旅立ちの日
デビルズ・コンフリクト。その名はVRMMORPGと呼ばれるジャンルのゲーム名であり、ゲーマーたちが夢にまで見たゲームジャンルの第一号として発表された作品だ。
発売後は飛ぶ鳥を落とす勢いで売れ、そのプレイヤー数はゆうに一万を超えていた。
だが、一週間もしないうちに、その一万人以上もいたプレイヤーは一千弱まで落ち込んでいた。理由は、簡単だ。
強すぎるNPCの存在。味方になって共に戦うNPCの一部が、異常に強すぎたのだ。それも、プレイヤーがいらないほどに。
プレイヤーの存在理由を無くすと言うのは、そのゲームをプレイするモチベーション、意味を無くすのと同義である。こんなレベルデザインは、プロがやっていい仕事ではない。
だが、それでもプレイヤーがゼロになることは決して無かった。そしてそんなゲームに残るのは、所謂廃人という類の人間だった。
そして、ゲームの稼動開始から一週間と一日。つまり、八日が経った、午後八時過ぎ。
デビルズ・コンフリクトの世界は、突如白い光に包まれた。
――これから紡がれる物語は、それから四十八日という月日が経ってからの物語。
少年少女は葛藤し、時に絶望し、そして、希望を見出す。
時の流れは、いつだって残酷だ。
釘丘龍太郎は、自分の性格がひねくれていることを百も承知である。過去に自分のひねくれた思考回路で何人の人間を困らせてきたのか、本人にもわかりかねるレベルだ。
しかし、そんな自分のような人間でも、今まで困らせてきた人間を引っ張っていかなくてはならない時が来る。時というものは移り変わり、人間に変化を求める。そして人間は、意図して変わらないことを望まない限り、時代の波に飲み込まれ変化してしまう。
「数は……四か」
非常に目つきの悪いこの黒髪の青年は、自分の眼前に浮かぶ薄い半透明のパネル――メニューパネルと睨み合っている。そのメニューパネルには地図が表示されていて、その中心より少し上の方には四つの赤い点が、かなり下の方には青い点がひとつそれぞれ点在している。それらはその場から大きく動くことはなく、時折細かに動く程度だ。
そのパネルの最上部。そこには、まるで悪の魔法使いが着るような暗め色で作られたローブを羽織った青年の姿とクラス名があり、そして、❝この世界❞での名前が表示されているはずの欄が存在している。
「名前、決めておけばよかった……」
青年の名前を表示する部分はNONAMEのアルファベットが表示されていて、彼の名前が登録されていないことを示している。
この世界ではこの名前が非常に重要な役割を果たす。例えば、街の上位カーストとの交渉の際、自らの名を口で名乗るだけでは信憑性がないため、このパネルに表示される名前を相手に見せるのだ。
後は、一部の機械などがこのパネルを通して人物のチェックを行う為に、青年はその類のものを扱えないのだ。
「――龍太郎、目標と遭遇。数は変わらず四だ。指示を――」
スキル《キープザアームドフォース》の効力のひとつ、電波通信を使っての仲間の声が、青年の耳に届いた。
「ああ、そのまま迎撃してくれ。一応、増援に気をつけてな。俺ももうすぐそっちに到着する」
そうして仲間のとの会話を遮断すると、青年――釘丘龍太郎は溜息を吐いた。
――今から約四十八日ほど前。VRMMORPGという前代未聞のジャンルの第一号として登場したデビルズ・コンフリクトは、さらに前代未聞のとんでもない現象を引き起こした。
それは後に《楽園の日》と呼ばれることになる、異世界転移である。
小説や漫画、アニメなどの創作物でよく使われる現象が、あの日、このゲームの中で引き起こされたのだ。
飛ばされたのは、悠久の大地が広がり広大な海が支配する世界、レーリレイスだった。そしてこの世界では、まるでデビルズ・コンフリクトを彷彿とさせるかのように、悪魔族及び龍戦士族と呼ばれる知能と独特な文明を持った種族が互いの領地を求めて敵対していた。
そしてその二大種族以外の種族である人間族は、どちらかの種族からの侵略に日々怯えていた。
