帰還後、城にて
コルソンの転移魔法により一瞬で城の前まで戻ってきた俺は、その場で手厚い歓迎(?)を受けていた。
俺の前に道を作るようにして二列で並ぶNPCの悪魔たち。彼ら彼女らはそれぞれ悪魔らしく色合いの悪い肌にメイド服やらタキシードやらを着ている。今時旅館でもこんなことしないぞ。
悪魔たちの額には、それが悪魔の証であるかのように縦に細長い宝石のような石が嵌め込まれている。
「では龍太郎様、どうぞ」
コルソンに促され、その悪魔の道を一歩々々と進む。先にはもちろん抜け出した城の入口が。しかもご丁寧に扉が開かれている。
ああ、神崎さんと会うことがとうとうできなくなってしまった……。
俺が無事城に入ったことが確認されると、外に並んでいた悪魔たちもじつに統制のとれた動きで城に入る。まぁNPCだし統制がとれてるのは言うまでもないか。
そして城に入った俺がやることは既に決まっていた。
コルソンによれば、今アドラメレクは急な客人の対応に追われているらしく、謁見まで時間ができてしまったらしい。
正直その間にブレイブシティにとか都合のいいことも考えたが、一度黙って抜け出した身、どう考えても許してくれる様子ではなかった。
無理なものを無理やり押し通そうとするほど俺の頭の中はお花畑じゃないので潔く城の中で時間を潰すことにした。
その時間を潰す方法とは、ズバリ風呂である。
やはり風呂というのはいつでも心躍るもの。世の中のリアルを充実させている輩どもは、男同士女同士で修学旅行とかの大浴場にて裸の付き合いをするのが最初のコミュニケーション獲得の方法の一つらしいが……。
そんなものは否、断じて否である。
本来風呂の時間とは自らに与えられた孤独の時間で、それを自分以外の誰かと共有することなどあってはならない。だって家の風呂とか基本一人用じゃん。確かにちっちゃい時は父親と入ったり姉貴と入ったりもしたけどそういうことじゃないじゃん。要するにあれだ、ひとりの時間は大切ってこった。ひとり最高。
俺が心の中で一人風呂に対する熱い気持ちを語っていると、気が付けば既に大きい浴場の前まで来ていた。よりによって大浴場なのかよ、俺の熱い気持ち返してくれよ。
眼前にはでかでかと男、女とそれぞれ書かれた暖簾が掛かっていた。外は異世界よろしく荒野、城は中世なのに浴場は和。一体このゲームの世界観はどうなってんだよ、これ絶対中華来るでしょ、知ってるよお兄さん。
俺はためらいなく男と書かれた暖簾を潜る。脱衣所は思ったより広く明るい。ドライヤーあるよ、扇風機あるよ、体重計まであるよ、ここは旅館かホテルかよ。おっ、フルーツ牛乳あるじゃん! ちょっと見直したわ。
だが幸い脱衣所に人はおらず、浴場からも声らしき物音は聞こえない。話に聞いた通り、この時間は貸切状態のようだ。
俺は服を脱ぎ、一応腰にタオルを巻いて浴場への入口となる扉を開け放つ。白くむわっとした蒸気が視界を覆い、目を凝らすと中が見えた。
「おおお……」
思わず小さく感嘆の声を漏らしてしまった。
内壁は明るめの茶色で統一され、天井は見上げるほどに高い。シャワーは数えるのが面倒なほど配置されていて、それぞれに仕切りが付いている。
さらに奥には扉があり、そこが露天風呂への入口なのだと俺の中の温泉神が囁く。
早速体を洗うために黒い仕切りで仕切られた一角へと足を運ぶ。
「……ん?」
その途中、といっても数歩歩いて気づいたことなのだが、何やら湯気立ち込める湯船の方で蠢く何かが俺の視界の端に映った。
今俺がいるこの浴場は完全貸切状態のはず。清掃表を見てしっかりと時間も確認してきた。この時間は誰も使わないはずだ。
