第6話~第10話
第6話
壊れた泉と、王子の秘密
翌朝、私は王子とともに城のさらに奥へ向かった。
昨日の広間の空気を思い出すと、少しだけ胃が重い。
でも、それを口に出したところで、この人はたぶん止まらない。
「まだ顔が固いな」
前を歩いていた王子が言った。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「昨日のことなら、お前は気にしなくていい」
「私は気にします」
「そうか」
それだけ言って、王子は先へ進む。
本当に、この人は会話が広がらない。
でも、そのくせ昨日の灯りみたいなことはするのだ。だから困る。
やがて辿り着いたのは、城の裏手にひっそりと隠されたような庭だった。
人の気配がない。
高い生垣に囲まれた中央に、小さな泉があった。
水面は静かで、空を綺麗に映している。
なのに。
「……苦しい」
思わず、そう呟いていた。
王子が足を止める。
「分かるか」
「はい。見た目は綺麗なのに、奥が詰まってる」
私は泉に近づく。
昨日の噴水よりもずっと深い。
水そのものより、もっと下。土や石のさらに奥で、流れが固く閉ざされている感じがした。
「ここは、昔からこうなんですか」
「ああ」
王子の声は静かだった。
「この庭は、母上が好んでいた場所だ」
私は振り返る。
王子は泉を見ていた。
「幼い頃は、水音がもっと響いていた。花も咲いていた。だが、ある時から少しずつ、止まっていった」
「……止まっていくのを、ずっと見ていたんですか」
「そうだ」
「誰にも直せなかった?」
「ああ」
短い答え。
その短さの中に、諦めや怒りや、言葉にしきれないものが詰まっている気がした。
私は泉にしゃがみ込む。
水面に映る自分の顔が、少しだけ緊張していた。
「直せるか」
問われる。
昨日と同じ言葉なのに、重さが違った。
「……分かりません。でも、やってみます」
「無理だと思ったらやめろ」
「はい」
そう答えて、水に触れる。
ひやりとした冷たさが手のひらを包み、その奥に沈んだ痛みが一気に流れ込んできた。
「……っ」
苦しい。
これはただの水じゃない。
この庭の時間そのものが、ここで止まってしまったみたいな感覚だった。
「どうした」
「大丈夫、です」
そう言いながらも、指先が震える。
私は目を閉じた。
流れていたものを思い出すみたいに、途切れた場所へ意識を向ける。
遠いところで、ぱき、と小さな音がした。
ひびが入るみたいに、閉じていたものが少しだけ緩む。
その瞬間。
しゃら、と泉の音が変わった。
風が抜ける。
水面が、揺れる。
今まで止まっていた何かが、ゆっくりと動き始めた。
「……戻った」
呟いた瞬間、視界がぐらついた。
しまった、と思う前に身体が傾く。
「危ない」
王子の腕が背を支えた。
今度は昨日より、もっとしっかりと引き寄せられる。
胸元に顔が近づいて、心臓が跳ねた。
「だから言っただろう」
「……すみませ」
「謝るな」
まただ。
でも、今日はその声が少しだけ苛立って聞こえた。
私にではなく、私が無茶をしたことそのものに怒っているみたいな声だった。
「座れ」
促されるまま、私は近くの石の縁に腰を下ろす。
王子は目の前で膝をつき、私の顔を覗き込んだ。
「気分は」
「少し、ふらつくだけです」
「本当に少しか?」
「たぶん」
「その“たぶん”は信用ならん」
真顔で言われて、私は思わず吹き出しそうになる。
「殿下って、意外と心配性なんですね」
「お前が無茶をするからだ」
「そんなつもりじゃ」
「お前は、いつも自分がどうなるかを後回しにする」
その言葉に、少しだけ息を呑む。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
神社では、私が多少無理をしても当たり前だった。
自分でやれることは、自分でやるしかなかったから。
でも、この人は。
そこを見ている。
王子はふと、泉の方を見た。
