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天才科学者・敷島怜の冷徹なる計算  作者: 山口遊子
第四章:ニューラル・ポンジの深淵

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第4-5話 熱可塑性の欺瞞

グララララ……!


三十メートルを超える漆黒の巨波がメガヨット改造データセンター船『アラクネ・レヴィアサン』の右舷を直撃し、船体は断末魔のような金属破断音を上げて大きく斜傾した。

破れ渡った外板の隙間から、太平洋の狂暴な海水が滝のように最下層区画へと流れ込んでくる。非常用の赤色LED灯が重油の混ざった黒い濁流を血のように照らし出し、海水に浸かった高出力パワーユニットがバチバチと苛烈な青白いスパークを撒き散らしていた。


敷島怜はエレナの細く冷え切った手首を掴み、崩壊しつつあるサーバーフロアの傾斜を力強く踏みしめながら脱出通路へと向かっていた。


「……離して……! お願いだから、触らないで……っ!」


エレナは濡れた髪を乱し、涙と血に汚れた顔で叫んだ。

怜の手のひらから伝わる規則正しく冷たい体温。それが、かつてウラジオストクの隠れ家で感じた庇護のぬくもりではなく、自分というパーツの動作環境を維持するための「冷却システム」に過ぎなかったという残酷な事実が、彼女の神経を狂わせる。


「僕の手を離せば、流速毎秒四メートルの濁流によって三秒以内に隔壁へ激突し、君の生存確率は14.2%にまで低下する」


怜の声は、窓外の荒波の地響きすら覆い隠すほど無機質だった。

彼の手首に巻かれたパテックフィリップの秒針が、チチチ……と無情なリズムを刻む。怜はポケットからハーブキャンディを取り出し、舌の上に転がした。強烈な薄荷の香気が鼻腔を駆け抜け、彼の視覚野(ARディスプレイ)に、船内の熱流束と構造疲労度を計算する透明な数式レイヤーを展開させていく。


「やらせない……! アラクネの……私の資産を、崩壊させてたまるかぁぁっ!」


突如、水煙の奥から狂気の絶叫が響いた。


倒壊したサーバーラックの下から這い出してきたジュリアン・カーターだった。

潰された左脚から血を垂らし、顔面を惨劇のように染めたカーターは、予備の携帯型BMI端末を胸に抱きかかえていた。彼は非常用の高圧バイパスケーブルを遮断機に直接突き刺し、甲板上の大型ディーゼル発電機から残存する量子演算ユニットへ、限界を超えた過剰電流を流し込み始めたのだ。


ド・ド・ド・ド……!


船体を揺らす発電機の重低音が倍増し、アラクネの受信用ノードが過熱して赤外線を放ち始める。


「ヴォルコワ! 君の海馬に残るマスターキーを、いま力ずくで焼き写す(オーバーライド)! 脳が蒸発しようと知ったことか!」


「キィィィィン――――!!」


エレナの耳の奥で、84.2ギガヘルツの同期音が、鼓膜を直接ナイフで削ぎ落とすような超高圧の電子悲鳴へと変貌した。


「あ……あがぁぁぁぁっ!?」


エレナは過酷な激痛に目を剥き、その場に膝をついた。口の中に溢れ出す冷たい血の味。

カーターが流し込む暴力的パルスが、彼女の傷ついた聴覚野と海馬を穿ち、意識を肉体ごと引き裂いていく。


「無駄な悪あがきだな、カーター」


怜は足を止め、倒れ込むエレナの身体を左腕で抱き留めながら、氷のように冷ややかな瞳でカーターを見下ろした。


「君は、我が国の茶道や生化学が持つ熱力学的な本質を何ひとつ理解していない。……そして、僕がなぜ彼女に『静岡産の深蒸し緑茶』を飲ませ続けていたのかもね」


カーターの血走った目が怜を睨みつける。

「お茶だと……!? 何を狂ったことを語っている、敷島!」


「人間の脳神経における情報伝達速度は、通常毎秒百メートル程度だ」

怜は舌の上のキャンディを転がしながら、淡々と語りかけた。


「だが、極限の絶望と精神的裏切りによって誘発されるセロトニンの急性枯渇とアドレナリンのサージは、脳波のパルス密度を一瞬で毎秒三千倍以上に跳ね上げる。……僕が彼女に与えていた高濃度テアニンと特殊アルカロイドは、単に彼女の脳波をセロトニン優位に保つためだけの『安定剤』ではない」


怜の指先が、スマートグラスのフレーム側面に配置された静電タッチセンサーを静かにタップした。


「彼女の脳波が極限の絶望と拒絶によって破綻した瞬間――その波形が、受信用BMIのフィードバックループを破壊する『熱力学的過渡ノイズ』へ不可逆変換されるよう、最初から脳波の調律(プロトコル)に組み込んでおいたんだよ」


エレナの瞳から、ボロボロと絶望の涙がこぼれ落つ。


――私を助けてくれたわけじゃなかった。

――私に淹れてくれたあのお茶は、私の脳を『熱爆弾』へと仕立て上げるための、毒薬だったのだ。


エレナの心の中で、怜への絶対的な信頼が完全に崩落した。その瞬間、彼女の海馬から放たれたのは、怒りと絶望が極限まで凝縮された、異常な高密度コヒーレントパルスだった。


バチバチバチバチッ――――!!!!


