茶髪の男
翌日の午後。龍太郎率いる百鬼旋風一行は、エクライネス周辺に存在する隆々たる山がいくつも連なる山岳地帯へと足を踏み入れていた。
そこでは、山の空気、土の質感、果てはこちらに危害を加えてくるモンスターとは別種扱いの野生動物の鳴き声など、まるで現実世界にいるような錯覚を覚えるほどにそれらはリアリティを持っていた。
龍太郎たちにとっては異世界であるレーリレイス。しかしここに生まれた時から住んでいる生き物たちにとっては、紛れもない現実世界なのだろう。それを龍太郎たちは頭でしか理解しきれないでいる。
手を振ればメニューパネルが出てきたり、頭でスキルのモーションをイメージすればスキルが発動したり、疲労感覚が少なかったり、モンスターの名称とHPバーがモンスターの右上に表示されていたりと、ゲームであるデビルズ・コンフリクトの時の仕様や表示が所々で現れるために、どうもゲームとこの世界の区別がつかない時があるのだ。
何故、デビルズ・コンフリクトの時に使えた動作がここでも使えるのか。龍太郎はそれをこの世界に来てからずっと考えてきた。しかし、約五十日が経過した現在、それの回答たるものを掴めた気はしない。
だが今、やれることやるべきことは沢山ある。今はそれを確実にこなすだけだ。
「あ、龍太郎さん! 人間族の人たち、止まりましたよ!」
先頭を歩いていた、元気でよく通る声の持ち主によって龍太郎の思考は引き戻された。どうやら考え事の間に無意識で歩いていたようだった。道を逸れたり、斜面から転げ落ちるようなことがなくて幸いである。
「……龍太郎さーん?」
「ああ、聞こえてるから。あまり大きな声を出すなよ」
数十メートル先でこちらに手をぶんぶんと振る小柄な女の子、ユカリを見やる。右隣には、こちらを向く気など一切ないと背中で語るアスカ、左隣には、横のユカリとともにこちらに小さな手を振ってくる智代理がいる。
かと思えば、カエデもシュンもセーヴもいる。どうやら考え事の弊害として歩行速度までもが落ちていたようだ。ますますはぐれることがなくて良かったと思う。
横を見れば、そこは断崖絶壁……とはいかないまでも、山である以上急な斜面がある。足を踏み外しでもすれば、その時点で奈落へダイブだ。
龍太郎たちの視界の左上と頭上に存在するHPバーは、こちらの世界に来てから一度たりともゼロになっていない。しかし攻撃やダメージと呼ばれる類の衝撃を受けることでこのバーは減少するらしく、恐らくは個人の体力を視覚的に確認できるものなのだろう。ゲーム的に考えてしまえば、だが。
そしてさらにゲーム的に考えるのであれば、HPを示すバーが消滅した時、訪れるのは死である。
「龍太郎くんっ! ……あっ」
不意に、横から強い力で腕を引っ張られた。その勢いで体勢を崩した龍太郎はバランスを取るために自由な方の腕を彷徨わせ掴めるものを探すが、その手に触れるのは形状のない空気ばかり。
体は次第にバランスを崩して重力に従い地面と水平になっていく。浮遊感にも似た感覚が、龍太郎の体を襲う。
そして、龍太郎の体は地面に倒れ伏した。
「んっ……、龍太郎……く……」
耳元で、艶かしくかすれかけた女性の声がした。龍太郎の体は既に地面と密接しているはずだが、どうやらその声は龍太郎より下から聴こえてくるようだ。
……と、ここまで考えたところで、脳が完全に自分の世界に入り込んでしまっていることに気付いた龍太郎は、慌てて思考を現実に引き戻す。
考え事をするといつの間にか周りが見えなくなってしまうのは龍太郎の悪い癖だ。倒れている体をすぐさま立ち上がらせようと右手を地面に付ける。
「……ん?」
地面が柔らかい。こっちの世界での地面も嫌というほどに現実世界と酷似しているはずなので、柔らかいということはないのだが……。
それに、地面に接しているはずの顔が柔らかいものに当たっている。少しいい匂いもする。……やはり、何かがおかしい。
そして顔を上げた龍太郎は、目の前のできごとに驚愕した。
「…………!」
龍太郎は地面でない“何か”を下敷きにして倒れていたようだ。その“何か”は、透き通るような緑色をした防具を身に着けた、仰向けになっている人間だった。
