッコミを入れながらも自分だけ食べることに少し罪悪感を抱く。
「それじゃあ…」
「おねぇさんのスマイル、テイクオフで!」
「ブェゲッホッゴホッ!」
雨の不意打ちに思わず吹き出しむせる。
店員に不審の目を向けられる。
「…すいません、このバーガーとポテトM、コーラLサイズで。あとバニラシェイクください。」
「ご注文を承りましたー。」
受け取った商品を持って辺りを見渡し、人の少ない場所を求め2階へ上がり端の方の席へ座る。
店内には夏休みを迎えて涼める場所とジュースを求めて集まってきた小学生の軍勢が携帯ゲーム機を片手に騒いでいる。
「最近の子は外で遊ばないんだね。」
「俺たちがあれぐらいの頃はセミとか捕まえに行ったもんな。」
物を動かせない雨の代わりに椅子を動かす。
「ありがと。」
ようやく一息つけ、深い溜息を吐き背もたれに沿うように体を反らし、天井を仰ぐ。
「セミを取りに行った話って四谷くんが途中で飽きてやめちゃって虫取り網を代わりに持って帰った記憶しかないんだけど。」
「…記憶にないなー、うん。」
「で、その帰りに腹いせに私がセミの抜け殻を四谷くんが気付くまでいっぱい背中に付けてたんだけど、四谷くん全然気付かなくてそのままぐしゃっと潰しちゃって。」
「待て待てそれは本当に知らんぞ!?」
思わず背中を触って抜け殻を付けられていないか確認する。
「あははっ、昔の話だよ?」
雨が無邪気に笑う。
「…分かっちゃいるけどさぁ。」
ばつが悪そうな顔をし、背中の確認を終えたのちにハンバーガーに手を伸ばす。
「セミで思い出したけど、捕まえに行ったあの公園、回転するジャングルジムあったの、覚えてる?」
ハンバーガーを頬張って開けない口の代わりに頷きで返事を返す。
「あの遊具さ、ここ最近危ないからっていう理由で固定されちゃったって知ってた?」
乗っていたら雨が外から全力で回してきて降りることもできず気分が悪くなったという記憶が蘇る。
…よく考えたら、昨日似たようなことをやり返したな。
「いや、知らなかった。雨はどこで知ったんだ?」
「公園の近くを通った時に懐かしい遊具を見てふと回したいなーって思って、勢いよく飛びついたら全く回らなくてね。そしたら近くにいた奥さんが『それ、固定されてますよ』って教えてくれたの。」
「…すまん、それいつの話だ。」
「んー、三ヶ月前ぐらいかなぁ。」
「高校生が一人で遊具に飛びついて恥をかいた挙句、それを人に見られたのか…。」
雨ってもしかしてかなりの馬鹿なのでは?
「今の子ってちょっとかわいそうだよね。あんなに楽しかった遊具で遊べないなんで。」
「今の子はゲームで遊ぶ方が楽しいんだろ。」
雨は騒いでいる小学生の軍勢を眺めている。
暇そうにしている雨を見てポテトを食べていた手を止め、バニラシェイクの容器にストローを刺し雨に渡す。
「ほら、雨。」
「あ、くれるの?」
「雨が奢れって言ってきたんだろ。」
「そうだった、四谷くんありがと!」
嬉しそうにバニラシェイクを飲もうとしてストローを咥える。
「…やっぱり飲めないじゃん!」
「そんなことだろうと思った。」
「ぐぬぬ…。」
「ところで雨、腹は減ってないのか?」
「不思議と。漠然と何か食べたいなーってぐらい。お腹が減ってるってわけじゃないよ。」
「それは昨日からか?」
「意識すらしてなかったから、たぶん。」
「…無理だけはするなよ。」
仮に雨が空腹を我慢していたとしても、どうしようもないのが現状だが。
「四谷くん、この後はどうするの?」
………どうしようか。
正直全く考えていなかった。
今は出来る限り雨に負担をかけないよう、この一瞬だけでも現状を忘れて気を楽にしてほしい。
「このまま駅周辺をある程度散策してショッピングモールまで行く。」
「あ、あのショッピングモール?」
雨が指差す方には直接は見えないが駅をまたいでさらに奥に、今年の春できたばかりのこの近辺では一番大きいショッピングモールがある。
オープン当初に一度行ったが、家から少し遠いので足を運ぶ機会はほとんどなかった。
「色々なお店あるから行くたびに新しい発見あって好きなんだよねー。」
楽しそうに語る雨を見て安堵する。
頭痛が起こらないということは恐らくショッピングモールは記憶には関係ないのだろう。
現状思い出せていないだけで、何かがトリガーとしてまた頭痛を引き起こすかもしれないが。
そうならないことを願うばかりだ。
「そろそろ移動するか。」
容器の底でしなしなになったポテトを平らげ、飲み終えて氷とコーラの風味が僅かに残る氷溶け水しか入っていないドリンクをズズズと音を立てて飲みきる。
「あ、四谷くん。私飲めなかったからこれ、飲んじゃって。」
雨が口をつけたが手付かずのバニラシェイクを指差す。
手に取ると少し緩く中身も一部液体化していた。
しかし、実際に飲んでみると非常に冷たく感じた。
…これは間接キスになるのか?
熱くなった頬を雨に悟られまいと一気に流し込み顔を冷やす。
顔が熱いのは夏の暑さのせいだと冷房の下で決めつけ、そそくさとゴミを片付け店を後にした。