第11話~第15話
第11話
城の外で、初めて知る温度
東区画から戻った私は、そのまま三日ほど寝込んだ。
高熱が出たわけではない。
目立った怪我があるわけでもない。
ただ、身体の芯がひどく重かった。
目を開けても、すぐに閉じたくなる。
起き上がろうとしても、腕に力が入らない。
そんな時間の中で、何度も夢を見た。
乾いた森。
止まった水。
崩れた石。
そして、遠くで誰かが呼ぶ声。
でも、誰の声なのかは分からない。
四日目の朝、ようやくまともに起き上がれた時には、窓の外の光がやけに眩しく見えた。
「……起きられそうか」
低い声がして、私はそちらを見る。
王子がいた。
窓際ではなく、今日は椅子に座っている。
机の上には書類と、本と、まだ湯気の立つ茶器が並んでいた。
「殿下……まだいたんですか」
「まだ、とは何だ」
「仕事、たくさんあるんじゃ」
「ある」
「じゃあ、どうして」
「ここでしていた」
あまりにも当然のように言われて、私は瞬きをした。
「……ずっと?」
「必要な時は席を外した」
「必要じゃない時は」
「ここにいた」
淡々とした口調なのに、内容だけがまったく淡々としていない。
私は布団を引き上げて、顔の半分を隠した。
「殿下」
「何だ」
「それ、普通はもう少し隠すものだと思います」
「何をだ」
「……なんでもないです」
たぶん、この人に言っても伝わらない。
けれど、胸の奥は落ち着かなかった。
王子は机の上の茶器を手に取り、こちらに差し出した。
「飲め」
「これ、私のですか」
「お前以外に誰がいる」
私はそれを受け取る。
香りはやわらかく、少しだけ甘い。
「侍女が、お前は苦いものが得意ではないと言っていた」
「……そんなことまで」
「体調が戻らない方が困る」
また、それだ。
困る、必要だ、手放せない。
この人はいつもそう言う。
でも今はもう、それだけじゃないことくらい分かってしまう。
「東区画は」
私が尋ねると、王子の目が少しだけ細くなった。
「お前が繋いだ場所は維持できている。完全ではないが、崩壊の進行は遅くなった」
「よかった……」
心からそう思った。
あの時は無茶をしたけれど、少しでも意味があったならよかった。
「ただし」
王子は机に指を置く。
「お前はしばらく城内で安静だ」
「え」
「反論は認めない」
「まだ何も言ってません」
「言う顔をしている」
「それは偏見です」
「そうか」
そう言いながら、王子はまったく考えを変える様子がない。
私は小さくため息をつき、茶を口にした。
温かい。
その温度が、妙に胸の中まで落ちていく。
「……殿下」
「何だ」
「東区画で、私を抱えたまま戻ったって本当ですか」
侍女が教えてくれたのだ。
騎士たちの前で、王子自ら私を城まで運んだのだと。
王子は一瞬だけ黙る。
「事実だ」
「事実なんですね」
「他に運ぶ者がいなかった」
「いましたよね。騎士の方々」
「お前を任せる気にならなかった」
心臓が、嫌なくらい素直に跳ねた。
私はまた茶器に口をつけるふりをする。
「……それ、たぶんすごく誤解されますよ」
「誤解ではない」
「そういう意味じゃなくてですね」
「分かっている」
「絶対分かってないです」
王子は怪訝そうな顔をする。
私はもう何も言えなくなって、視線を窓の外へ逃がした。
青い空だった。
この世界に来てから、初めて少しだけ“日常”みたいなものを感じた気がする。
その時、王子がふと尋ねた。
「外へ出たいか」
「え?」
「城の中ばかりでは息が詰まるだろう」
思わず、王子を見る。
「……安静なんじゃ」
「遠出はさせん」
「じゃあ」
「城の外周くらいなら歩ける」
少し考えてから、私は頷いた。
「出たいです」
「なら、午後に行く」
「殿下も?」
「当然だ」
「また監視ですか」
「それもある」
その答えに、私はもう笑うしかなかった。
午後、王子と私は城の外周にある回廊を歩いていた。
高い石壁の向こうに、王都の一部が見える。
崩れている場所も多いけれど、人が動いている場所もある。
「……思ったより、人がいるんですね」
「ああ。皆、壊れていく中でも生きている」
王子の声は静かだ。
「出ていく者も多いが、残る者もいる」
「残る理由は何ですか」