……というより、智代理だった。
智代理は龍太郎を下から見上げながら、真っ赤になった顔に涙を浮かべている。
「ご、ごめ……!」
龍太郎は咄嗟に事態の深刻さを把握し、覆いかぶさるような体勢になっていた体を起こし智代理から離れようと立ち上がった。そんな龍太郎の背中に、鋭く冷たいものが当てられる。
「一体、何をしているのかしら?」
再び耳元で女性の声がした。しかしその声は、この世に存在する生物が出せるとは思えないほど殺気に満ちた声音であり、同時に誰が発した声なのかがはっきりとわかった。背中に当てられているひんやりとした鋭いものも、脳内に鮮明に投影される。
「このパターン、前にもあったなぁ……」
龍太郎はどこか達観した表情で、次に起こる事象を想像するのであった。
▼▼▼
やけに円く広がった、山岳に存在しているとは思えないほどの開けた平面。周囲が木々に囲まれているために、まるで何かの儀式の痕跡のようにも感じる。さらに位置的にここは山の端らしく、前方だけが絶壁となって景色が一望できる。
巨大な円形の形に開けたこの平面には今や十数名の人間族の冒険者が集まっており、それぞれが銅を使用して作られた片手剣や盾を身に着けている。
その集団の中からひとり、やたらと豪勢な防具を身につけた長身の男が手に何かを持って出てきた。恐らく、エクライネスが保有している軍の中からガラミアの命令で派遣されてきた兵士だろう。
龍太郎たちは今、平面を囲む木々の後ろに隠れて様子を見ているためにこの距離からの視認では男が何を持っているのかわかりづらいが、かろうじて青い色をした球体であることだけはわかる。男はその青い球体を上に掲げると、冒険者たちに向かって大声で叫んだ。
「これから古代竜の討伐を始める! 戦いが終われば、全員で祝勝会だ! 集まってくれた勇士諸君、健闘を尽くそう!」
古代竜……そう、今まさにこの集団は、エクライネス周辺に出現すると噂の古代竜を討伐するためにやってきたのだ。
男の激励に、冒険者集団は剣を掲げて声を上げる。
十数人という数だというのに、屈強な戦士たちである彼らの叫びは地を揺るがしかねないほどだ。
男の手に持つ青い球体が光り輝いた。それに呼応するように、開けた視界の先から、強風が吹き荒れる。
「来るぞ!」
男の鬼気迫る声とともに、巨大な翼を持つ一体の竜が空の彼方から姿を現した。
全身を覆う赤道色のウロコに、巨大な羽と尻尾。頭部に生えた口元は人ひとりを余裕で丸のみできるほどの大きさで、足部の爪は切り裂けないものなどなさそうだ。まさに古代竜と呼ぶにふさわしい容姿を持った竜である。
圧倒的な威圧感を放つ古代竜を前に、一瞬押されたように見えた冒険者集団ではあるが、すぐに士気を取り戻した。
「行くぞ!」
そして、リーダーの男のひと声とともに、古代竜との戦闘が始まった。
▼▼▼
吹き荒れる業炎、叩きつけられる前脚、振り回される尻尾。それらが戦場となったこの場所を暴れ狂う。
この世界の人間族の冒険者など、所詮は一般人より少しばかり鍛えただけの生き物に過ぎなかった。そんな者たちが、古代から生きるというレッテルを貼られた竜に立ち向かうことなど、最初から無謀だったのかもしれない。
彼らはこの依頼を出したガラミアを恨んでいるだろうか。多少なりともいるかもしれない。
冒険者集団と古代竜の戦い。それは、古代竜の圧倒的なちからによって十分と持たずに幕を閉じた。
「なぜ、なぜ……っ!」
冒険者集団の中で唯一残った、ガラミアの命令で今回の討伐に送られたと思われる長身の男がほぼ瀕死の状態で立ち尽くす。男の周囲には、先ほどまで勇敢に戦っていた冒険者たちの死体が転がっていた。
「私たちの作戦は、完璧だったはずだ……!」
攻撃のタイミング、各冒険者の消耗度を考慮した前衛後衛の入れ替え指示、そして各人の即興とは思えないほどの連携……傍から見ていてもわかるほど、エクライネスの冒険者たちは戦いのプロだった。
しかし、戦いには敗北した。男の言う通り、完璧な作戦、采配、人選だったのだろう。だが、それを上回るほどのちからを持っていたのが、目の前で悠々と羽ばたく傷一つ負っていない古代竜だった。
古代竜の持つちからが圧倒的すぎたが故に、今回のような結果になってしまったとしか言い様がない。