今まで止まっていた水が、やわらかな音を立てて流れている。
「……久しぶりだ」
その声はあまりにも静かで、私は聞き返しそうになった。
「何がですか」
「この音を聞いたのは」
私は泉を見る。
綺麗だった。
たった今まで苦しく感じていた場所が、少しだけ息をし始めている。
「殿下は、ずっと直したかったんですね」
私が言うと、王子は少しだけ目を細めた。
「直したいというより」
「?」
「失いたくなかった」
その言葉が胸に落ちる。
昨日から、この人の口から出るのは“必要”とか“手放せない”とか、そんな言葉ばかりだった。
でも今のは少し違った。
もっと柔らかくて、もっと切実だった。
私は小さく息を吐く。
「……なら、よかったです」
「何がだ」
「私が、ここに来たこと」
言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。
そんなことを自分から言うなんて、まるで。
でも、王子は笑わなかった。
ただ、じっと私を見てから言った。
「ああ」
短い肯定。
「よかった」
その一言で、胸が苦しくなる。
どうしてこの人は、こんなに言葉が少ないくせに、必要なところだけ真っ直ぐなんだろう。
その時。
かさ、と音がした。
振り返ると、生垣のそばに小さな白い花が咲いていた。
さっきまでは、なかったはずの花だ。
「……花」
私が呟くと、王子もそちらを見る。
「昔、この庭には多く咲いていた」
「戻ってきたんですね」
「ああ」
少しだけ、沈黙が落ちた。
その沈黙は、気まずくない。
むしろ泉の音が、その間を優しく埋めてくれるみたいだった。
王子は立ち上がり、私に手を差し出す。
「歩けるか」
「たぶん」
「だから、その答え方は信用ならん」
また同じことを言われて、今度こそ私は小さく笑ってしまう。
「じゃあ、殿下が支えてください」
冗談のつもりだった。
でも、王子は一瞬も迷わず答えた。
「最初からそのつもりだ」
私は言葉を失う。
そういうところだ。
本当に、そういうところだと思う。
結局、私は泉の庭を出るまで、ずっと彼に腕を支えられたままだった。
その温度が離れたあとも、しばらく消えなかった。
第7話
狙われた巫女
その日の夜、私は妙に落ち着かなかった。
泉のことを思い出しているせいかもしれない。
王子の言葉を思い出しているせいかもしれない。
部屋にある灯りは、昨日と同じように優しく光っていた。
けれど、胸の奥はざわついたままだ。
「……変な感じ」
眠れそうにない。
窓の外を見ると、月が高く昇っていた。
少しだけ外の空気を吸いたい。
そう思ってしまったのが失敗だったのかもしれない。
廊下へ出る。
静かだった。
夜の城は、昼よりもさらに息を潜めているように感じる。
少し歩いたところで、背筋がひやりとした。
誰かいる。
「……誰?」
答えはない。
けれど次の瞬間、黒い影が動いた。
「っ!」
反射的に身を引く。
壁際をすり抜けるように、短剣の光が走った。
怖い、と感じるより早く足が動く。
走った。
追ってくる気配がある。
「待て!」
待つわけがない。
曲がり角を曲がった瞬間、景色がぐにゃりと歪んだ。
「え……?」
廊下が、変だ。
さっき曲がったはずなのに、同じ柱が並んでいる。
窓があるはずの場所に壁があり、壁だった場所が暗い通路になっている。
迷った。
違う。
空間そのものが、捻じれている。
「なに、これ……!」
焦りで息が上がる。
後ろから足音が近づく。
逃げ場がない。
その時だった。
足元の石床から、細い草が伸びた。
するり、と私の足首に絡み、進むべき方向を示すみたいに廊下の奥へ揺れる。
「……こっち?」
半信半疑で走る。
次の瞬間、目の前の暗がりがぱっと裂けるように開いた。
そこに、王子がいた。
「殿下……!」
私が声を上げたのと同時に、背後から追ってきた影が飛び込んでくる。
王子の剣が一閃した。
金属音。
短剣が床に転がる。
