夏の端
夏の端
高校を中退してから一ヶ月が経った頃の僕は、今日の昼下がりに東京の都心にある駅のホームで、飛び込み自殺をしようとしていた。今から約三時間前、十五時頃のことである。その時は八月の熱気と人々の密度が相まって、かなり暑苦しかった。駅のホームの奥を覗くと、僕がこれからすることをまるで咎めているかのように、抜けるような青空が澄み渡っていた。「二番線に、回送の電車が通ります。ご注意ください」と、回送の電車が駅を通り過ぎることを伝えるアナウンスが入ると、僕は遂に決心した。その電車が来る駅のホームでは、三十人程が電車を待っている。僕は緑色が目立つチェックシャツと群青色のデニムズボンという格好をしていて、それらは汗で酷く濡れていた。周りの人々はスマートフォンに齧り付いていたり、カップルで賑やかに会話をしたりしていた。
遠くから「ガタンゴトン」という音が近くなると共に、時々耳障りな金属音が聞こえてきた。僕は線路から五メートル程離れて電車を待機していた。既に電車は、正面の行き先を示す文字が見える程には迫っている。
そして今、電車は僕が走り始めれば恐らく死ねるところにまで来た。僕は短距離走は得意ではなく、それなのに息を切らすのも恥ずかしかったので、学校での記録は手を抜くことばかりであったが、 最期くらいは思い切り走ろうと思った。全速力で人々の間を通り抜けていく……しかし、その時だった。
「ファーーーーンッ!!」
電車のクラクションが勢い良く鳴り出した。僕は狼狽え、足が止まってしまった。「ゴォーッ」と音を立てながら電車は、目の前を五秒も経たずに通り過ぎて行った。
暫く呆然と立ち尽くしていた。肝心な時に腰抜けである僕の性分は、昔から変わっていなかった。次第に恥ずかしさが込み上げてきた。
不意に、後ろを振り返った。驚いたことに、僕を見ている人は誰もいなかった。相変わらずスマートフォンの画面をタップしていたり、カップル同士で笑っていたりした。
僕が走り出した時には見ていたのかもしれない。けど、いざ死なないとなったら見ていても仕方が無いし、目が合って絡まれても困ると思ったのかもしれない。自業自得ではあるが、侘しくて堪らなくなった。
僕が命を絶とうと最寄りの駅に来たのは、午後になって精神科のある病院へと行き、実家である自宅に帰ってから"死にたい"という衝動に駆られて、手っ取り早く、そして楽に死ねる方法が飛び込み自殺だと思い立ったためである。これは原因としては先程自宅で、自分がADHDという発達障害を抱えていることに思い悩み、疲弊していたのが大きかったのだと思う。
僕の場合は、ADHDという発達障害の三つの症状(不注意性、衝動性、多動性)のうち、多動性(例としては、学校で授業中であるのにも関わらず立ち歩いて教室を出て行ってしまったりなど、異常に落ち着きが無い状態)が無いものを診断をされた。これを不注意優勢型のADHDと言われている。取り敢えず、中学時代に僕が経験した例を二つ挙げれば、どのような症状が僕にあるのかを大体は理解できるだろう。これはどちらも、自分が発達障害であるとはまだ知らないどころか、その存在すら知らなかった頃の話である。
一つ目は、人の話が上手く頭に入らなかったことについて。高校受験まであと一ヵ月を切った、二月の日のことである。元々クラスメイト達は受験への士気は高く、その頃には授業中に私語をする人はいなかった。先生は復習として中学一年生の時に勉強する、方程式の基礎的な範囲を授業として進めていた。僕はその間、"不意に頭に浮かんだ歌詞の一節"から、それが何の曲だったかを思い出すのに、時間を掛けていた。その思考が頭の中の大半を占めていて、しかし先生は話を進める。僕はそれを止められず、授業の板書を取り敢えずノートに書き写している状態だった。手に力はこもらず、いつの日かあるクラスメイトに「アラビア文字書いてんの?」と言われた僕の汚く薄い字は、罫線の枠をはみ出して書かれていた。そのようであるから、当然授業の内容が頭に入る訳は無く、運悪く先生に当てられたが、「何ページの問題ですか」と答えた気がする。それによってクラスメイト達が僕を嘲笑することは確か無かったが、それは周りが受験に切羽詰まっていたからだろう。主治医には曲を思い出すのに集中し過ぎていたのはADHDの『過集中』(何か一つの物事に集中し過ぎてしまう)と呼ばれる症状で、授業に集中出来なかったのは『不注意』の症状であると教わった。