「故郷だからだ」
その一言に、少しだけ胸が詰まった。
私はこの世界に故郷を持たない。
でも、残るしかない人の気持ちは何となく分かる気がした。
回廊の途中、城壁の裂け目から細い草が伸びているのが見えた。
ほんの小さな緑。
私はしゃがみ込み、それを見つめる。
「ここにも、まだ残ってる」
「直せそうか」
「……少しだけなら」
「駄目だ」
即答だった。
私は顔を上げる。
「殿下」
「今日は歩くだけだ」
「でも、これくらいなら」
「その“これくらい”で倒れたのを忘れたか」
言い返せない。
私が黙ると、王子は少しだけ声を落とした。
「急がなくていい」
「でも」
「お前ひとりで、この世界の全部を背負う必要はない」
その言葉に、胸がじんとした。
誰かにそんなふうに言われたことが、今まであっただろうか。
「……ありがとうございます」
小さく呟くと、王子は何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ視線がやわらかくなった気がした。
風が吹く。
遠くで鐘の音が鳴る。
王都の空気はまだ痛々しいのに、その瞬間だけは穏やかだった。
私はふと思う。
この人と歩く時間を、もっと知りたい。
そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。
第12話
祈りの跡が残る場所
数日後、私は王子に連れられて、城の北側にある古い礼拝堂へ向かった。
今度は安静期間も終わったということで、正式に“異常の確認”のためだ。
「礼拝堂、ですか」
「ああ。今は使われていない」
重たい扉が開く。
中は薄暗く、静まり返っていた。
高い天井。
長椅子。
色褪せた壁画。
正面には、もう何の像だったのか分からないほど風化した石の祭壇。
私は一歩足を踏み入れた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……ここ、悲しい」
自然に口から出た言葉に、王子がこちらを見る。
「何が分かる」
「祈りが……残ってる気がします」
自分でも曖昧な言い方だと思う。
でも、本当にそう感じたのだ。
誰かがここで長い間、何かを願っていた。
それが途切れて、置き去りになっている。
私はゆっくり奥へ進む。
祭壇の前に立つと、さらに感覚が強くなった。
冷たくて、乾いていて、でもどこか温度の名残だけがある。
「ここ、昔は大切な場所だったんですね」
「ああ」
王子は短く答える。
「王家の者も祈りを捧げていた」
「殿下も?」
「幼い頃に数度」
その言い方に、私は少しだけ横顔を見た。
この人にも、ただ守るだけではない、祈るしかできなかった時期があるのだろうか。
祭壇に手を伸ばす。
触れると、ひびの奥に何かが沈んでいるのが分かった。
水でも、木でもない。
もっと曖昧で、けれど確かに“繋がり”だったもの。
「……これ、自然だけじゃない」
呟く。
「どういう意味だ」
「上手く言えないんですけど、ここは土とか石だけじゃなくて、人の思いまで途中で切れてる感じがします」
王子はしばらく黙った。
「直せるか」
「少しだけ、やってみます」
「無理はするな」
「はい」
私は祭壇にそっと手を置いた。
深く息を吸う。
冷たい。
けれどその奥で、かすかに灯みたいなものが揺れている。
そこへ意識を向ける。
切れた糸を結ぶみたいに。
散った祈りを拾い集めるみたいに。
すると、ぱらり、と小さな音がした。
祭壇のひびに沿って、淡い光が走る。
「……っ」
礼拝堂の空気が、変わる。
閉ざされていた窓から風が入り、色褪せた布が揺れた。
長い間止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き出したようだった。
私は手を離す。
「どうだ」
「全部じゃないです。でも、少しだけ戻った」
振り向くと、王子は礼拝堂の奥を見ていた。
その先には、壁画がある。
光が差し込んだせいか、さっきまで見えなかった線が浮かび上がっていた。
「……壁」
私は近づく。
そこには、絡み合う蔦のような模様と、中央に描かれた大樹の絵があった。
その下に、小さな文字列。
「読めるか」
王子に問われ、私は首を横に振る。