「――《ロジック・フレア》!」
赤いローブを羽織った少女が杖を前方に掲げると、その杖の少し先から渦巻く炎がひとつ現れた。それは伸びるようにしてさらに前方へと進み、対象となったの最後の人植物型モンスター、アキュネス・リィトを包み込む。
炎の渦に飲み込まれたアキュネス・リィトは奇怪な呻き声をあげながら消滅し、後には植物が焼け焦げる炭の匂いが残り、鼻をつく。
「やっぱり、慣れないなぁ……」
「お疲れ様です、カエデさん!」
少女の下に、少女よりさらに背の小さい少女がとてとてと近寄ってきた。彼女の名はユカリ。紫色の髪が特徴的な、細剣を腰に携えた【サモナー】である。
ユカリは頭の頂辺に生やしているアホ毛をぴょこぴょこ揺らしながら赤ローブの少女、カエデを見上げる。
「そっちもお疲れ様。……シュンくん、大丈夫かな……」
「向こうはセーヴさんも、智代理さんもいるんです。平気ですよ!」
「でも、回復役がいないし……」
カエデは不安げな顔になりつつ、持っていた杖をアイテムパックに仕舞った。
ユカリは手首をスナップさせ半透明のパネルを呼び出すとそれを操作し、通信を始めた。
「……あ、龍太郎さんですか? こちらは無事終了しました。これから戻りますね」
「――ああ。俺はもうすぐもうひとつの方に着くから、戻ったら依頼主への報告よろしく――」
「はい! 任せておいてください!」
ユカリは通信を切ると、こちらに振り向いた。
「それにしても、さ」
とカエデは前置きする。
「どうしてこんな世界に来ちゃったのかな……」
「カエデさん、もうその話、十回以上はしてますよ?」
ユカリは苦笑いしながらやんわりと言う。
――突如デビルズ・コンフリクトにログインしていたプレイヤーを全員巻き込んだ白く強烈な光。そして気づけば、何も知らないこの世界に飛ばされていた。
飛ばされた当初は何が起きたのかわからず、戸惑ったものだった。まあ、もう今ではあれから48日が経過しており、この世界に飛ばされてきた大抵のプレイヤーは正気を取り戻してこの異世界から脱出する方法を模索している。
それは、百鬼旋風も変わらない。
龍太郎は十五分後、目的の場所に到着した。
眼前では巨大な体躯を持つ怪物型モンスター、グレイト・オークが、棍棒を振り回しその身を震わせながらこちらを威嚇している。
頭上に表示されたHPバーは既に半分の黄色を示しており、この状態ではグレイト・オークの攻撃パターンが変化している可能性がある。
「龍太郎くん!」
そのグレイト・オークのすぐ近くには、大盾を持った【タンク】クラスのセーヴ、そして、白銀の槍を持ち翡翠色の防具を身につけた【ヴァルキリー】クラスの智代理の姿があった。
「ようやく来たか、龍太郎」
龍太郎の下にひとりの青年――シュンが近寄ってきた。彼は白と赤のコートを羽織り赤く透き通る柄の大剣を装備している、【ウォーリア】クラスだ。
「ああ。グレイト・オークの攻撃パターンは?」
「初期の情報とは変わってるな。今は棍棒を振り回す範囲攻撃から、溜めが一瞬入る目の前への攻撃。最後に、地面を叩き割っての直線的な攻撃が確認されている」
「そうか」
龍太郎はパネルを呼び出し操作する。少しすると、龍太郎の体が淡く光り出し始めた。スキル詠唱の合図だ。
手のひらを広げ、前方のグレイト・オークに向ける。そして、スキル名を唱えた。
「《チェック》」
龍太郎の手の先から、一本の電流の糸が流れ出た。それはまるで空中を這うようにしてグレイト・オークに向かって走り、その巨大な体躯にまとわりついた。
グレイト・オークはもがき棍棒を振り回しながらその電気の糸を解こうと動くが、それはグレイト・オークの体をしっかりと縛り付けて動かせない。
「ふん、なるほどな」
龍太郎は自分のメニューパネルに表示されている敵のステータス情報に目を通す。先ほどグレイト・オークに放った《チェック》という名のスキルは、対象のあらゆるステータスを情報としてこのメニューパネルに表示するというものだ。