「……我の眠りを妨げた者たちにしては、全く骨身がないな」
くぐもった声が響く。もはや誰の声であるかは語るまでもない。
「はは、本当に、喋るんだな……」
古代竜は前脚を振り上げ、そして迷いのひとつなく、振り下ろした。
「ふん、所詮はこんなものか。つまらぬ時代になったものだな」
古代竜が、血の海となった戦場を見下ろしながら言う。巨大な羽が羽ばたく度に、その赤い湖に波紋が広がる。
そこへ、ひとりの青年が現れた。
「ちょっと待ってくれよ、古代竜さんよ」
龍太郎だ。今まで木々の奥で様子を窺っていた彼は、誰よりも先に古代竜の前へと姿を現した。
今まさにどこかへ飛び立とうとしていた古代竜は、突如現れた龍太郎に意識を向ける。
「……ほう。また人間族とやらか? 我に歯向かうことを恐れぬとは……」
古代竜は向けかけていた背を戻し、体ごと龍太郎に向ける。
全長軽く三十メートルはあるのではないかという巨躯。その巨躯から生える翼や脚、尻尾などが圧倒的な威圧感で龍太郎の前に君臨する。
正直、勝てる相手かどうかは未知数だ。それは、前の戦いを見ても明らかだ。
だが龍太郎たちは先陣を切って敗北した冒険者たちとはわけが違う。勝てる可能性はある。
いや、勝たなければならないのだ。龍太郎は先ほどの戦いで所謂“死”というものを目の当たりにした。それはもうデビルズ・コンフリクトの中にいたときに体験したものだからか、その“死”による喪失感や絶望感は無い。
今はただ、この世界に“死”という概念が存在することがわかったというひとつの情報として脳内に蓄積されたに過ぎない。
“死”という概念が確認されたのならば、龍太郎はこの先、ギルドメンバーを誰ひとりとして死なせてはならないことになる。
だから、こんなところで負けるわけにはいかないのだ。それこそ、相手がいくら理不尽なちからを持っていようと、関係ない。
「残念だが、俺たちはさっきのやつらとは一味違うぜ……?」
声が震えている。自分でも判るほどに目の前の異質生物に対する恐怖感が震えとなって具現化していた。
龍太郎は腰に着けたアイテムパックに手を伸ばす。
「……」
古代竜は沈黙した。頭部に生えた二つの眼球で龍太郎を射抜く。まるで見定めるように。
しばらくの沈黙を貫いた古代竜は、口を開いた。
「確かに貴様は先ほどの滑稽な者どもとはわけが違うようだ。いいだろう、ここまで来たことを後悔するがいい!」
「……きたか!」
どうやらアスカの読み通り、ゲームで言うところのボス的立ち位置にこの古代竜は属するようだ。古代竜が天に向かって雄叫びを上げると、今まで晴れていた空が一瞬にして赤紫へと変化した。
「せいぜい足掻くがいい!」
▼▼▼
周囲の空気が変わった瞬間、古代竜の頭上に名前と体力を示すHPバーが表示される。古代竜のモンスターネームは、宝龍イグナート。HPバーの長さは、他のモンスターの約十倍ほどだろうか。
「セーヴさん!」
龍太郎が背後に向かって叫ぶと、木々の奥から武装した男が現れる。
「全く、声震えてたよ!」
セーヴが素早く一撃、イグナートの腹部に入れる。しかし思ったよりもダメージが入っていないようだ。頭上のHPバーはいちドットも減っていない。
続けて二、三度攻撃を入れるも、結果は同じ。
「カエデ! 俺が詠唱する時間を稼いでくれ! 火炎系範囲攻撃が来る!」
「はいはい! 《アクエリア・ウォール》!」
さらに木々の奥から杖を持った少女、カエデが姿を現す。彼女は走りながらスキルを唱えた。
忽ちイグナートとセーヴの間に青色の厚い壁が姿を現し、次の瞬間、その壁に向かってまるで打ち出されるような速度で炎の弾丸が吐き出された。
そして龍太郎は、カエデが生み出したその壁を使い、《チェック》の詠唱を始めた。――だが。
「早速やってくれてんなぁ――《グラビディ・ホール》!」
イグナートの体勢が崩れた。空中に浮いていたのに、まるで何かに足元を取られたように地にひれ伏す。
「な、なんだ!?」
《アクエリア・ウォール》もその効力持続時間を切らして消滅した。すると壁の先では、ひれ伏すイグナートの足元に、黒く渦を巻く何かがあった。どうやらその黒い渦のせいでイグナートの動きが制限されているようだ。