「でも、何か……知ってる気がします」
自分でもおかしなことを言っていると思う。
なのに、壁画を見ていると懐かしさに似た感覚が込み上げた。
大樹。
その根を流れる光。
枝の先に広がる、いくつもの層。
「これ……世界の、形?」
ぽつりと呟いた瞬間、王子の目が鋭くなる。
「何だと」
「分からないです、ただ、そう思っただけで」
焦って言い足す。
けれど、王子は壁画から目を離さない。
「この礼拝堂には古い記録が多い。だが、ほとんど読めなくなっていた」
「殿下は、これを知ってたんですか」
「いや。今見えている線は、さっきまで無かった」
私は息を呑む。
つまり、私が少し戻したことで、この壁画もまた“繋がった”のだ。
「……礼拝堂まで直るなんて」
「お前の力は、俺が思っていた以上かもしれない」
その言葉は嬉しいようで、少し怖かった。
もし本当にそうなら、私は何者なのだろう。
礼拝堂を出る頃、空は薄く曇っていた。
私は振り返る。
扉の隙間から差す光が、さっきよりわずかに明るく見えた。
この場所には、確かに祈りの跡が残っていた。
そして、それはまだ消えていない。
そんな気がした。
第13話
名を持たないままではいられない
礼拝堂から戻ったその日、私は珍しく自分から王子の執務室を訪ねた。
「入れ」
短い返事。
扉を開けると、王子は机の前で書類に目を通していた。
「どうした」
私は少し迷ってから、口を開く。
「名前、ちゃんと名乗ろうと思って」
王子の手が止まる。
静かな沈黙が落ちた。
「……急だな」
「急ですけど、大事なことです」
礼拝堂の壁画を見てから、ずっと考えていた。
私はこの世界で、名を持たないまま守られて、必要とされている。
それはどこか不自然だった。
名前は、自分が自分であるための最初の輪郭だ。
「私、ちゃんとここで生きるなら、隠れたままじゃ駄目だと思うんです」
王子はしばらく私を見つめて、それから静かに頷いた。
「分かった」
私は小さく息を吸う。
「……中島、です」
「ナカジマ」
この世界の言葉の中で聞くと、少しだけ不思議な響きだった。
「神社では、そう呼ばれていました」
「家名か」
「たぶん」
本当は、もっと長い名前がある。
でも今はそれを口にするのがためらわれた。
王子は机の上のペンを置く。
「なら、俺はそう呼ぶ」
「……はい」
名前を呼ばれる、それだけのことなのに、胸の奥がじんと熱くなる。
「ナカジマ」
もう一度、王子が言う。
確かめるように。
自分の中に落とし込むみたいに。
私は思わず視線を逸らした。
「殿下」
「何だ」
「そんなに何回も言わなくても」
「俺が覚えたいだけだ」
その言い方が反則なのだと、この人は本当に分かっていない。
私はこほんと咳払いをした。
「殿下のお名前も、ちゃんと聞いてませんでした」
王子が少しだけ眉を動かす。
「知らなかったのか」
「周りが“殿下”としか呼ばないので」
「そうか」
彼は椅子にもたれたまま、少しだけ視線を外した。
「アレクシスだ」
私はその名を頭の中でなぞる。
「……綺麗な名前ですね」
「そうか?」
「はい」
アレクシス。
冷たい響きかと思ったのに、口にすると不思議と柔らかかった。
「じゃあ、二人きりの時は名前で呼んでもいいですか」
言ってから、少しだけ空気が止まった。
王子――アレクシスが、ゆっくりこちらを見る。
「お前がそうしたいなら構わん」
「本当ですか」
「ああ」
その返事に、なぜか私の方が急に恥ずかしくなる。
「……じゃあ、れ、練習だけ」
「何をしている」
「心の準備です」
アレクシスは本気で分からない顔をした。
私は観念して、小さく口にする。
「……アレクシス、殿下」
「殿下はいらん」
「いきなりは無理です」
「そうか」
ほんの少しだけ、彼の口元が緩む。
それだけで、空気がやわらかくなる。
「では、俺も二人きりの時はナカジマと呼ぶ」
「もう呼んでますよね」
「もっと呼ぶ」
「宣言しなくていいです」
私は思わず笑ってしまう。
アレクシスはそんな私を見て、ふと真顔に戻った。
「……名前を教えた以上、今までより強く守る」
「え」
「お前がこの城で、ただの“正体不明の娘”ではなくなるからだ」