黒い衣の男は舌打ちし、窓を破って夜へ逃げた。
「待て!」
ガイルさんの声が遠くから聞こえる。
追っていたのだろう。騎士たちの足音も近づいてくる。
私はその場に立ち尽くしたまま、ようやく息を吐いた。
「怪我は」
王子が目の前に立つ。
「……ありません」
声が震えた。
「本当にか」
「はい」
答えた瞬間、膝が笑う。
怖かったのだと、今になって分かった。
王子の目が険しくなる。
「言ったはずだ。ひとりで動くな」
「ご、ごめんなさい……でも、少しだけのつもりで」
「少しで済まなかった」
その通りすぎて、何も言えない。
騎士たちが到着し、周囲を警戒し始める。
ガイルさんは割れた窓を確認してから、私たちの方へ来た。
「殿下、追跡します」
「頼む」
「……了解しました」
そう言いつつ、ガイルさんは私を一瞬だけ見た。
責める色はなかった。代わりに、強い緊張だけがあった。
彼らが去ると、廊下は急に静かになった。
私は唇を噛む。
「私のせいで」
「違う」
王子が即答する。
「お前のせいじゃない」
「でも、私がここにいるから」
「お前がいることと、狙う側がいることは別だ」
真っ直ぐな声音だった。
「責めるなら、城の内に手を入れられたこちらの落ち度だ」
「……」
「だから、お前が自分を責めるな」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
怖かった。
でも、それ以上に。
この人が、最初に私を責めなかったことが苦しかった。
「……怖かったです」
ぽつりと零れた本音に、王子の表情がわずかに緩んだ。
「ああ」
「変な通路になって、出口が分からなくて」
「もう大丈夫だ」
低く、静かな声。
まるで、その一言で夜の全部を押し返すみたいに。
王子は少し考えるように黙り、それから言った。
「部屋を移す」
「え?」
「今の場所では遠い」
「遠いって」
「今日から、俺の執務室の隣だ」
私は目を瞬いた。
「それ、さすがに近すぎません?」
「近い方がいい」
「監視ですか」
「それもある」
「それ“も”って言いましたよね?」
問い返しても、王子は答えない。
ただ私の肩に自分の上着を掛けた。
「戻るぞ」
その動作があまりにも自然で、私はまた何も言えなくなる。
こういう時だけ、どうしてこんなに優しいのだろう。
いや、違う。
たぶん、この人はずっと優しいのだ。
それを見せるのが、下手なだけで。
第8話
隣の部屋で眠る人
王子の執務室の隣に移された部屋は、前より少し広かった。
けれど落ち着かない。
理由は単純だ。
壁の向こうに、王子がいる。
「……近すぎる」
小さく呟きながら、私は荷物らしい荷物を机に置く。
と言っても、この世界に来てから私の持ち物はほとんど増えていない。
侍女が用意してくれた服と、最低限の身の回りのものだけだ。
部屋を整えていた侍女が、どこか微笑ましそうに言った。
「殿下がここまで気を遣われるのは珍しいです」
「そ、そうなんですか」
「ええ」
それだけ残して侍女は去る。
私はベッドに座り込み、深くため息をついた。
監視。
必要。
手放せない。
王子の言葉を思い出すたびに、胸が落ち着かない。
夜更けになっても、隣の部屋からは紙をめくる音や、時折ペンを置く音が聞こえてきた。
「まだ起きてる……」
私はしばらく迷ってから、そっと扉を開けた。
執務室の扉の下から灯りが漏れている。
少しだけ、気になった。
「……殿下?」
控えめに声をかける。
「入れ」
即答だった。
扉を開くと、机に向かう王子の姿があった。
書類の山。
地図。
いくつもの報告書。
思ったより、ずっと忙しそうだ。
「起きていたのか」
「それはこっちの台詞です」
「仕事だ」
「毎晩ですか」
「だいたいは」
さらりと答える。
私は部屋の中を見回した。
整っているのに、少しだけ無機質だ。王子らしい部屋だと思う。
「何か用か」
「いえ……ただ、まだ寝てないんだなって」