「どうやら怒値がリセットされているみたいだから、シュンと智代理さんは回避に専念してくれ。セーヴさんはダメージより怒値稼ぎを中心に動いてください。回復は、俺がアイテムとスキルで補います。それで、タイミングを見計らって俺から合図を出します。あまり時間はかけられないので、その時はダメージ重視の攻撃をお願いします」
三人の頷く姿が見えた。それを確認した龍太郎は早速次の行動に移る。メニューパネルをもうひとつ開き、アイテム欄から花の蕾のような形をしたアイテム『アセンブの蕾』を取り出した。
これは現在拠点にしている街、アルカミアの依頼で手に入れたアイテムだ。
龍太郎は『アセンブの蕾』を、眼前で戦うグレイト・オークとセーヴの間に投擲した。弧を描きながら中空を飛んだ蕾は、地面に突き刺さる。
「オープン」
龍太郎が解除コードを呟くと、蕾はその身を開き、鮮やかな紫色の花を咲かせた。そしてその花を中心に、同じ紫色の波紋が広がる。
グレイト・オークはやっとの思いで電気の糸から脱出したが、今度は眼前に咲いた紫の花から放出される波紋に飲み込まれる。結果その巨躯に似合わない俊敏な動きを鈍らせ、千鳥足になった。
それを見たセーヴが、ここぞとばかりに全力の一撃を叩き込む。
腹部にクリーンヒットしたセーヴの一撃は、グレイト・オークの怒値を大幅に稼いだ。グレイト・オークの紺色の双眸が、ギロリとセーヴを捉える。
だが、まだセーヴに怒値が集中しきったわけではない。グレイト・オークはセーヴから目を外すと、すぐ近くにいた智代理とシュン目掛けて棍棒を横薙ぎにした。
空気を押しつぶすような物量が、二人を襲わんと向かってくる。
「うおっ!」
「きゃっ!」
智代理とシュンは、かろうじてその一撃を避けた。今二人は回避に専念しているはずなのに、それを上回りかねない攻撃速度だ。
「こっちを、見てくれるかい!」
背を向けられたセーヴがこれ以上智代理たちに攻撃が行かないようにと、大ぶりの一撃を加える。
その一撃により背中に強い衝撃が走ったのか、グレイト・オークは少しばかり呻いた後、その双眸を再びセーヴに向けた。今度は先ほどとは違う、明確な怒りを持ってセーヴを睨みつける。
「セーヴさん! 棍棒の振り下ろしだ!」
龍太郎は手元にある情報から読み取った情報を、セーヴに伝える。次の瞬間、グレイト・オークは手に持った巨大な棍棒を振り上げ、セーヴ目掛けて振り下ろした。
セーヴは片手剣を持つ腕とは反対の腕に装備している大型の盾を構え、防御体制に入った。棍棒と盾がぶつかり、鈍い殴打音が鳴り響く。
攻撃を防がれたグレイト・オークはさらに雄叫びをあげ、狂ったように連続でセーヴを殴りつける。だがセーヴは、攻撃を真正面から受け止めるのではなく、相手の攻撃に合わせて盾を少し逸らし威力を軽減している。
「《アタック・ブレイク》!」
セーヴの体から、赤い粒子が弾けた。スキル発動の合図だ。セーヴは、グレイト・オークの連続攻撃が甘くなった一瞬を見逃さず盾で真横に弾いた。そして、隙ができたグレイト・オークの脇腹に一撃加える。
グレイト・オークはよろめくが、この攻撃ではダメージは取れない。
だが、もう十分だ。
「よし。智代理さん、シュン、攻撃開始! ただし怒値を稼ぎやすい連続攻撃スキルは使用禁止だ!」
二人はそれぞれ了承の意を目だけで伝えてくると、グレイト・オークに向かって走り出した。
一撃、また一撃とグレイト・オークの体に傷が刻まれていく。だがそれでも、前で怒値稼ぎを続けているセーヴのおかげで智代理とシュンに攻撃が行くことはない。このまますれば、じきにグレイト・オークは地に伏すだろう。
だがひとつだけ、懸念材料がある。
次第にグレイト・オークのHPバーは残り三割を切り、HPバーが赤く染まるデッドラインに入った。
「気をつけろ、攻撃パターンが変わるぞ!」
龍太郎がそう言った瞬間、グレイト・オークは地を揺るがすほどの雄叫びをあげ、紺色の双眸が赤く染まった。体を大きく後ろに反らして、めいいっぱい空気を吸い込む。
