第3-2話 アイグン条約の影
ハバロフスクへ向かうシベリア鉄道の二等客車は、ディーゼル油と古びた毛布、そして乗客たちの吐き出す安いタバコの煙が混ざり合った独特の重苦しい空気に満ちていた。
ガタゴトと重い車輪が凍てついた鉄路を叩くたび、二重窓の隙間から細い針のような冷気が滑り込んでくる。
敷島怜は、木製の粗末なテーブルに置かれたグラスに目を落とした。金属製のホルダー(ポドスタカンニク)に収まった濃い紅茶には、角砂糖がひとつ落とされている。表面に浮かぶ薄い油膜が、窓の外を流れるアムール川の夕焼けを映して赤く揺れていた。
「あいつらは、この街をもうハバロフスクとは呼ばない」
向かいの席に座るエレナ・ヴォルコワが、紙筒付きのタバコ『ベロモルカナル』に火をつけながら低く呟いた。紙筒を手で押し潰して吸うソ連時代からの無フィルタータバコだ。強いツンとした葉タバコの匂いが、狭いコンパートメントに立ち込める。
「なんと呼ぶ?」
「『伯力』だ。清朝時代の名だよ」
エレナは吐き出した白い煙の向こうで、窓の外を指さした。
車窓の彼方、広大なアムール川は巨鯨の背のように白く凍りつき、その向こうに沈む巨大な夕日が一帯を血のような濃い朱色に染め上げていた。空の上が群青色から漆黒へと移り変わる狭間で、凍結した大河の表面が黄金色にギラギラと反射している。
ハバロフスクの駅前に降り立つと、その光景はより露骨だった。
駅前広場に掲げられた観光案内板。キリル文字で書かれた街道名の脇には、真新しいステンレスの板で、中国語の簡体字が並べられている。土産物店に並ぶのは、マトリョーシカではなく中国産の安価な電子機器と、1858年の『アイグン条約』以前の境界線を描いた古地図のレプリカだった。
「アイグン条約……ロシア帝国が清朝の弱体化に乗じて、アムール川以北の外満州を分捕った不平等条約か」
怜はコートの袖口からパテックフィリップのステンレスケースに指先を滑らせながら言った。金属の冷たさが指先を通じて伝わってくる。
「中国共産党(CCP)にとって、あの条約は屈辱の象徴だ」
エレナはコートの襟を立て、周囲を警戒しながら歩を早めた。
「西部戦線でロシアの正規軍が東部から引き抜かれ、ここには年老いた国境警備隊と、中国資本から賄賂を受け取る腐敗した警察しか残っていない。今やアムール沿岸の森林も、鉄鉱石も、リチウム鉱山も、すべて中国の国営企業が半永久的な借地権という名目で買い叩いている」
二人が身を寄せたのは、ハバロフスク郊外にある廃墟と化した火力発電所跡だった。巨大な冷却塔が不気味な影を夜空に投げかけている。かつてソ連の重工業を支えたその施設は、現在、中国の投資ファンド『金沙江資本』のアジア物流拠点として看板が掛け替えられていた。
暗く冷え切った地下の操作室に潜入した怜は、持ち込んだ軍用ノートPCをローカルの光ファイバー回線に直結させた。キーボードを叩く規則的な音が、コンクリートの壁に反響する。
「見えてきたぞ……張偉明の描いた美しいキャンバスがね」
画面に浮かび上がったのは、何十層ものペーパーカンパニーを経由する複雑な資金の流動図だった。
「張り巡らされた糸の起点は二つある」
怜は画面の数値を指でなぞった。
「一つは、アメリカの金融市場だ。『台湾有事』の緊張をメディアやシンクタンクを使って徹底的に煽り立てる。これにより、アメリカ議会は国防予算を跳ね上げ、大手防衛ファンド『ヴァルカン・キャピタル』に巨額のマネーが流れ込む。ヴァルカンはその資金を『核兵器の近代化』へと割り当てる」
「そしてもう一つが、ここね」エレナが画面を覗き込む。
