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天才科学者・敷島怜の冷徹なる計算  作者: 山口遊子
第三章:デッド・マン・スイッチの設計図

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第3-6話 まっとうな配当

 スイス、ジュネーブ。レマン湖を見下ろす旧市街の小高い丘に佇む、築三百年を誇る老舗プライベートバンク『バンカー・ボアソナ』の特別会合室。


 窓の外には、晩秋の澄み渡った空と、レマン湖の静謐な水面が広がっていた。遠くモンブランの山頂は白い雪を戴き、夕刻の斜光を受けて淡い桃色に染まっている。カザフスタンの荒野から超音速プライベートジェットで飛来した二人にとって、その泥濘と暴風雨の世界から見れば、ここはまるで絵画のように出来すぎた静寂が支配する異界だった。


 だが、その重厚なマホガニーの円卓の上に置かれた小さく歪んだ端末だけが、世界全体の命運を秒単位で刻み続けていた。


 【 00 : 21 : 43 】

 【 00 : 21 : 42 】

 【 00 : 21 : 41 】……


 液晶画面の深い亀裂の奥で、血のような赤文字が点滅している。


 室内の空気は、磨き上げられたアンティーク家具の蝋の匂いと、高級なエスプレッソの微かな香気、そしてそこに集まった者たちの重苦しい冷や汗の気配に満ちていた。


 円卓を囲んでいるのは、世界の裏で無数の動脈を握る面々だった。

 車椅子に揺られ、右肩に包帯を巻いたマーカス・ヴァーン。中国の軍事ファンドを束ねる張偉明。クレムリンの特命交渉人、さらにはNATO幹部の影の代行者。かつては敵対し、互いに銃を向け合っていた者たちが、今は一様に蒼白な顔でそのカウントダウンを見つめていた。


「敷島……冗談はよせ」

 ヴァーンが震える手で葉巻を咥えようとしたが、ライターの火をつけることができず、灰皿へ投げ捨てた。

「端末が破損してタイマーが止まらないだと!? 残り二十分で我々の数千兆ドルのファンドが吹き飛び、世界中の債券市場が凍結するんだぞ! 今すぐスイス銀行の量子サーバーを使ってアクセスを遮断しろ!」


「遮断すれば、分散型衛星ノードは僕の死を確定事項として処理する」

 敷島怜は静かに語った。


 彼の前には、精密なハンダごてと、プライベートバンクから提供された超広帯域の物理接続用インターフェースが並べられていた。

 怜は左手首のパテックフィリップの金属の冷たさを確かめると、ハーブキャンディの包み紙を指先で静かに破り、口に含んだ。薄荷の鋭い香りが鼻腔を抜け、研ぎ澄まされた集中力が視界を無色透明に変えていく。


「この端末の基板は焼き切れている。手動の暗号コード入力による解除は物理的に不可能だ」

 怜は細いピンセットで、焦げついたマイクロチップの接点を器用に持ち上げた。


「助かる方法はただ一つ。このプライベートバンクの暗号化分散サーバーを『中継ノード』とし、僕の心拍シグナルと、君たち全員のマルチシグ(複数署名)を統合した新たなプロトコルを即座にネットワークへ書き換えることだ」


「早くそれをやれ!」張偉明がテーブルを叩いた。「何を出し惜しみしている!」


「条件がある」

 怜は手を止め、硬質な瞳で円卓の男たちを一人ずつ見回した。


「条件……? 金か?」ヴァーンが浅い息を吐きながら嗤った。「いくらでも払う。五千億ドルか? 一兆ドルか? スイスの秘密口座に今すぐ送金してやる!」


「金などいらない」怜は即座に吐き捨てた。


「僕が要求するのは『地位』だ。金銭的な富ではなく、ゲーム理論上の絶対的な不可侵権だ」


 怜はPC画面を静かに操作し、彼らの前に一通の電子協定書――『ジュネーブ不可侵プロトコル』を表示させた。


「僕を殺せば、あるいは捕獲して拷問すれば、デッドマン・スイッチが起動する。これまではその『恐怖』だけで君たちの暗殺命令を抑え込んできた。……だが、それだけでは足りない。今回のカザフスタンのように、利益を急ぐ過激派や暴走者が現れれば、この相互破壊(MAD)は破綻する」


「……どうするつもりだ」クレムリンの交渉人が低く尋ねた。


「僕自身を、君たちの軍事ポンジスキームの『静かな構成員(サイレント・パートナー)』としてシステムに不可逆に組み込む」


 怜の声には、迷いが一切なかった。


「僕が生きている限り、僕の専用口座には毎年、世界防衛ファンドの運用収益からコンマゼロゼロ一パーセントの『配当(セキュリティ・ディビデンド)』が自動で振り込まれ続ける。そして、僕の心拍データは、君たちのファンド全体の決済承認キーの『必須の1ピース』となる」


 円卓にどよめきが広がった。


 それは、怜を殺すことも捕らえることも不可能にするだけでなく、彼を生かして優雅に生活させ続けることが、米・中・露・欧すべての利権集団にとって「最大の経済的利益」となる仕組みだった。