「正面警戒! 全員、防御体制!」
龍太郎の言葉に、三人ともそれぞれ防御の姿勢をとる。
「くそっ、間に合え!」
すぐにアイテムを取り出せるアイテムパックをまさぐり、やや乱暴に目的の球状のものを掴むと再びグレイト・オークに向かって投擲する。
投擲された球状のそれ――アイテム名『銀魔女のカーテン』――は、グレイト・オークと三人の間に落下すると同時に薄い膜に変化した。直後、倍以上に胸を膨らませたグレイト・オークの口から放射状に燃え盛る炎が吐き出された。
炎は周囲の木々を焼き尽くし、尋常でない威力であることがわかる。だが、三人の前に出来上がった薄い膜は、グレイト・オークの炎をいくらかであるが、弱めている。そのおかげで、智代理、シュン、セーヴはHPバーを一割程度失うだけで済んだ。
そして、徐々にグレイト・オークの吐き出す炎の威力は弱まり、次第には完全に収まった。
龍太郎はその瞬間を見計らい、声を上げる。
「――一斉攻撃開始!」
合図とともに、三人は容赦のない攻撃をグレイト・オークに浴びせる。HPバーが既に三割もないグレイト・オークは、時間もかからずに地に伏した。
「そうですか……もう、行ってしまわれるのですね」
ピンクのドレスを身に纏い、頭部に金色の装飾物を着けた眼前の女性は、かっくりとうなだれている。
それを見ながら、アスカはできるだけトーンを低くして話す。
「申し訳ありません、少しでも長くこの場所に滞在しようとは思っていたのですが、探さなくてはならない人がいるんです」
「前にも言っていた、お友達……ですよね。お友達は、大事ですものね……」
「お嬢様。これ以上アスカ様を困らせてはいけません」
脇に待機していたメイドにドレスの女性は宥められて顔を上げた。
「……今まで、楽しかったです。それにあなた方は、この街に多大な貢献をしてくれました。特に一週間前の龍戦士族の攻撃から守ってくださったことは、永遠に忘れることはないでしょう。お陰で街は潤い、人々も活気を取り戻しました。……もし本当に、悪魔族でも龍戦士族でもない第三の勢力が生み出すならば、私たちはいつでもそのお手伝いをさせていただきます」
ドレスの女性は、柔和に微笑み言った。アスカは女性に笑みを返し、「必ず」と言った。
「……最後に、おせっかいかもしれませんが、雑貨屋のヴィルに小物を用意させました。どうか、受け取って行ってください」
「ありがとうございます。大事に使わせていただきます」
それからドレスの女性は、窓の外を見ながら憂いた横顔で話し始めた。
アスカもそれに釣られて窓の外を見やると、街の様子が伺い知れる。声を張り客寄せをする者がいれば、それに釣られ足を止める人々。行き交う人々の顔には笑顔が浮かんでおり、誰もが幸せそうな表情をしている。
この街は、約一か月前まで龍戦士族の虜地にされていた。
「考えてみれば、私たちは長い間龍戦士族の言いなりになっていたんですね。悪魔族の配下に置かれてしまった近くの街はもっとひどい目に遭っていたと聞いたので、私たちはまだ運が良かった方なのかもしれません。もし、悪魔族に捕まっていたと考えると……恐ろしい限りです。そうなれば、アスカさんたちにも救ってもらえなかったかもしれないですし……」
「お嬢様、あまり無理はなさらぬよう」
「わかっているわ、コレット。……アスカさん、どうかお体だけにはお気をつけて。決して簡単な旅ではないことはわかっています。どうか、ご無事で……」
「……お心遣いありがとうございます、ロークレス姫」
それからロークレスは、アスカが部屋を出るまで悲しそうな目をしていた。
「うし。これでこの街の信用度は100%だな」
龍太郎は自分のメニューパネルを見ながら言った。
「ほんと便利だな、そのシステム。……というかクラスの付属効果か」
「まぁな。でも、今のところこの【キープレイヤー】はこれしかないから、これなかったら存在価値ゼロだぞ」
「でも、前はその効果すら無かったんだろ?」