「そうだ。ヴァルカンから流れた資金の一部は、香港とスイスのダミー口座を経由し、張偉明の『金沙江資本』を通じてロシアの極秘軍需企業へと還流する。名目はさっき話した『高温原子炉用セラミックによる核爆縮系の強化』だ」
怜は冷ややかに鼻で笑った。
「実質的には起爆不可能な過渡現象の欠陥技術に、ロシア側は年間数百億ドルの『近代化予算』を計上する。アメリカは『ロシアが新型核を開発した』と吹聴してさらに防衛予算を増やし、ロシアの将校どもは架空の部材発注からキックバックを得る。中米露のトップ利権層だけが、実体のない防衛投資から完璧な配当を吸い上げ続けているんだ」
「なんて奴らだ……」
エレナの拳が硬く握り締められ、指の関節が白く浮き出た。自国の安全保障が、ただのマネーロンダリングのダミーとして利用されている事実に、彼女の胸中で激しい憤怒が燃え上がっていた。
「だが、張偉明の真の狙いは配当金だけじゃない」
怜の瞳に、計算し尽くされた硬質な光が宿る。
「張偉明にとって、このポンジスキームはロシアを経済的に完全な麻薬中毒(依存状態)にするための罠だ。ロシアは兵器の『近代化』という名目の裏金なしには軍の維持すらできなくなる。そして、経済的に完全に行き詰まったところで、張は150年前のアイグン条約を事実上無効化する。銃弾を一発も撃たずに、外満州の資源と領土を『サイレント領有』するつもりさ」
その時――。
地下室の重い鉄扉の向こうから、極小の電子音が響いた。
暗視スコープの赤外線レーザーが、薄暗い室内を幾重にも交差して走る。
「伏せろ!」
エレナが怜の首根っこを掴んで床へ引き倒した瞬間、激しい銃撃音が地下室を揺らした。
タタタタタン!と、消音器を通した特有の甲高い打撃音がコンクリートを削り取り、火花と粉塵が視界を奪う。
襲撃者は一組ではなかった。
北側の通路から侵入してきたのは、無音の動きで距離を詰める黒い戦闘服の集団――張偉明が解き放った中国国家安全部系の工作員たちだ。
そして南側の非常階段から突入してきたのは、大口径のアサルトライフルを構えた重装甲の男たち――ヴァルカン・キャピタルが雇い入れた米国の民間軍事会社(PMC)のスペシャリストたちだった。
「くそっ、バッティングしたか!」
エレナが腰のホルスターからマカロフを引き抜き、遮蔽物の影から応戦の引き金を引く。バーン!という乾いた銃声が響き、襲撃者のひとりの胸元を撃ち抜く。
だが、敵の数は多すぎた。しかも、中国側の工作員とアメリカのPMCは、互いに交戦することなく、完璧な連携で怜とエレナの籠もる操作室を挟み撃ちにしていた。
「おかしいな」
怜は粉塵が舞う床に這いつくばりながら、パテックフィリップの文字盤を盗み見た。秒針が静かに刻む。
「中国側とアメリカ側が、現場で衝突せずにラインを合わせている。……僕の排除という一点において、彼らは完全に合意しているということだ」
「感心している場合か! 脱出するわよ!」
エレナがF1手榴弾のピンを歯で引き抜き、通路へ向かって投げつけた。
重厚な爆発音とショック波が地下室を揺らし、天井から古いアスベストと塗料の破片が降り注ぐ。その爆煙に紛れ、二人は排水路の保守坑道へと滑り込んだ。
背後から追撃の足音と、ロシア語、英語、中国語の飛び交う怒号が追いかけてくる。
保守坑道を抜けた先は、アムール川の凍てつく河川敷だった。
夜の気圧配置が急変していた。急激な低気圧の到来により、地表を覆う吹雪が暴風へと変わり、目を開けていられないほどの雪粒が顔面を打つ。マイナス二十五度を下回る風が、衣服の隙間から体温を一瞬で奪い去っていく。