湯気の方に目をやると、やはり何かが湯気の中で蠢いている。シルエットしか見えないそれは、時々くねくね動き、時々ぱしゃぱしゃと水音を立てる。
俺は可能性を推測した。
この時間は誰もいないはずであってそもそも俺以外に入る者がいてはならない時間だ。そうなれば、考えられる可能性は必然的にひとつ。
俺は元より非科学的なものを信じない質ではあるのだが、それは非科学的なものを“見たことがなかったから”である。見ていないものを信じる道理はない。
だが俺の今目の前でかすかに蠢くそれは、確実に非科学的なもの……幽霊であることを主張している。
見てしまった。俺は、見てしまったのだろうか。
その考えにたどり着いたとき、俺の背筋というか全身に総毛立つ何かが這いずり回った気がした。幽霊? そ、そんなもん、し、し、信じてたまるかよ……。
俺はじっくりその湯気を観察する。もちろん本当に幽霊かどうなのか見極めるためである。湯気に近づいてその実態を確認しないのは、決して怖いからではない。今俺の足が震えている気がするのも、今この地では地震が起きているからだ。絶対そう。信じれば嘘も真実になる。嘘って言っちゃったよ。
観察していると、突然ビクッっとシルエットが震えた気がした。怖い怖い怖い! なにその動き! こっちがビックリするわ!
今まで人で言うところの肩から頭までしか湯気に映っていなかったのが、ざばぁという音とともに人型を成して俺の視界に飛び込んできた。
すらっとした首元に、ぽこっとすこし膨らんだ胸部と思われる個所。そこから下へと形成される腹部と腰にかけてのラインは、湯気の力を持ってしても女性らしい曲線美を描いているのが分かる。
……ん? 女性らしい?
俺がその真実に気づくとほぼ同時に、立ち上がったシルエットは湯船を跨ぎぺたぺたと足音を立てる。
ぺたぺたぺたぺた。足音はだんだんとこちらに近づいて、いよいよそのシルエットの奥を俺の眼前にさらけ出した。
湯気越しに見えた首元とは形こそ同じものの、何も隠すものをつけていないその首筋は白い肌が惜しみなく露出され、滴る風呂汗が艶かしく映る。
胸についた双丘は湯気越しに見えた大きさこそ同じものの、やはり白い肌が妖しく光り、少しばかり足りない大きさを補い有り余る素晴らしさを誇る。
さらに腹部から腰にかけてのラインは湯気越しに見た時とくびれ方こそ同じものの、やはり白い肌が曲線美に追い風を吹かせている。腰から脚の付け根にかけて存在するくぼみである鼠径部と呼ばれる部位は、腹筋が鍛えられていて体がしっかりと締まっていることを示し、健康的な様子と一層の艶めかしさを体現する。
さらにお尻から伸びる黒紫色の先の尖った尻尾は、その人物が悪魔族であることを示す。因みにこの世界の悪魔に生える尻尾は女性であることを表すらしいね。
たっぷりと十数秒はかけて、その体を観察しただろうか。その際相手の顔は見ていない。時は止まり、世界が俺にその女性の一糸纏わぬ体をしっかりと目に焼き付けさせようとする。
そして……時は動き出す。
「きゃぁぁぁぁ――――!!!」
名も知らない女性は、手近にあった大きめの桶を掲げ、何のためらいもなく俺の顔面めがけてやたら綺麗なフォームで投げつけてきた。もちろん当の俺は、ザ・ワールドを世界より発動されているため動けず真正面から彼女の怒りを受け止める。
ぼがぁと鈍い音を立てて直撃した桶は、斜め上方向に思いっきり吹っ飛び、数メートル離れたところで着地しその動きを止めた。
たらーっと鼻辺りから生暖かいものが流れてきた。桶が当たった鼻から血が出ている。いや、当たる前から出てたかも。