「ああ。だからただのお荷物だよ」
龍太郎とシュンの会話。今現在このアルカミア入口前には、この二人の他に、智代理、セーヴ、カエデ、ユカリの五人がいる。
「……なんかあの二人、やけに仲いいよね」
「カ、カエデちゃん、目、怖いよ……。でもその気持ち、ちょっとわかるかも……」
こちらはカエデと智代理の会話。カエデがきつく睨みつけるような視線を龍太郎に送り続けている。
「うーん。第三者っていうのは、面白いものだね」
「本当ですねー。それに、あの人たち全員がにぶちんなのがさらに面白いです」
そしてこっちはセーヴとユカリの会話。龍太郎とシュン、カエデと智代理の会話を少し後ろから眺めるようにして見ている。
「みんな、お待たせ」
そんな中に、ひとりの少女が割って入ってきた。
「あ、アスカちゃん! そっちは終わったの?」
智代理がとてて、と今しがた来た少女、アスカに駆け寄った。
「ええ。ロークレス姫、最後にみんなに会いたがっていたけれどね」
「それは、申し訳ないことをしたね」
セーヴが言った。
「まあ仕方ないわ。今回はギリギリの人数采配だったし。……釘丘の采配は、悔しいけどベストだったわ」
キッと龍太郎を睨みつけるアスカ。その腕の中にはなぜか智代理がいる。智代理は苦しそうに腕をバタバタとはためかせているが。
「おいおい、そんな言い方ないんじゃないか? 褒めるなら嫌味なく褒めてくれよ」
睨まれた龍太郎は怯えることなく、むしろ喧嘩を売るような口調で返した。
「あんたのそういうひねくれたところがむかつくのよ……」
アスカは視線だけで人を殺しそうな様子だ。それを、何とかアスカの腕から抜け出した智代理が宥める。
「何か、ずっと前からこういうことをしていた気がしますね」
「……そうだね」
いつの間にか蚊帳の外になってしまったカエデとユカリが、まるで子供を見守る親のようにこのやりとりを眺めていた。
「……んんっ。もういいわ、本題に移りましょう」
アスカが咳払いをして、話を戻す。これもまた、いつもの流れだった。
「ロークレス姫から、雑貨屋のヴィルさんに私たち用の小物を用意したって聞いたから、それを受け取りに行きましょう」
今挙がった雑貨屋のヴィルという名前は、このアルカミアの中で一番名の知れた雑貨屋【エレガース】を経営する青年の名だ。彼は若くして調薬士の腕を開花させ、薬中心の雑貨屋【エレガース】でこの街いちの経営者となっている。
街中央の大通りを少し右に逸れたところに、【エレガース】はある。外装は派手なものではなく、どちらかといえば小ぢんまりした古風な店だ。こんなところがアルカミアいちの経営者がいる店舗だとは想像し難いだろうが、この謙虚さが、彼のいいところでもある。
「こんにちはー」
アスカが先頭を切って中に入る。すると、奥のカウンターで作業をしていた茶髪の青年がこちらに気付いた。
「あ、アスカさん。それに百鬼旋風の皆さんも。もしかして、姫様から?」
「ええ。ヴィルさんが、あたしたちに用意してくれたものがあるって、教えてくれて」
アスカがそう言うと、ヴィルは少し俯いた。
よく見ると、顔が少しばかり朱くなっている気もする。
「どうしたの?」
「い、いえ! 何でもありませんよ! 今、ご用意しますね!」
アスカは首を傾げるが、ヴィルはそれに気づく様子もなく、奥に引っ込んでしまった。
「あいつ……そういうことか」
「龍太郎くん、何か気づいたの?」
閃いた様子の龍太郎に、少し離れた位置にいた智代理が問いかけた。
「んえ!? あ、ああ……ちょっとね」
「なんだ、今の声は」
「う、うるせぇな、シュン。ちょっとびっくりしただけだよ」
「何でもいいが、何に気付いたんだ? 龍太郎くんよ」
シュンが、からかい混じりにそう言った。
「テメェ、気づいてんじゃねぇか……。……それでだが、あのヴィル、多分だが神森に気があるぞ」
「……は?」
一瞬、場が凍りついた気がした。よく見れば、会話に入っていなかったセーヴもユカリもカエデも、そしてアスカまでもが、龍太郎に冷たい視線を送っている。
