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読んでも読まなくてもどっちでもいい

きみはありがとう

作者: 阿部千代

 ぼくはいますぐ灰色の街に辿り着いたのでした。道のど真ん中に落ちていた、鳥の足を視界の端の端に追いやりながら、これは何かの予兆なのだろうか……? そんな決してよいものではない予感を、ぼくは思わずジャケットの胸ポケットからロケットの形をしたボールペンを取り出し、手帳に書き付けたものです。

 鳥の足は、鳩のもので間違いないでしょう。あの爪には見覚えがある。きっと、あのよく晴れた日に、カラスがついばんでいた鳩なのではないですか。

 もう、何年も前の話です。ぼくがまだ工場で働いていた季節の話ですから。昼休みの話ですから。

 まったく無感動に、振り返りましたが、あの時はそれなりに緊張していたことを忘れてはいけません。死を見る時、いつだってそうではないでしょうか。あの眼鏡が汚れていた背の高い男だって、ぼくの前で死んだのです。巻き込まれて死んだのです。一瞬の出来事ではなかったですか。それは後に、夢だとわかりましたから。


 ぼくの住んでいる場所からはそう遠くありません。今まで一度も訪れたことのないのが、不思議なくらいです。

 電車に乗ると逆に遠い気がするのですが、自転車で行ける距離ではありません。ましてや歩いて行くわけには!

 三人の女性とすれ違いました。彼女たちは笑いながら、

「早寝早起き」

「そうそうそうそう」

 と言って、もっとけらけら笑ったのです。その笑い声がぼくの耳に残って、ぼくは電車に乗っているあいだじゅう、ずっと転動音が、

「早寝早起き」「そうそうそうそう」「早寝早起き」「そうそうそうそう」

 そう聞こえたものだから、ぼくは耳で聞いているのか記憶で聞いているのか聞いていないのか、曖昧な気持ちになりました。一瞬の風景をいつも思い出します。鉄橋にさしかかった頃です。河原の草むらの中、望遠レンズのついたカメラを構えている男です。鳥を見ているのでしょうが、その姿をぼくはしっかりと見ているのです。曇り空の下で、あの男は延々とカメラを構えているのでしょうか。あの時からずっと?


 駅のホームで思い出し、ぎくりとして、立ち止まりました。ズボンのポケットに入っているべきものが入っていない時、ぼくは驚いて立ち止まります。ぼくが急に立ち止まったので、ぼくの後ろを歩いていた紳士は間に合わなかったようです。ぼくにぶつかったのです。紳士の歩くエネルギーがこんなに強いものだったなんて!

「申し訳ありません。考えごとをしていたもので。考えごとをすると、時に立ち止まってしまうものです」

 ぼくはすぐに振り返り、謝りました。その時です。紳士だとわかったのは。

「理解しがたい出来事というものは、突然起こるものだ」

 紳士は眉間に深い皺をよせて、不快感を全身にみなぎらせて、愉快なことなどなにもないと言わんばかりでした。

「ぼくにとっても、痛恨の出来事であることは間違いありません。立ち止まるつもりはなかったのですから」

 言い訳ではなかったのです。それだけはわかって頂きたかったのです。ぼくの願いが通じたかどうか、いまだにぼくはわからぬまま、今日を迎えています。

「まったく驚いた。止まりたくもないのに、自転車のブレーキをかける人間の話なぞいまだかつて聞いたこともない」

「ありえないことではないのでは? 全ての運動を制御しようと言っても、限界はあるでしょう」

「脳の働きと神経の繋がりが健全であるならば、そのようなことは決して起こりえない。あなたは医者にかかる必要があるようだ」


 灰色の街は、濃い雲に覆われていて、皆が一様に理性的な顔をして早足で歩いていました。

 きみはありがとう、そう言ってぼくと別れましたね。さよならではなく、ありがとう、と。それを受けてぼくがなんと言ったか覚えていますか。

 曇り空の下では笑顔になることも罪であるような気持ちになりますね。特にこのような、濃い薄い灰色の雲を見ていると、余計にそうではないでしょうか。寒くもないのに、寒いような気がするのではないでしょうか。音は聞こえていたのか覚えているでしょうか。きっと聞こえていたに違いありません。そうでなければ、ぼくはいまも何も聞こえていないはずですね。

 自動車がぼくを追い越して行きます。何故、ぼくを乗せて行ってはくれないのでしょうか。ぼくが急いでいないように見えたのでしょうか。ぼくは走っているのに! 汗が吹き出ていると言うのに!

 ぼくは家の鍵を忘れてきました。ズボンのポケットに家の鍵が入っていないのが何よりの証拠です。もう、家の中には入れないのでしょう。大切なものが沢山あります。ぼくはその全てを忘れてきてしまったに違いありません。灰色の街にいると、いつもこうです。灰色の街はいつだってそうです。ぼくを顧みません。


「しょうがない」

 化粧落とし液を探していたきみが、そう呟いて、なにかの液体を注ぐような音をぼくは背中で聞いていました。それから……音は止みました。雨が降っていることはわかりました。音はしないのに、雨が降っていることだけはわかったのです。冷たくて、いやらしい雨なのでしょう。


「ぼくは医者にかかるつもりなんてありませんよ」

「それは傲慢というものだ。誰にだって医者にかかる権利がある」

「権利の話などしていないはずですが」

 ぼくはゆっくりと話しました。ゆっくりと話せば、この紳士にぼくの言いたいことがわかって頂けるのでは、そんな思いからです。

「わたしには権利の話をする権利があるし、あなたには権利の話を聞く権利がある。

 勘違いをしてはいけない。あなたは立ち止まり、わたしと衝突した。まさかあなたはその時に何かが変わったとでも言いたいのかね? このわたしに向かってそんな話をしていいと思っているのかね?」

「ぼくが言いたいのは、申し訳ありません、ただそれだけなのです」ぼくはきっと不満を露わにしていたと思います。ぼくの言葉は、ささくれだっていたのです。


 迷路のような灰色の街の位置関係がぼくにもやっと理解できてきた、この頃の話です。あらゆる場所に階段があるので、いまだに昇ったり降りたりしたことのない階段があまりにも多いので、いつからかぼくは階段を見ないようにしていたのでしょう。ぼくが使う階段は一つだけです。薄暗く、多くの人とすれ違うその階段で、人とおしゃべりなどどうしてできるでしょうか。ぼくは階段が苦手になっていたようです。そんなことを言ったら、この灰色の街の全てが苦手なのです。

 それでも、ぼくはこの灰色の街に通い続けているのです。何を探しているわけでもないのに!


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