川の氷面から、ドカン!ドカン!と巨大な重低音が響き渡っていた。
『氷鳴り』――極寒によって氷床が内部から膨張し、裂け目が生じる自然現象だ。まるで大砲の打ち合いのような音が、猛吹雪の暗闇にこだましている。
「ハァ……ハァ……!」
エレナの吐息が白い霧となって吹き飛び、彼女のまつ毛には瞬時に氷の結晶がこびりついた。
河川敷の雪原を、二人は足をとられながら走る。
背後から、スノーモービルの高回転エンジン音が吹雪を切り裂いて迫ってきた。ヘッドライトの強烈な光条が、ホワイトアウトした視界を真っ白に染め上げる。
「怜! 川を渡るわよ!」
「バカ言え、氷が割れている!」
「陸地にいたら秒で蜂の巣よ!」
エレナが怜の手首を掴み、凍りついたアムール川の氷上へと飛び出した。
スノーモービルに乗った米国のPMCアサシンが、車体から身を乗り出して軽機関銃を乱射する。氷面に弾丸が着弾するたび、氷の破片がダイヤモンドの粉末のように弾け跳んだ。
その時、怜の頭脳の中で、氷の厚みと荷重、そしてスノーモービルの重量計算が瞬時に弾き出された。
「エレナ、左へ折れろ! 三秒後だ!」
二人が斜め左へ滑り込むように体勢を崩した直後、追撃のスノーモービルが、氷鳴りで生じた亀裂の走る暗黒の氷床の上へと突っ込んだ。
バリバリバリ!と落雷のような破裂音が響く。
車体と乗員の荷重を受けた薄氷が崩壊し、スノーモービルは搭乗員ごと、黒く渦巻くアムール川の極寒の濁流へと飲み込まれていった。絶叫すら、吹雪の咆哮の中に消え去る。
対岸の闇へと逃げ延びた二人は、半壊した古い木造の漁師小屋へ滑り込み、固くドアを閉ざした。
室内は静まり返っていた。外の吹雪の音が、遠くの唸り声のように聞こえる。
エレナは壁に背をもたれかけ、ガタガタと震える手でマカロフのマグキャッチを押し、予備のマガジンを装填しようとした。だが、指先が凍傷で感覚を失っており、弾倉が床に転がった。
「クソッ……!」
エレナが悔しそうに毒づく。
怜は静かに歩み寄り、床からマグを取り上げて彼女のマカロフに挿入し、スライドを引いて薬室に初弾を送り込んだ。その手つきは、恐ろしいほど冷静だった。
「……気づいたか?」
怜は自分のポケットから、小さな暗号化通信端末を取り出した。画面には、世界中の暗号ネットワークから収集されたシグナル・インテリジェンスのログがスクロールしていた。
「何がよ……」
「僕たちの暗殺指令の送信元だ」
怜は端末の画面をエレナに見せた。
そこには、三つの異なる最重要機密フラグが並んでいた。
一つは、ワシントンD.C.の国防総省暗部。
一つは、北京の国家安全部第8局。
そしてもう一つは――モスクワのクレムリン直属、FSB本部特別行動センター。
「中・米・露……」
エレナの声が震えた。
「そうさ」
怜は薄く笑った。その笑みには、狂気すら感じさせる冷徹な愉悦が滲んでいた。
「僕が一国の経済を潰しただけの男なら、彼らは刺客を一人送って終わりだった。だが、僕が彼らの『軍事ポンジスキーム』という、世界を裏で支える最も神聖で醜悪な資金環流システムに手をかけたと理解した瞬間、三つの超大国はすべての利害を超えて握手した」
怜はパテックフィリップのケースを指先でそっと撫でた。リューズのクリック音が、しんと冷え切った小屋の中に響く。
「世界中の暗部が、僕ひとりを殺すために動き出した。……最高じゃないか」
吹雪が小屋を激しく揺らす中、敷島怜の瞳の奥で、次の破滅を紡ぎ出すアルゴリズムが、さらに静かに、そして苛烈に回転を始めていた。