その言葉の意味を理解して、私は少し息を詰めた。
名を持つということは、狙われ方も変わるということだ。
「怖いか」
問われる。
私は少し考えてから、首を横に振った。
「少しは。でも」
「でも?」
「アレクシスがいるので」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなる。
でも、彼は笑わなかった。
ただ、静かに頷いた。
「ああ」
「だから、そういう時の返事が強いんですってば……」
私は顔を隠したくなった。
この人の真っ直ぐさには、本当に困る。
第14話
赤いドレスの令嬢は笑わない
名を明かした翌日、私は再び広間へ呼ばれた。
嫌な予感しかしない。
案の定、そこにはレティシア嬢がいた。
今日も赤いドレスをまとい、完璧な微笑みを浮かべている。
けれど、その目は少しも笑っていない。
「ナカジマ様」
名前を呼ばれ、私はわずかに背筋を伸ばした。
「……はい」
「お名前を教えてくださったそうですわね」
「昨日、殿下に」
「そう」
柔らかな口調。
でも、どこか刃のようだ。
「ではようやく、“殿下のそばに置かれている方”として話ができますわ」
その言い方に、周囲の貴族たちが微妙に視線を交わす。
私は少しだけ言葉に詰まった。
アレクシスは私の隣に立っていたが、今日はすぐには口を挟まない。
たぶん、私がどう返すかを見ている。
「私はまだ、何者か分からないままです」
慎重に言葉を選ぶ。
「でも、この城にいる以上、ご迷惑だけはかけたくありません」
レティシア嬢は微笑みを深くした。
「それは難しいでしょうね」
あまりにもはっきり言われて、私は目を瞬いた。
「あなたがここにいるだけで、殿下の周囲は揺れていますもの」
「レティシア」
アレクシスの声が落ちる。
けれど彼女は止まらなかった。
「事実ですわ。殿下は以前より明らかに判断を変えておられます」
その視線が、私に向く。
「あなたのために」
その一言は、責める響きを持っていた。
私は唇を噛む。
自覚がないわけではない。
私が現れてから、アレクシスの行動が変わったことは分かる。
「それでも、私は――」
「お前に言い訳は要らない」
アレクシスが遮った。
「だが」
「俺が決めたことだ」
空気が張る。
レティシア嬢はしばらく沈黙し、それからゆっくりと息を吐いた。
「……殿下は昔から、そうやって大事なことを一人で抱え込まれる」
その声は初めて、少しだけ本音に近く聞こえた。
私ははっとする。
この人は、ただ私を嫌っているだけではない。
アレクシスのことを、本気で心配しているのだ。
「なら、なおさらですわ」
レティシア嬢は言う。
「ナカジマ様。あなたが殿下のそばにいるなら、あなたも覚悟を持ってください」
「覚悟……」
「殿下の隣に立つことは、守られるだけでは済まないということです」
その言葉は鋭かった。
でも、真実でもあるのだろう。
私は小さく息を吸う。
「……はい」
「理解できているようには見えませんけれど」
「レティシア」
またアレクシスが制する。
けれど今度は、私は自分から言った。
「まだ全部は分かっていません」
広間の視線が集まる。
「でも、分からないからって、何もしないままでいたくないです」
レティシア嬢がわずかに目を細める。
私は続けた。
「私がここにいるせいで揺れているなら、せめてそのぶん、ちゃんと役に立ちたい」
沈黙。
自分でも、少し震えていた。
でも、言わなきゃいけない気がした。
レティシア嬢はしばらく私を見てから、ふっと視線を外した。
「……少なくとも、逃げる方ではないようですわね」
それが好意ではないことは分かる。
けれど、最初の拒絶よりは少しだけ違っていた。
広間を出たあと、私は大きく息を吐いた。
「緊張しました……」
「よく言った」
隣からアレクシスの声。
私は顔を上げる。
「怒られるかと思いました」
「なぜだ」
「レティシア様に言い返したので」
「あれは言い返した内に入らん」
「ええ……」
「だが、お前の意思は伝わった」
そう言って、アレクシスは少しだけ歩調を緩めた。
「……嬉しかった」
あまりにも小さな声で、私は聞き返しそうになった。
「今、何て」
「何も言っていない」
「言いましたよね?」