 怜が死亡した瞬間、配当の分配構造は永久に停止し、各国の防衛ファンドは自己崩壊を起こす。


「君たちは僕を消すこともできず、脅すこともできない。僕の生存と自由こそが、君たちのファンドが破綻せずに配当を得続けるための唯一の担保になる」


「貴様……国家と軍需産業全体を、自分一人の『終身保険』にするつもりか!?」張偉明が怒りに顔を歪めた。


「保険ではない。『まっとうな配当』だよ」

 怜は冷ややかに微笑んだ。


「君たちが存在もしない核兵器の熱膨張データで世界から数千兆ドルを搾取し続けているなら、その『騙し絵』の天井の上で、僕が静かに自分の取り分を受け取って何が悪い?」


 【 00 : 05 : 12 】

 【 00 : 05 : 11 】


 タイマーが残り五分を切った。

 端末のエラー音が、高ピッチの電子悲鳴となって室内に響き渡る。


「選択の刻だ、ヴァーン。張」

 怜はピンセットを持ち、ハンダごてをインターフェースの基板に近づけた。


「僕の提示したプロトコルに、君たちの分散暗号鍵を今すぐ署名しろ。断れば五分後、君たちが築き上げた偽りの帝国は、莫大な空売り(ショート)の嵐とともに瓦解する」


 ヴァーンは歯を食いしばり、血の滲むような溜息をついた。

「……イカれている。たった一人の男に、世界全体の金融インフラが握られるとは」


「署名しろ、ヴァーン!」張が叫んだ。「破滅するよりはマシだ!」


 一秒、また一秒と刻限が削られていく。

 死の直前に追い詰められた権力者たちが、次々と端末に生体認証と暗号鍵を提示していく。


 残り時間【 00 : 01 : 05 】。


 全員の署名が揃った瞬間、怜の指先が電光石火の精度でハンダを押し当て、プライベートバンクの量子サーバーへの直結回線を完成させた。


 青い光がインターフェースを駆け抜け、サーバーのインジケーターが一斉に緑色に点滅した。


 ピピッ。


 【 OVERRIDE SUCCESSFUL. 】

 【 BIOMETRIC LINK RE-ESTABLISHED. 】

 【 EMERGENCY COUNTDOWN: TERMINATED. 】


 血のような赤文字が消え、静かな緑色の安定シグナルへと変わった。


 室内に、長い、長い沈黙が降り立った。

 ヴァーンは力なく椅子に深く沈み込み、張は顔を両手で覆った。


 敷島怜はハンダごてのスイッチを切り、パテックフィリップのリューズをカチリと一回だけ巻き上げた。


「交渉成立だ。……良い一日を、紳士諸君」


 ◇


【エピローグ】


 事件から数ヶ月後。

 ロシア、ウラジオストク。金角湾を見下ろす高台にある、古いレンガ造りの静かなカフェ。


 初冬のシベリアから吹きつける風が、街路樹の葉をすっかり落とし、港に浮かぶ砕氷船の重い霧笛の音を運んできていた。店内には薪ストーブの心地よい爆ぜる音と、炒りたてのコーヒー豆の香ばしい匂いが漂っている。


 窓際の席で、敷島怜は地元のロシア語新聞を静かにめくっていた。


 紙面には、米国防総省の防衛予算増額のニュースと、中国の次世代素材ファンドの堅調な推移を伝える記事が並んでいる。裏でどれほどの血が流れ、世界が崩壊の淵に立たされたかなど、末端の市民は誰も知らない。世界は何事もなかったかのように、巨大な詐欺のスキームの上で滑らかに回転し続けていた。


「風が冷たくなってきたわね」


 向かいの席に、黒のウールコートを着たエレナ・ヴォルコワが腰掛けた。

 彼女は革の手袋を脱ぎ、運ばれてきた熱いホットチョコレートのカップを両手で包み込んだ。首筋の傷痕はすっかり消え、その表情にはかつて追撃者として張り詰めていた鋭さはなく、柔らかな落ち着きが戻っていた。


「弟さんは?」怜が新聞から目を離さずに尋ねた。


「モスクワの補給廠で、安全な事務職に就いたわ」エレナはカップに唇を付け、小さく息を吐いた。「ヴァルカン・キャピタルからの特別奨学金という名目で、毎月十分すぎる手当が出ている。……あんたが作った『配当』のおかげね」


「それはよかった」


「ねえ、怜」

 エレナは青い瞳を悪戯っぽく細め、窓の外の寒々しい港を見つめる怜の横顔を覗き込んだ。


「世界全体を人質にして得た暮らしの住み心地はどう?」


 怜は手元に置かれた小ぶりのカップを取り、冷えたエスプレッソを静かに飲み干した。強い苦味と豊かなオイルの余韻が、舌の上に残る。


「悪くないよ」

 怜の口元に、微かな、しかし心からの静かな微笑が浮かんだ。


「世界全体が巨大な詐欺で回っているおかげで、僕の配当(自由)も当分は安泰だからね」


 シベリアの冷たい風がカフェの窓ガラスを優しく揺らした。


 怜はポケットの中で、真新しい最新型のスマートフォンをそっと操作した。

 そのダークモードの画面の隅、高度に暗号化された隔離フォルダの奥深くで、一つの真新しいデータノードが密かに、しかし力強く青い光を点滅させていた。


『NODE-04: PROJECT "NEURAL PONZI" DETECTED.』


 軍事ポンジの先にある、新たな暗黒の市場。

 世界の詐欺が続く限り、天才科学者・敷島怜の計算が止まることはない。



(第三章・デッド・マン・スイッチの設計図完)


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