そんなことをぼーっと考えていると、次第意識が遠のき、湯気に侵食されていなかったはずの天井までもが白く濁り始めた。あれ? なんで俺上向いてんの? 今まさに立って桶ぶつけられなかった? ああそうか、倒れたのか。どうでもいいや。
自分の決して無事とは言えない今の状態を「どうでもいい」の一言で片付けられるほどに、俺の頭は回転していなかった。
「ん……」
目が覚めると、俺は自室にいた。外は既に暗くなっており、なぜここにいるのかを思い出そうとする。
思い出そうとすると、頭が痛くなる。まるで、脳が思い出すことを拒絶するかのよう――
「いってぇぇ!」
頭というより、顔面が痛かった。鏡を見ると、顔の右半分、鼻を中心にして酷く腫れている。なにこれ? 俺今記憶思い出せないから何がどうなってこんな重症を負ってるのかわかんないんだけど。
すると、自室の扉が遠慮がちに開かれた。
「起きました……か?」
ギィィと軋むような音を立ててゆっくり開かれた扉の先にいたのは、俺と同じく眼鏡をかけた頭が良さそうでお淑やかそうな女の子だった。
その顔を見た瞬間、俺の脳にフラッシュバックで映像がなだれ込んでくる。
城の大浴場で見た、あの艶かしい首筋から少し足りない小ぶりの胸、そして腹部から腰にかけての美しいラインと、腰から脚の付け根にかけての腹筋を鍛えている者にしか現れない、あの健康的なぼでー。
「あっ!」
思い出したぞ! そうだ、彼女は俺がさっき浴場で見た女の子だ。あの時の映像は、それはもうはっきりくっきりと思い出せる。実況までできそう。
扉の前で、彼女はびくっと肩を震わせた。もしかしたら、俺の今の思い出した際に出てしまった声にびっくりしてしまったのだろうか。
可愛い、可愛すぎる。これを世の中ではあざといというのだろうか。もちろんこんな体験今回が初めてなんで比較のしようがありません。
それにしても、眼鏡が良く似合っている。俺ごときが眼鏡をかけてしまっているのが申し訳ないくらいだ。そしてその可愛らしい均整の整った顔立ちの下には、あの素晴らしいぼでーが存在しているはず。
思い出して、再び鼻血が出そうになった。いかんいかん、これでは彼女に引かれてしまう。逆に惹かねば。
「へ、部屋に入ってきても……だ、だいじょいぶ……だよ?」
あああああああ! こんなところで噛む&キョドるのコンボ炸裂させなくていいから! バカ!
じつに気持ち悪い俺のお誘いに、彼女は困った顔をしていた。
まずい。確実に引かれている。こんなことをしていたら、彼女に殴られてもおかしくない。あの健康的なくぼんだ鼠径部を見るに、彼女は見た目に反し相当鍛えているはずだ。その一撃はさぞ重かろう。だが俺はもしそうなってもそれを甘んじて受けよう。殴ってください。
すると彼女は、何やら廊下の方がさぞかし気になるご様子で、扉を開けつつしきりに廊下を気にしている。
そわそわと、まるで誰かが来るのを待つかのように、落ち着かない。男か!? 男なのか!? とも考えたが、この場面で男を待つ理由など微塵も思いつかないので、恐らく違う。落ち着け俺。
と、急に彼女の表情がぱぁっと明るくなった。どうやら待ち人が来たらしい。男じゃないとなると、必然的に女になるのだが……。
彼女をと扉の間を割ってい入るようにして俺の部屋に上がり込んだ人物は、俺が今淡く小さい恋心を芽生え始めさせていた名も知らない彼女と瓜二つの、いや、気だけは異常に強そうな女の子だった。
つかつかと決して軽快とは程遠い、一歩一歩が重たく床を踏み荒らすそのさまは、明らかに怒っている者のさまだった。
というか、怒っている。
臀部から伸びた尻尾を真上にピンと向け、顔を真っ赤にして端から見える小さな牙を剥き出しにし、今にもぷしゅーっと湯気を吐き出し出発進行しそうな勢いだった。トーマスかよ。