「お前は眠れないのか」
「少しだけ」
王子はペンを置いた。
「怖いか」
「今日は……少し」
夜の襲撃を思い出して、声が小さくなる。
王子は立ち上がり、書棚の横から何かを取り出した。
「これを持っていけ」
差し出されたのは、小さな銀色の鈴だった。
「鈴?」
「鳴らせば分かる位置に置く」
「え」
「何かあれば呼べ」
私はそれを受け取り、しばらく見つめる。
小さくて、控えめな鈴。
でも、たぶんこの人にとっては大きな譲歩だ。
「……殿下って」
「何だ」
「思ったより、ちゃんと眠るし、ちゃんと心配するんですね」
王子が眉を寄せる。
「俺を何だと思っていた」
「冷たい石像みたいな」
「お前は失礼だな」
真顔で返されて、思わず笑ってしまう。
その一瞬だけ、王子の表情も和らいだ気がした。
「戻って休め」
「はい」
扉の前まで来て、ふと振り返る。
「殿下」
「何だ」
「……ありがとうございます」
王子は少しだけ目を伏せ、それから短く答えた。
「ああ」
部屋へ戻り、鈴を枕元に置く。
小さな安心がそこにあるだけで、昨日よりずっと眠れそうだった。
けれど、夜の途中で私は夢を見た。
暗い場所。
止まった森。
手を伸ばしても届かない、誰かの背中。
苦しくて、息が詰まって。
「……っ」
目が覚める。
呼吸が浅い。
部屋は暗い。
その時、壁の向こうから声がした。
「どうした」
低い、よく知った声。
私は息を呑む。
「……起きてたんですか」
「今、起きた」
少し沈黙。
「悪夢か」
「……たぶん」
「鈴を鳴らしてもよかった」
「そこまでは」
「遠慮するな」
壁越しの会話なのに、不思議と近い。
「殿下」
「何だ」
「おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
そのやり取りだけで、胸のざわつきが少し静まる。
私は毛布を引き寄せ、目を閉じた。
壁の向こうに、人の気配がある。
それだけで、こんなに安心するなんて思わなかった。
第9話
あなたの手は、世界を怖がっている
それから数日、私は城の中で小さな異常を見つけては、少しずつ直していった。
鉢植え。
廊下の壁。
中庭の石。
止まりかけた水路。
大きなものは無理でも、小さなものなら戻せる。
ただ、そのたびに少しずつ疲れた。
腕が重くなる。
息が上がる。
胸の奥がざらつく。
それでも、戻っていくものを見ると手を止められなかった。
今日も、庭の隅にあった小さな花壇を直し終えたところで、私はしゃがみ込んでしまった。
「また無茶をしたな」
背後から王子の声。
「無茶ってほどじゃ」
「ある」
言い切られる。
私は花壇の脇に座り込み、息を整えた。
咲きかけた白い花が風に揺れている。
それは綺麗だった。
でも、同時に少し怖いとも思う。
「……殿下」
「何だ」
「私、この力が少し怖いです」
自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
王子はしばらく何も言わない。
私は膝を抱えたまま続ける。
「触れるだけで、こんなふうに戻るなんておかしいです。普通じゃない」
「普通かどうかは問題じゃない」
「殿下は、そう言えるでしょうけど」
「なぜだ」
「だって、殿下は強いから」
剣も、立場も、意志もある。
私は違う。
何も分からないままここへ来て、何かができてしまっているだけだ。
「私は、自分で自分がよく分からないんです」
そう言うと、王子は私の前にしゃがみ込んだ。
視線の高さが近くなる。
「手を出せ」
「え?」
「いいから」
私は戸惑いながらも手を差し出す。
王子はその手を静かに取った。
硬い手のひらに包まれ、心臓が跳ねる。
「震えている」
「……っ」
「お前の手は、世界を怖がっている」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
否定されるかと思った。