二つ目は、部屋の片付けがまるで出来なかったことについて。時はさらに遡り、中学一年生の十二月末、家族で初めて大掃除をした日のことである。まず僕の家庭は自分の部屋は自由に扱って良いものとされていたので、部屋がいくら汚くても親に文句を言われることは無かった。しかし、その日は例外だった。その年の大晦日は、珍しく母方の方ではなく父方の親戚が僕の実家に集まり時を過ごそうとしていたため、母方の祖父母が寂しがり、年が変わる前に一度こちらに来たいとのことだった。それならと見栄っ張りな母が、普段はしない大掃除をすることを提案し、祖父母が来る前日にそれをすることになったのだ。
僕の部屋は荒れ放題で、床が三、四箇所だけ隙間のように見える程だった。いつか部屋を綺麗にすればいいと、引き伸ばしていたためである。僕はようやくこのタスクに取り掛かる機会が出来たわけだが、いざ向き合うと不思議なことに、一度目に付いた本や今もたまに遊んでいるゲーム、使う場面の無くなった教科書やノート、脱ぎ捨てられた服の模様などに気を取られ(それらを見てはそれに関連する“何か”を考えると、それを結局床に置いてしまい、今度は次の目に付いたものに意識が行く、というのを繰り返していた)、最後まで片付けることが出来なかった。『本のあとは服を片付ける』といったように、順序立ててタスクを終わらせられないのは、目の前のことへ衝動的に興味を抱いてしまい、そこからなかなか離れられないからである。結局、祖父母には僕の部屋は見せられなかった。僕が幼稚園児の時に初めて来て以来だったので、その頃は無かった僕の部屋を祖父母は楽しみにしていたのに。ちなみに、このようなことを引き起こした症状は『衝動性』によるものだった。
僕はこのように思考や衝動に邪魔されることが、日常的になっていた。周りの人も多少の差はあっても、目の前のことと関係のない何かが頭の中に浮かんでいたり、自分の衝動的なものに振り回されていたりして困っていることが普通にあるのだと思っていた。それに、中学時代は小学生の頃の友人が少なからずいたため、僕の“変なところ”をわざわざ非難する人はいなかったので、余計にこれが変だとは思わなかったのだ。
しかし、高校に入ってからは違った。地元から少し離れたところにあるその学校には、中学時代の友人が一人も進学しなかったので、僕の起こす珍事を受け入れてくれる人はいなかった。クラスメイトのあるグループは僕に何が起きているのか分からず、僕を嘲笑し、入学してから一ヶ月も経たないうちに僕を虐め始めた。教科書やノートは破り捨てられ、机には落書きされ放題で、放課後には学校の外で暴力を受けることもあった。それらは次第にエスカレートし、自分の性質もあって成績不振に陥った。毎日が憂鬱で、高校に入学してから三ヵ月程が経った頃には、僕は中退をしていた。
発達障害だと診断されたのはそれからの話である。高校を辞めてから一度冷静になり、自分の憂鬱さを改善したくて精神科医に相談したところ、ADHDとうつ病が自分にはあることが発覚したのだった(ASDという発達障害の傾向もあると言われた)。もしかしたらADHDはグレーゾーン(発達障害を診断される程ではないが、その傾向はある)で、他の病気である可能性もあるとのことだった。そのことは今でも気掛かりではある。
ストラテラというADHDの薬剤を使っても尚、症状は軽減するだけで完全には治らなかった。ADHDの薬剤ではコンサータというのもあるが、出せる医者が限られていて、僕が行っている病院では出すことが出来なかった。出せるところを探すのも面倒で、今は気が向かない。
僕は昔から“このような"自分の性質が無ければ本当は出来る、という気持ちが積み重なったためか、どうしても自分を受け入れることができなかった。両親は僕の現状について納得してくれたのだが、僕自身は立ち往生したままだった。あまりにも先が見えない。
結局、僕は自殺を諦めた。今は駅から帰宅するために、駅員に切符を使わずに戻ることを伝え、外に出てから暫く歩いたところにある外装が所々赤茶色に錆びている歩道橋を歩いていると、何となく立ち止まりそこから道路をぼんやりと眺めていた。上を見上げると、空は赤み掛かっている。真夏の東京の都心は今のような夕暮れ時でも、暑かった。生まれてからずっと馴染みがあるが、未だに慣れることは無い。時々慰めてくれるかのように、小さく生暖かい風が吹いた。
