前夜
「ねえ龍太郎、本当に行くわけ?」
ホテルのベランダで夜風に吹かれていると、隣にいたアスカがそう問いてきた。
その瞳には、確かな迷いが映し出されている。
「ああ……不安なのか?」
アスカは俺の言葉に俯いた。
「……当然不安よ。だってこれから行くところは、相当危険だって話なんでしょ?」
恐らく、そんな場所に智代理を連れて行くことに反対なのだろう。
ここまで来ると、過保護すぎにも感じる。
「大丈夫だ。智代理さんは俺が守るから」
「あ、あなたになんて任せておけるわけないでしょ! 智代理は私が守るの! ……何としても」
アスカは決意をさらに固めるように、俺をきつく睨んだ。
「それだけ声が出せるなら、明日は大丈夫だな」
「……っ!」
俺は微笑みながら言った。
「あなたに心配される筋合いはないし、その必要もないわっ!」
突き飛ばし、俺の傍から離れて背を向けるアスカ。
「……あなた、この世界に来てからどこか変わったわ。いままでは智代理に近づくただの気持ち悪い根暗だったのに、それがいまではほとんど感じられない」
その言葉に、龍太郎は少し動揺した。
何故アスカは俺の変化に気づいたのだろう?
他のギルドメンバーは誰も気づいていないようなのに、何故アスカだけ?
「……その変化、いつごろからだったか覚えているか?」
「えっ? いつごろだったかって……あなた、自分のことなのに気づいていなかったわけ?」
「いや、正確には数日前に気づいた」
龍太郎がこの世界へと飛ばされてから、確実に元の世界の釘丘龍太郎が消えかけている。
以前智代理とこの場所で話した時、少しだけ戻れたような気はした。
だが、今後また自分の中から釘丘龍太郎という存在が消えてしまうかと考えると、正直恐ろしい。
いずれ、自分が自分でなくなってしまい、それがいつから自分でなくなったのかすらも忘れてしまう、ということになりそうでたまらないのだ。
「……私が覚えている限りでは、アルカミアでクエストをこなし始めてからだったと記憶しているわ」
「アルカミアで……」
そんな初期の段階で気づかれていたなんて、思いもしなかった。
「でもあなた本人でも分からないなんてね。正直私は気のせいかと思っていたから言い出さなかったんだけど」
「気のせいじゃない。俺ももう自分で気づいたんだからな」
「そうね……でも、なんだか不思議な話だわ。要するに、自分がなくなるってことでしょう?」
アスカが顎に手を当てて呟いた。
「……多分だが、俺のこの現象も、この世界に来たことが関係してると思う。そもそもこっちに来てから起きたことなんだからな」
多分これも、この世界を"クリア"すればすべて分かる。
根拠なんてどこにもないが、ただそんな気がしてたまらない。
「その根拠のない自信を言うところも、いままでのあなたなら考えられないところね」
「そう、かもな」
「はぁ……ちょっと話しすぎたわ。部屋に戻るわ。……それじゃあ、明日」
「……ああ」
ベランダから去っていくアスカの背をじっと見送る。
それから、一人で夜空を見上げた。
いつだって満天に浮かぶ星々。そして闇をくり抜く満月。
変わらない夜空が、この世界が異世界であることを強く強調する。
さあ、明日は決戦だ。