その女の子は俺の前まで来ると、びしっと人差し指を前に突き出し俺を指した。人様を指で指すんじゃありません。
「あ、あんたねぇ! よくも私のはっ……はだ……は、だ……」
女の子はこれでもかというくらいに顔を真っ赤にして、アクセル全開で走りだしそうな様子だった。
「はだ?」
「はっ、はだっ……裸体を! よくも見てくれたわね!」
裸って言うのが恥ずかしいから裸体って言ったみたいだが、正直、そっちのほうが言い方がエロい。
「え、まさか……」
裸と裸体の差について自己討論しようと思ったのだが、俺の中で今世紀最大の疑問が頭に浮かんだのでそれを投げつける。
「い、今……、俺が君の裸を見た、といったか?」
秒数にして、約十秒。たっぷりと時間を要して、一言一句を噛みしめるように、間違わないようにして問う。
その質問を投げかけられた女の子は、またしても顔を赤くした。
「そうよっ! あんたは私の裸体を見たのっ! もう、こっちは恥ずかしくてしょうがないわ……!」
「な……」
俺は驚愕した。昼間、ゴーレムを見た時以上には。
俺が見た裸はあのお淑やかそうな美しい彼女ではなく? 目の前のきかんしゃトーマスみたいな顔で抗議している彼女の裸だと? ありえない。そんなこと認めない。第一、目の前の女の子は、喋り方といい態度といい、女の子に似つかわしくないことこの上ない。
でもよく見てみると、動きやすさと可愛らしさを兼ね備えた私服から見え隠れする美しい白い肌と首筋、胸はあの記憶と同じように少しばかり足りていないが、それでも美しい形を保持している。更には引き締まったウエスト、そしてそこから脚の付け根にかけてあるくぼみまでもが、俺の頭の中で裸で投影される。
そう、先ほどのお淑やかそうな彼女では、鼠径部のくぼみをどうも説明できなかったのだ。まぁ、ギャップ萌えというのがあるし実はめっちゃ活発な子でしたーっていうオチも悪くない。だが、目の前の見るからに活発そうな女の子を見ると、ついついそちらのほうがぴったりに思えてきてしまう。ていうか裸体って言うな。裸と言え、裸と。
「君、名前は?」
俺の唐突な普通の質問に、彼女は一瞬戸惑った。
「……っ。あんた、よくこんな状況で名前なんて聞けるわね……」
女の子は呆れた様子で肩をすくめる。
「あたしはライム・エルプソン。後ろの子は、妹のラウム・エルプソン」
丁寧に後ろの彼女のことまで教えてくれるあたり、実に親切である。それより彼女はラウムというのか、龍太郎メモに留めておこう。
「そんなことより、あんたお父さんに呼ばれてるから、早く支度しなさい」
先ほどの羞恥心はもうないのか、真っ赤だった顔は少し元に戻り、今では頬を少し染めている程度だった。あれ、意外と可愛いぞ。
「お父さん?」
俺がそう問い返すと、心底めんどくさいといった表情で答えた。
「コルソンさんから聞いてないの? あたしたちのお父さん、アドラメレクに呼ばれてるって」
ああ、そう言えばそんなことを言われたな。そもそもその謁見が先延ばしになったから風呂に行ったらライムがいて……いや、これ以上はやぶさかだな、言わないでおこう。
「もう会えるのか?」
「ええ、さっきやっと緊急のお客さんが帰ったらしいから。案内するわ」
ライムはそう言うと、くるっと踵を返して部屋を出ていった。終始会話に入ってこなかったラウムも、一度お辞儀をするとそそくさと姉の後を追った。うーむ、まだ俺と彼女の間には見えない壁があるようだ。当面の目標はその壁を取り除くことだな。
「しかしいてぇな……」
着替えを終えて痛部を抑えながら部屋の外に出ると、大きく脚を開き両手を腰に当てて仁王立ちするライムの姿があった。臀部の尻尾は今やなりを収め、ぴょこぴょこと可愛らしく動く。
