第5-1話 東京拘置所・第二面会室の臭気
東京拘置所の面会室を支配しているのは、独特の乾いた臭気だった。
消毒用エタノールのツンとしたにおいと、壁のペンキが老朽化して剥がれ落ちる粉っぽさ、そしてアクリル板の向こう側から漂ってくる、長期間風呂に入っていない人間の皮脂と安物トニックシャンプーが混ざり合った生温かい匂い。
国選弁護人である矢島忠志(四十五歳)は、かさつく指先で事件記録の綴りをめくりながら、こめかみを強く指で押さえた。スーツのポケットの中で、さっき飲んだ太田胃散の小さな缶が、カチャリと不快な金属音を立てる。四十代半ばをすぎて急激に減った頭髪と、あと二十二年残っている埼玉の建売住宅のローン。その重圧に押し潰されそうな日常の中で、この事件は最初から暗雲しか垂れ込めていなかった。
「……神宮寺さん。もう一度、確認させてもらいますよ」
アクリル板の向こう側に座る男――神宮寺玲央(三十一歳)は、薄汚れた灰色のスウェット姿にもかかわらず、まるで謁見室で臣下を見下ろす愚王のような不遜な笑みを浮かべていた。
髪の毛は脂で束になり、額にはうっすらと赤黒いニキビ痕が散っている。しかし、その細い目だけは、妙な全能感にギラギラと光っていた。
「矢島先生。何度も同じことを聞かないでいただきたいな。凡人の脳みそには理解しがたいかもしれないが、僕の起こした事象は単なる『過失致傷』や『建造物等以外放火未遂』などという俗悪なカテゴリに収まるものではない。あれは、現代物理学の盲点を突いた、至高の不可解犯罪プロトタイプなんだよ」
神宮寺は爪の間に黒い垢を溜めた細い指先を組み、メガネのブリッジを気取るように押し上げた。
「……はあ」
矢島は胃の奥からこみ上げてくる酸っぱいものを呑み込んだ。手元の事件記録には、警視庁が作成した身も蓋もない捜査報告書と、実費の被害目録が几帳面に綴られている。
【被告人:神宮寺玲央】
【職業:無職(実家からの支援で生活・元システムエンジニア試用期間中解雇)】
【被害状況:アパート『コーポサンライズ201号室』の畳二畳および壁紙焦損。自室の配電盤破裂。隣室(202号室)の家電製品一時機能停止。被告人本人の右手第二指・第三指に第二度熱傷】
【押収品:中古のフェーズドアレイアンテナ基板、自作の高圧コンデンサバンク(総容量12000μF)、変圧器、海外通販で購入した工業用レーザーダイオードの無残な焼け残り、多額の消費者金融借入明細書】
「神宮寺さん。あなたが『不可解犯罪プロトタイプ』とおっしゃっているこの装置ですがね……」
矢島は溜め息をつき、書類の一ページを指し示した。
「サラ金三社から借り入れた二千八百万円の使途明細です。秋葉原のジャンク屋や海外の怪しいECサイトから買い集めた中古パーツの山。おまけに、高圧コンデンサの配線加工中に感電して指を火傷し、ガリガリ君を食べながらノコギリで鉄パイプを切ろうとして指を詰めかけた……と警察の取調べ段階で自供されていますね」
「それは実験の準備過程における些細なアクシデントだ!」
神宮寺が身を乗り出し、アクリル板にバチンと手のひらを打ちつけた。板が大きく揺れ、内側に溜まった彼の白い息が曇りを作る。
「いいかね矢島先生! 僕は大気中において局所的な励起状態――すなわち『プラズマ』を人工的に生成し、それを高出力の電磁波で位相制御することによって、隣部屋の生意気な女子大生の頭部だけを遠距離から加熱・発火させようとしたんだ! 科学者としての僕の理論は完璧だった! 物理法則の幾何学が生み出す、痕跡なき完全犯罪だよ!」
矢島はそっと目を閉じた。
この男は本物だ。本物の「ネットでかじった知識を自分の天才性の証明だと信じ込んでいる無職」だ。
「……でも神宮寺さん。結果として、プラズマとやらは発生せず、アンテナに過電流が流れてアパート全体のブレーカーが落ち、あなたの部屋のコンセントから火が出て畳が焦げただけですよね? 隣の女子大生さんは『なんか部屋の電気が消えたからコンビニにアイス買いに行きました』と供述されていますよ」
「それは……! それは探偵だ! 優秀な警察の物理学者が現場に来て、僕の高度なトリックを紐解くはずだったんだ! なのに来たのは生活安全課のダサい巡査で、僕が指を火傷して『あちちっ』と叫んで廊下に飛び出したところを確保した! 警察のレベルが低すぎるから僕の天才性が証明されないんだよ!」
神宮寺は怒りで唾を飛ばし、アクリル板をベタベタと手垢で汚した。
矢島はポケットの中の太田胃散の缶を強く握りしめた。
国選弁護人の報酬は、この手の煩雑で不毛な件でも一律数万円程度だ。この男の無意味な自尊心に付き合わされる時間で、埼玉の自宅の芝刈りでもしていた方がよっぽど人生の足しになる。
「……わかりました。明日の第一回公判、予定通り行いますからね。あまり法廷で暴れないでくださいよ」
矢島はそう言い残し、重い足取りで面会室を後にした。背後から神宮寺の「凡人どもめ! 法廷で僕の智謀にひれ伏すがいい!」という甲高い叫び声が、鉄の扉の向こうへと消えていった。