「言っていない」
絶対に言ったのに。
でも、それ以上追及したら、たぶんこの人は本当に黙る。
だから私は、少しだけ笑って飲み込んだ。
この人のこういう不器用さを、前より愛しく思ってしまう自分がいる。
それが、少し怖かった。
第15話
離れたくないと思ったのは初めてだった
その夜、私はなかなか眠れなかった。
レティシア嬢の言葉が頭に残っている。
守られるだけでは済まない。
アレクシスの隣にいるなら、覚悟が必要。
その通りだと思う。
でも、その“隣”を想像した時、自分の胸が少しだけ熱くなるのを否定できなかった。
どうしてだろう。
ここへ来たばかりの頃は、怖いだけだったのに。
気づけば私は、執務室の前に立っていた。
また来てしまった、と自分でも思う。
「入れ」
中から声。
扉を開けると、アレクシスが書類から顔を上げた。
「眠れないのか」
「……少しだけ」
「また悪夢か」
「それもありますけど、今日は少し違います」
私は扉を閉め、部屋の中へ入る。
アレクシスはペンを置いた。
「何があった」
「レティシア様のことを考えてました」
そう言うと、彼の目が少しだけ険しくなる。
「言葉がきつかったか」
「いいえ。たぶん、正しいことを言っていました」
私は机の前まで来て、立ち止まる。
「私、殿下のそばにいることを、ちゃんと考えなきゃいけないんだなって」
「考える必要はない」
「あります」
「ない」
「ありますってば」
珍しく言い合いみたいになって、私は少しだけ眉を寄せた。
アレクシスは椅子から立ち上がる。
気づけば、距離が近くなる。
「俺の隣にいることを、お前が重荷に思う必要はない」
「でも」
「重くするのは俺の役目だ」
「それ、全然安心できない言い方です」
私は思わず笑ってしまう。
でも、すぐに真顔へ戻った。
「……アレクシス」
初めて、殿下をつけずに呼んだ。
彼の目が、わずかに揺れる。
「私、ここに来たばかりの時は、帰りたいって思ってました」
「ああ」
「今も、元の場所を忘れたわけじゃありません」
「そうだろうな」
「でも」
私は息を吸う。
言っていいのか分からない。
でも、言わなかったらきっと眠れない。
「ここを離れるのが、少し怖いです」
沈黙。
アレクシスが何も言わないので、私は慌てて続ける。
「それはその、世界のこともありますし、まだ分からないことも多いし」
「ナカジマ」
低く名前を呼ばれる。
私は口を閉じる。
彼はゆっくり私の前に立った。
近い。
逃げようと思えば逃げられる距離なのに、足が動かない。
「俺は、お前にここへ残れとはまだ言わない」
静かな声。
「だが、離れることを怖いと思ったなら、それはお前の本音だ」
胸の奥がきゅっと締まる。
「……そんなの、ずるいです」
「何がだ」
「また、そうやって見抜くから」
アレクシスは少しだけ目を細めた。
「お前が分かりやすすぎる」
「それ、前にも言いました」
「何度でも言う」
その言葉に、私は小さく笑う。
でも、目の奥が少し熱い。
気づかれたくなくて、視線を逸らそうとした時。
アレクシスの手が、そっと私の頬に触れた。
「……っ」
反射的に息が止まる。
冷たくはない。
思っていたよりずっと温かい。
「泣くほどのことか」
「泣いてません」
「今にも泣きそうだ」
「それは、アレクシスのせいです」
「そうか」
彼の親指が、頬に触れたまま動く。
その仕草は優しいのに、逃がさない感じがした。
「なら、責任は取る」
「どうやってですか」
「お前が怖くないと思うまで、そばにいる」
その一言で、何も言えなくなる。
私はただ彼を見上げた。
この人は、きっと本気で言っている。
軽い慰めでも、口先だけでもない。
だから苦しい。
嬉しくて、苦しい。
「……そんなの、ずるいです」
もう一度そう言うと、アレクシスは今度こそ、ほんの少しだけ笑った。
「お前はそればかりだな」
「だって、本当にずるいんです」
私は目を伏せる。
離れたくない。
そう思ったのは、初めてだった。
しかも、その理由が世界ではなく、この人かもしれないと思ってしまった。
それを認めるには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。