「あれ? ラウムさんは?」
俺は、俺にとってここにいるべき人物がいないことに不満を覚えつつ、目の前の女の子らしくない女の子に問う。
「厨房よ。あんたと違って、あの子は忙しいから」
自分と比較せず俺と比較するところがまたいやらしい。
「あとその痣、ラウムが手当してくれたからじきになくなるわよ。……じゃ、行きましょ」
歩くライムの足取りは先ほどと違い、軽快と呼ぶに一段とふさわしくなった気がする。
広い廊下を歩き、階段を上る。その先にある建物と建物を繋ぐ空中廊下を渡ると、ひときわ大仰な焦げ茶色の扉が現れた。
「着いたわよ」
ライムは振り向くと、そのままの勢いで俺の横をすり抜ける。
「あ、あれ? ライムは行かないのか?」
ライムは、何言ってんの? みたいな顔をしてこちらを一瞥する。
「お父さんが話があるって言ってたのはあんたによ? なんであたしが一緒に入らなくちゃいけないのよ」
そうなのか。ついてっきり最後まで付き添ってくれるのかなーと思ってしまっていた。
「んじゃ、ごゆっくり」
ライムの姿は階段を降りる足音とともに消えていった。
俺は扉へと向き直る。改めて見ると、大きさはそこまで大きくないものの、明らかにほかの部屋とは放つ雰囲気が違う。威圧感というか、重圧感というか。ほとんど同じじゃねーか。
重く閉ざされたその扉の取っ手に手をかける。おっといけない、こういう時はまずノックからせねば。
コンコンコン、と三度ノックをしてあちらの反応を伺う。すると声が返ってくるかと思いきやゆっくりと扉が開き始めた。
まさか自動ドアか!? とかそんなことを考えつつ、開く扉を見守る。扉の先には廊下と同じく絨毯が敷かれており、左右にはよくわからないガラス細工が整然と並べられた棚がいくつも列を成していた。
開ききった扉の両サイドには、メイドの格好をした女性が二人おり、この扉が自動ドアでないことを確信する。そして俺の視線の先、絨毯を超えたその先にあるのは、コの字型に並べられた茶色のソファとその中心にあるガラスでできたテーブルがひとつ。
さらにその奥には、横長の机に背もたれの大きい椅子があり、それに座る。俺の眼前には、ボタンが異様にカラフルな灰色のベストを着た悪魔がいた。
その様は他の悪魔とは一線を画していて、額には小さきながらも角を蓄え、こちらが機嫌を損なわせてしまえばその鋭く伸びた指先でひと突きにされてしまいそうだ。
少しうつむきめな顔には小さなメガネがかけられており、後ろの窓から差す逆光でレンズが奇しく光り畏怖を助長させる。とにかく怖ぇ。
「ようこそ、釘丘龍太郎君」
容貌に似合った低い声でそう言葉を発し、手を組み替える。両手の指と指を交差させるように絡ませてその上に顎を置いた。ようはゲンドウポーズ。
「……失礼、します」
本物の悪魔を相手にするかのような緊張感に押しつぶされそうではあるが、案外俺の脳は冷静だった。状況の分析を怠らない。
恐らくあの椅子に座っているのが、コルソンが言っていたアドラメレクという人物なのだろう。そしてライムの口ぶりからして、あの二人の父親にあたる人物。この大仰な部屋から察するに、彼がこの城の中で最も高い地位に属していることは明白だ。
彼の目の前まで行くと、手でソファに座るよう指示を出された。俺が座ったのを確認すると、座っていた椅子から立ち上がり俺の対面に座った。
近くで見る彼は、意外と背丈が高く、それだけで威圧感がよりひしひしと伝わってくる。
「ようこそ、救世主君。まずは自己紹介からだな。私はアドラメレク・エルプソン。この城の主をつとめている。アドラメレクで構わない」