「な……なんだと!?」


カーターが抱える予備端末の画面が目も眩むような鮮紅色の警告に染まった。

エレナから逆流した過渡ノイズパルスが、アラクネ社の基幹システムへと全速力で伝播していく。


最下層サーバーフロアを維持していたマイナス百九十六度八分の超伝導冷却液(液体窒素)の巡回パイプラインが、爆発的な共振を起こし始めた。


物理学における極限現象――超伝導クエンチ。


超伝導状態を保っていた電導体が急激な過渡ノイズによって抵抗を持ち、溜め込まれていた天文学的な磁気エネルギーを一瞬で「熱」として放散する不可逆の爆発現象。


「ヒィッ……!? 冷却液の温度が急上昇している!? 熱平衡が……破綻する!?」


カーターが悲鳴を上げた瞬間、壁面を這う極太のチタン配管が、目視できるほどの勢いで赤黒く歪み始めた。超低温の液体窒素が爆発的に沸騰・気化し、金属の許容量を超えて膨張する。


熱可塑性変形(サーモプラスチック・デフォメーション)。


過酷な熱圧に耐えかねた重厚な配管が、まるで温められた飴細工のように柔らかく歪み、膨らみ――そして、破裂した。


プシューーーーーッ!!!!!


過酷な白蒸気と、摂氏数百度へと跳ね上がった気化窒素の暴風が室内を吹き荒れる。

アラクネ社が誇る数千台の量子スパコン基板が、一瞬でドロドロの白金と珪素の金属塊へと溶け落ちていった。数千兆ドルの価値を誇ったデジタル意識市場の全暗号鍵が、熱力学の法則に従って物理的に消滅していく。


「あ……あああ……っ! 私の帝国が……私のポンジシステムが……熱で溶けていくぅぅぅっ!」


溶け落ちる基板の熱泥に手を伸ばしながら、カーターは発狂した叫びを上げた。次の瞬間、崩落した数十トンの冷却塔がカーターの身体を押し潰し、彼の叫び声は無機質な鉄の響きとともに途絶えた。


◇


ド・ド・ド・ド……。


嵐の夜空へと急浮上する救出用ヘリコプターの振動が、キャビン全体を揺らしていた。


下方に広がる漆黒の太平洋の中、メガヨット『アラクネ・レヴィアサン』は、灼熱の蒸気を吐き出しながら狂暴な波の底へと静かに沈んでいく。海水と熱暴走の炎が交ざり合い、闇の海に不気味な青紫の光の渦を作り出していた。


ヘリのキャビン内。


エレナは厚手のウール毛布に包まり、シートの隅で膝を抱えていた。

彼女の手元には、怜が手渡した保温ボトルが転がっている。だが、彼女がその蓋を開けることは二度となかった。緑茶の豊かな香気すら、いまや己の脳を破壊の触媒に変えた忌まわしい記憶でしかない。


離れたシートに腰掛けた怜は、左手首のパテックフィリップのリューズを指先でカチリと巻き上げた。


彼のスマートグラスには、アラクネ社の崩壊に伴い、敵対ファンドの暗号口座から怜の秘密インデックスへと流れ込んだ莫大な配当データが、淡々と描画されていた。


【 NEURAL PONZI SYSTEM: DESTROYED 】

【 TOTAL CAPITAL RECAPTURED: $4.8 Billion USD 】

【 MASTER NODE STATUS: PROTECTED / EMOTIONALLY BROKEN 】


ポンジスキームは物理的に潰えた。

だが、エレナの脳波と怜の暗号金庫を結ぶ生体接続は、彼女の絶望を鍵として、二度と解くことのできない不可逆の構造へと昇華してしまった。


彼女が生きている限り、怜のポートフォリオは完璧であり続ける。

そして彼女は、自分を「システム」として組み込んだこの冷酷な男を、二度と信じることはできない。


怜はポケットからキャンディの包み紙を取り出し、小さく折りたたんで胸ポケットへと収めた。

窓の外を刺す稲光が、彼の整った横顔を白く照らし出す。


(これでいい……)


冷酷な計算の底深くで、怜は静かに独白した。


(君に憎まれ、蔑まれようと……君という存在が生き残る確率が100%であるならば、僕の方程式に一切の過ちは存在しない)


太平洋の猛烈な暴風雨を突いて、漆黒のヘリコプターは茜色の残光が沈んだ闇の彼方へと消えていった。


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