眺めている道路を車が通ると、その車名を一々思い出していた。小さい頃から車には多少の関心があり、気が向いた時にはこうやって目の前で通る車を目で追い掛けていた。しかし、日本車はあまり好きではなく、外車ばかりに知識が偏っていたため、本当に好きな車を実際に見ることは滅多に無かった。たまにフォルクスワーゲンやBMW、アルファ ロメオなどの外車が通ると、かっこいいなと思う。
すると偶然、なかなか街中では見ないランボルギーニのアヴェンタドールを見つけた。黄色のボディで、丁寧に磨かれていた。この外車は新品で四千万円程もするスーパーカーで、僕がこの人生において手にすることは無いだろう。ただただ、憧れるばかりである。
そして、僕の“思考”は始まった。どうして僕が発達障害であることを、今更になって知ったのだろう? 小学生の時にでもそのことについて知って、薬剤の使用や生活の工夫を凝らせば、今頃アヴェンタドールだって買えるような社会のレールに乗っていたのかもしれないのに。しかし、ADHDなどの発達障害は、成人になってようやく気が付くケースも普通にあり、早期に発見出来るか否かは人によりけりだった(僕自身、“これは性格である”と思い込んでいた節があり、診断が遅れたのは事実である)。そしてもう一つ、何故誰も僕に病院を勧めなかったのだろう? それは僕が取り繕って、まともなフリをすることに努めていたのが、逆に悪かったからなのかもしれない。
「(僕の頑張りは、結局自分を苦しめただけだったんだ……)」
"ここで頭から飛び降りれば、運良く死ねるかな" 、そんな思いが不意に浮かぶと、頭から離れなくなった。「死にたい」という言葉が僕の頭の中で何度も繰り返される。
「(死にたい死にたい死にたい死にたい……)」
すると突然、僕の背中に“何か”が当たった。それが床に落ちた音が聞こえ、目を向けるとボロボロのサッカーボールが転がっていた。
「ごめんなさーい! 待ってて!」
遠くから少女の声が聞こえてきた。声からしてまだ小学校低学年くらいの子だろうか?
僕がボールを両手に待っていると、少女は歩道橋の階段を上ってこちらに走りながら言った。
「はあ、はあ……ごめんね!」
少女は僕の目の前にまで来た。暫く息を切らしてから再び謝る少女は、見た目的には予想通り小学校低学年程で、真夏の暑さにも負けないような赤い色をしたジャージを着ていた。そして、不意に僕に訊いてきた。
「そこで何してたの?」
「別に。車を見てただけだよ」
「車が好きなの? あやの弟も好きなんだ!」
その少女は“あや”という名前らしい。今ではなかなかこのような小さな子供と話す機会は無かったし、僕自身の“純粋な”興味があったためか、少女の話は上手く頭に入った。恐らく、今後はこの興味という名の衝動によって、周りが見えなくなる程に会話に没頭するのだろう。直感的にそう感じた。
「私の弟はね……」
「君こそ何してたのさ」
僕はあやの話を遮った。相手が話している時にこちらが話をしてしまうことは、ADHDの症状としてよくあることらしかった。
それでも、あやは構わず答えた。
「サッカーの練習をしてたんだ。女の子がするのは変だってみんな言うけどね、でも、好きなんだ!」
無邪気に話していた。目が煌めいていた。
「何かチームに入ってるの?」
「ううん、お母さんがお兄ちゃんの分でもうお金が無いからダメだって。それに、女の子だからって……」
あやは悲しそうだったけど、小さく笑っていた。強がっているのかもしれない。
「けど、お兄ちゃんと練習出来るからいいんだ。楽しいもん! それにね、いつかプロになるんだ!」
「そっか……良かったね」
僕は羨ましかった。確かにチームに入れさせてくれないのは、あやにとっては辛いことかもしれない。けど、この子は夢を持っていて、それに向かってきっと努力もしているのだろう。しかも、協力してくれる兄弟だっているわけだ。親に"それは良くない"と思われていたとしても、それを好きでいるなら、取り敢えず進む道はある。羨ましいのは、僕には夢を支えてくれる人がいないどころか、本気で目指している夢も無いからだった。