「悪いが、その古代竜とやらは、俺たちがもらっていくぜ」
そう言って木々の奥から姿を現したのは……
「なっ……」
まるでセーヴと同じ【タンク】クラスのような無骨な大鎧と、身の丈ほどもある長剣。
髪は茶色に近い色で、短髪。肌の色は、どこか既視感を覚えさせる、緑と黒を合わせたような色合い。
そしてそんな肌色の額に嵌め込まれた、赤色の宝石。
龍太郎の脳内は、必死で拒否反応を起こしている。わかっているのだ。目の前の男が、“誰に似ている”のかを。
茶髪の男は口元を歪め、こう言う。
「初めまして、だな。俺は悪魔族軍守護隊所属、ビレト・マースナーだ。……ギルド百鬼旋風……いや、釘丘龍太郎。お前を試しに来た」
▼▼▼
「嘘だろ……?」
今、目の前の男は何といった? 悪魔族軍? 守護隊? いや、そんなことはどうでもいい。
「マースナー……」
その名は、かつて龍太郎がデビルズ・コンフリクトの時に指揮していた【タンク】クラスのリーダーの名だった。
龍太郎の脳内に、マースナーという言葉が反響して伝わる。
「おいおい、何放心状態になってんだ? 俺はただ、お前を試しに来ただけだぜ?」
ビレトと名乗ったその男は、肩に長剣を乗せ、呆れたような表情を見せる。
「マースナー……どうして……!」
「……」
ビレトの眼付きが変わる。今までの少し調子に乗っているような眼付きから、いつでも殺しを厭わない鋭く冷たい眼付きになった。
瞬間、ビレトは弾けるように地面を蹴った。勢いで、ロケットのように放心状態の龍太郎へと一直線に向かう。
振りかぶられる長剣。だが、龍太郎に反応はない。
「何か言わねぇのかよ!」
しなやかに空気を切り裂き、龍太郎の胴体へと飛んでいく刃。しかしそれは、当たる直前で防がれた。
「あなた……ウチのリーダーが正式な返事もしていないのにいきなり斬りかかるなんて、どうかしているわね」
ビレトと龍太郎の間には、刀を両手で持ちビレトの素早い一撃を受け止めているアスカの姿があった。
「ちっ」
ビレトは今の一撃が当たらなかったのが不服なのか、舌打ちをしながら飛び退く。
「釘丘! あなた、何をしているの!? 今あたしが入らなかったら……!」
アスカは龍太郎のらしくない行動を叱ろうと振り向いた。
だが、龍太郎の目は虚ろで、まるで焦点が合っていない。
「ちょっと! しっかりしなさいよ!」
肩を揺すって声をかけるが、全く反応がない。体に力も入っていない様子で、揺さぶるたびに頭がガクンガクンと揺れ動く。
「ちょっと……! しっかりしてよ……!」
「ふん、釘丘龍太郎ってのは、その程度の男かよ」
ビレトが呆れた様子で言う。
「おい、そこの着物の女。お前の反応は確かにいい。そんな釘丘龍太郎とかいう出来損ないがリーダーをしているっていう百鬼旋風なんかにいたら腐っちまう。俺たちの軍に来ないか?」
「……あなた、言葉に気を付けなさい?」
瞬間、黒く鋭い剣閃がビレトに向かって高速で向かっていく。ビレトはそれをかろうじて反応し、剣の腹を使って軌道をずらすことで回避した。
「ヒュウ、あぶねえあぶねえ。随分と怖いお嬢さんだ」
「次は、この刀の塗装の一部にしてあげるわよ」
「怖いねえ。何、そんなにその男のことを侮辱されるのが嫌だったのか?」
再び、黒い斬撃がビレトに走る。ビレトは再び剣の腹を使って回避した。ずらされた斬撃は後方の木々を何本も薙ぎ倒していく。
「さっきも言ったわよね? 言葉には気を付けなさいって。……もしかして、言葉がわからないのかしら? それとも、本当にこの刀の塗装になりたくて言っているの?」
「……ますます欲しくなっちまうな」
ビレトは愉しそうに口元を歪めた。同時に、アスカも口元を歪める。だがこのふたりの中に渦巻く感情は、決して楽しいものではない。
▼▼▼
その頃一方、木々の奥では取り残される形となってしまった三人がそれぞれ突撃のタイミングを相談していた。
「シュ、シュンくん……これ、私たちどのタイミングで出たらいいのかな……」
「いや、これはもしかしたら、もう出られないかも……」
「今出て行ったら、二人の空気だけで引き裂かれちゃいそうですっ」