「釘丘、何言っているの?」
アスカが再び、人を殺しそうな目つきになった。
「いや、よく考えてみろよ。さっきのヴィルの態度、明らかにおかしかっただろ。これだけ人がいるのに、店内に入ったらまず神森の名前を呼んだ。それに、さっきあいつの顔赤かったしな」
「いやいや、そんなわけ……」
カエデが少し引き気味に言った。
「それに俺、今日この街を出る際にここに寄ったんだ。勿論ヴィルがいたんだが、実はそこで、ヴィルがずっと神森の話をしてたんだ。『あの人って、凛々しくて、綺麗ですよね』とか、『戦っている姿、一度でいいから見てみたいなぁ』とか、『アスカさん、気になる人とか、いるのかな……』とかな」
「え……それ本当?」
龍太郎が迫真の演技で話し終える頃には、全員の視線は龍太郎ではなく、真反対にいるアスカへと向けられていた。
「あ、あたしは知らないわよ! それに、この男が言っているんだもの、全部嘘よ」
アスカが珍しく興奮して言った。と、後ろから何かが割れる音が聞こえた。
振り向くとそこには、手をふるふると震わせて涙目になっているヴィルの姿があった。
「あ」
龍太郎が直感でまずいと感じる前に、ヴィルがものすごい速度で龍太郎に近づき、その胸元を掴み上げた。
「りゅ、りゅ、りゅ、龍太郎さん!? 何言ってるんですか!? それは言わないって約束だったのに!! それに、一番最後! 僕はあんなこと言ってませんよ!?」
「あ、あれー? そうだったか?」
シラを切るつもりなのか、龍太郎は吹けない口笛をヒューっと吹いた。
龍太郎を掴み上げたヴィルは肩をふるふると震わせている。
(……最後のやつは言ってないってことは、それ以外は言ったんだ……)
これが、恐らく龍太郎とヴィル以外のこの場にいる者たち全員が思ったことだろう。
「はぁ……」
数分後、ヴィルは落ち着きを取り戻していた……というよりも、諦めがついたと言ったほうが正しいかもしれないが。ついでにヴィルが用意した小物――薬や消耗品たちも、全員分配り終えたところだ。
「どうした? 元気ないなぁ」
龍太郎が嫌な笑みを浮かべながら、沈むヴィルの肩を叩く。
「……もう、龍太郎さんには今後変なことは口走らないようにします……」
「そうした方がいいわ。この男、ロクなことしないわ」
アスカが同意するように、うんうんと頷いた。
「俺はただ、起きたことを正確に伝えただけなんだが」
「伝えていいことと悪いことがあるだろ。それに、最後は嘘だし」
シュンが呆れたように言った。
「もう、いいですよ。その話は……」
「そうね。これ以上していたら、ヴィルさんの心がもたなそう……」
肩を落とすヴィルは今にも泣き出しそうで、気力が感じれらない。
「そ、それじゃあ、私たち、そろそろ行きますねっ」
しびれを切らしたのか、智代理がそう言った。それに続いて、他のメンバーも手に持っているアイテムなどをアイテムパックやアイテム欄にしまう。
「ひとつ、いいですか?」
今までぐったりとしていたヴィルが、その顔を上げた。
「はい、なんですか?」
それに智代理が答える。
「えっと、皆さん、また戻ってきたりはするんですか……?」
その問は、とても難しいもので、現状では答えきれるものでは無かった。だが、智代理……いや、智代理を含めた全員は、こう思っていた。
「戻ってきます。必ず」
智代理は胸を張って、自分たちに言い聞かせるように力強くそう言った。
「そうですか、それは良かった……」
ヴィルはほっと安堵の表情を見せると、すっくと立ち上がった。
「それじゃあ、さようなら、ではないですね。……いってらっしゃい」
ヴィルの優しい笑顔を背に、龍太郎、智代理、アスカ、セーヴ、シュン、カエデ、ユカリの七名で構成されたギルド、百鬼旋風は、ロークレス姫が統べる街アルカミアを旅立った。
おはようございます、天柳啓介です。
今回更新から新章《楽園編》スタートしました!
お話はまだまだ続くので、どうかお付き合いいただければ幸いです。