自分の中で夢はコロコロと変わってしまう。何かに感化されて新しい夢が頭の中に浮かぶと、前に思い描いていた夢はどうでも良くなってしまうからだった。高校のクラスメイト達は夢など無いと言う人が殆どのようだった。僕は悔しかった。あの人達と違って様々な夢(車の設計者になりたいだったり、不老不死を実現する科学者になりたいだったり)が出来るのに、いつまでも一つに定まらないことが。これも、ADHDであるからなのかもしれない。
「夏休みだから今日は沢山サッカーしたよ! あっ、そろそろ帰んないとダメかも。ボール返して!」
あやは唐突にそう言ってから両手を差し出す。そう言えばまだ返していなかった。僕はサッカーボールを渡した。
「ありがと! じゃあねー」
後ろを振り向いて走り始めた……その時だった。あやは僕の方を振り返り、こんなことを言ったのだった。
「あ、歩道橋って危ないから気を付けてね! お母さんが"自殺しようとする危ない人もたまにいるから、歩道橋を眺めている人には近寄らないで"って言ってたけど、お兄さんは違うよね? だって、自殺は“悪い人”がするもんだもん。“命を大切にしないダメな人”がすることだもんね! お兄さんはそんな人じゃないでしょ? だって、ちゃんとボールを返してくれ……」
「は、今なんて言った?」
突然、怒りの感情が湧いてきた。僕はそれを抑えられなくなる。
「自殺は悪くねえよ! 本当に苦しくて何も出来る気がしなくて、それで最期にやっとの思いでするようなもんなんだ。何も知らずに言うなよ、てめえ!」
衝動的に思っていることを、大声であやにぶつけた。しかし、不意に我に返るように怒りが収まった。あやは今にも泣きそうな顔をしている。僕は謝った。
「……ごめん。ついカッとなっちゃって。てか、俺みたいなのはもう死んでるようなもんだからな。自殺なんて出来ないくらい」
小さな子供に僕は何を言っているのだろう、そう思ったのはこれらを口にしてからのことだった。恐らく小学生なのだから、命を大事にするべきであることは大人に説かれている筈だし、自殺が悪いことだと思うのは当然だろう。それに、“俺みたいなのはもう死んでるようなもんだからな”なんて、わざわざ少女に話す必要が無かった。大人気無いことをしてしまった。
しかし、少しだけ間があってからのことだった。あやは生真面目な表情で、励ますようにこう言った。
「死んでなんかいないよ」
少しだけ声は震えていた。それからまた、元気な口調に戻った。
「ちょっと、お胸を頂戴! ここにしゃがんで」
「え?」
「いいから、早く!」
僕は言われた通り、あやの目の前でしゃがみ込んだ。あやはサッカーボールを足元に置くと、僕の左胸辺りに触れ始め、そのままこう言った。
「ほら、“心臓が鳴ってるよ”。ドクンドクンって。だから……大丈夫だよきっと。死んでなんかいないもん」
今までで一番落ち着いた態度で話すあやのその言葉には、不思議な説得力があり、じんわりと温かく、胸に込み上げるものがあった。
「あやの心臓もそうだよ」
僕の右手をあやは、彼女の左胸辺りに持って来た。いい年をした青年である僕が、偶然会ったばかりのまだまだ幼い少女の胸元を触っていることに違和感はありつつも、次の言葉を待った。
「ほら、ドクンドクンって言ってるでしょ。私達、“同じ”だね」
そう言われてから、僕はあやの鼓動を確かめた。“ドクンドクン”。小さな振動がそこにはあった。それは、尊い生命のように思えた。
気が付くと、僕は啜り泣いていた。涙が止まらなくて仕方が無くて、そのまま笑いながら言った。
「あやちゃん、面白いね。わかった。もう大丈夫だよ。二度とそんなこと思わないから」
きっと、“そんなことは無い”んだろうなとは思いつつも、僕はそう願って言った。もしかしたらこの子の言う通り、大丈夫かもしれないから。
「お兄さんって、怒ったり、泣いたり、笑ったりで忙しいね!」
「そうだね、本当。てか、帰らないとまずいんじゃない?」
「あ」
気が付くと、あやと最初に会った時よりも、随分と辺りは暗くなっていた。赤み掛かっていた空は、灰色の雲に覆われて見えなくなっている。
「うん、じゃあね!」
あやは照れながらそう言うと、サッカーボールを抱えて颯爽といなくなった。全く、どちらの方が忙しいのだろう? と思うと、可笑しかった。
「(家に帰ってから、車について調べよう……)」
僕はそう思うと、歩道橋を歩き始めた。
自宅まであと数分という時に、降り出した雨粒が肩に落ちて、服が小さく染みのように濡れた。次第に五秒程の間隔で雨がぽつりぽつりと降り、僕は初めて中途半端なそれを悪くないと思った。