移動したことで逆光がなくなったものの、小さな丸メガネの奥で光るその灰色の双眸はやはり奇しく光る。コルソンのものとは違うぞわぞわしたものが体を超速で駆け巡る。
あまりの畏怖ぶりに俺の顔はガチガチに固まって、愛想笑いすら生むことを許さない。
アドラメレクはスッと右手を軽く上げた。すると、すぐさま近くに待機していたメイドが紅茶を作り始める。
辺りにりんごのいい香りが広がってきたため俺の心もいくらか和らぐ。
「さすがに緊張しているようだね。まぁそれも無理はない、なんせ君は今、見慣れない世界から送られてくる情報の整理に必死だろうからね」
ものの数秒で紅茶を作り上げたメイドはトレイにカップを二つ乗せると、アドラメレクと俺にそっとカップを差し出した。俺はそれを遠慮なく受け取り、緊張のせいでカラカラになった喉を潤す。
「君が情報の整理に精を出すのもわかるし、私を含む悪魔たちを警戒するのもわかる。だが君には、釘丘くんには、私たちの力になってもらいたい」
アドラメレクの言葉に耳を傾けながら紅茶を啜る。りんごの風味が鼻腔をくすぐり、液体が喉を通る。するとたちまち喉は元気を取り戻し、枯れた喉が動き出す。
「……あなたたちに協力することが、俺がこの世界を脱出する一番の近道なのか?」
生き返った喉から声を押し出す。
アドラメレクは頷いた。
「少なくとも、君が元の世界に帰れる可能性はあるだろう。……少し、今の現状を話そう。君には辛く理不尽な現実となるだろうが」
アドラメレクはそう言ってから、この世界について話し始めた。
「この世界では先祖代々、私たち悪魔族と龍戦士族とで魔龍騎士の力を求めて戦ってきていた。そしてその戦いは一度私たち悪魔族の勝利で終わるはず……だった」
話し始めたアドラメレクの顔に陰りが出る。
「兵力的には確かに私たちの勝利だった。だがやつらは、龍戦士族たちは、魔龍騎士のちからを断片的に使用できると言われる『魔龍魂』なるものを手に入れていたのだ。やつらはそれを使い、手始めにブレイブシティを造り上げた」
アドラメレクに釣られて窓を見やる。俺も昼間行こうとした場所、その街の壁が、崖の上に建つこの城からよく見える。
「ブレイブシティは並みの力で対抗できるような造りになっておらず、私たちはこちらから攻めることができなくなった。さらにやつらはブレイブシティを造るに飽きたらず、今度は魔龍騎士のちからを断片的に内包した武器や防具を生み出した。それによりやつらの戦力は大幅に強化され、私たち悪魔族は今までの兵力と戦略ではやつらを超えることが難しくなった」
アドラメレクの声音に、畏怖と絶望がにじみ出る。俺が最初この部屋に入った時に感じた彼の威圧感はもうなく、見ていることが辛くなるような、悲壮感に包まれた表情をしていた。その表情が、魔龍騎士のちからの恐ろしさを伝えてくる。
「そして何より。必死に信頼を築き上げ、私たちに力を貸してくれると誓ってくれていた外の住人たちが、ほぼ全て、龍戦士族の言いなりになった。原因はおそらく魔龍魂にあるのだろうが、具体的なことはわからない。ただ、事実を確かめに向かった城の何人かが大怪我を負って戻ってきたことだけは、確かだ」
アドラメレクから告げられる真実の数々。それを俺は、どんな気持ちで聞いていたのだろう。
恐怖? 絶望? 悲壮? 出てくる感情は全てネガティブなものばかり。ログアウトできず、理不尽に閉じ込められたこの世界で、俺がログインしてしまった立場がこんなに苦しいものなんて思いもしなかった。
そして、アドラメレクから、最後の言葉が告げられる。
「釘丘君、釘丘龍太郎君。君には明日から、この城の全兵指揮を任せたい。私を……私たちを、この理不尽な状況から救ってくれ」