弱いと言われるかと思った。
でも、この人は違った。
怖がっていることを、そのまま見抜いた。
「怖がるのは悪いことじゃない」
王子は私の手を握ったまま言う。
「怖いものを知っているから、慎重になれる」
「でも、こんなの」
「それでもだ」
真っ直ぐな声。
「俺は、お前が必要だと思っている」
また、その言葉だ。
でも今日は少し違う。
監視でも、利用でもなく。
もっと個人的で、もっと深い響きがあった。
「代わりはいない」
息が止まりそうになる。
私は視線を逸らそうとして、できなかった。
王子の目が、あまりにも真っ直ぐだったから。
「だから、自分を嫌うな」
その一言で、胸の奥の何かがほどけそうになる。
ずっと、自分の力を持て余していた。
神社で育った私にとって、“役目”はあっても、“特別”であることは怖かった。
けれど今、この人は。
私の力ごと、必要だと言う。
「……ずるいです」
やっとそれだけ言うと、王子がわずかに眉を寄せる。
「何がだ」
「そういうこと、そんな顔で言うところです」
「意味が分からん」
「でしょうね」
私は小さく笑った。
王子は納得していない顔のまま、でも手は離さなかった。
それが余計に、ずるかった。
第10話
手放せない理由
東区画の異常を見に行く日が来た。
王都の外縁に近いその場所は、城の中よりもずっと傷んでいた。
崩れた家屋。
割れた石畳。
止まったままの水路。
風が吹いても揺れない木々。
城よりもさらに深く、“壊れている”。
「……ひどい」
思わず声が漏れる。
「ここは進行が早い」
王子が言った。
「放置すれば、いずれ人が住めなくなる」
護衛にはガイルさんと数人の騎士がついている。
周囲は警戒されていたが、私には別の意味で息苦しかった。
この場所は、ただ止まっているだけじゃない。
崩れながら、なお進んでいる。
私は石畳の上にしゃがみ込む。
裂け目の奥に、黒いような、濁ったような流れが見えた。
「どうだ」
「……ここ、城よりずっと深いです」
手を伸ばすだけで分かる。
痛い。
重い。
冷たい。
そして、どこか怒っているようでもあった。
「無理はするな」
王子が言う。
でも。
ここを見てしまった以上、見過ごせなかった。
「少しだけなら」
「お前はその言葉でいつも無茶をする」
「今回は本当に少しだけです」
「信用ならん」
そんなやり取りをしている間にも、足元の石がぱきぱきと細かく割れていく。
時間がない。
私は意識を集中させた。
裂け目の奥へ。
止まってしまった流れへ。
繋がれ。
戻れ。
息をしろ。
強く願った瞬間、地面が大きく震えた。
「……っ!」
石畳が波打つように隆起する。
周囲の騎士たちが動く。
「下がってください!」
ガイルさんの声。
でも、私の手は裂け目から離れなかった。
離せない。
今ここで途切れたら、もっと大きく壊れる気がした。
風が吹き荒れる。
乾いていた木の枝が揺れ、遠くで瓦礫が崩れる音がした。
「やめろ!」
王子の声。
その一瞬、意識がぶれる。
次の瞬間、全身から一気に力が抜けた。
「……あ」
倒れる。
けれど地面に落ちる前に、王子の腕が身体を抱き止めた。
「何をしている」
怒っている声だった。
でも、その腕は震えるほど強かった。
「ご、ごめ……」
「謝るなと言ったはずだ」
耳元で低く落ちる声。
私は薄れる意識の中で、王子の胸元に縋るように指をかける。
「だって、ここ……壊れそうで……」
「だからといって、お前まで壊れていい理由にはならない」
苦しいほど真っ直ぐな言葉だった。
私は目を開ける。
王子の顔が近い。
いつもよりずっと近い。
その目には、怒りと焦りと、それから。
――恐れがあった。
「殿下……?」
「お前は、いつも自分を後回しにする」
「殿下だって……そう、でしょう」
かすれた声で返すと、王子の眉がわずかに寄る。
「俺とお前を同じにするな」
「どうして」
問い返した瞬間、王子は息を詰めたように黙った。
そして、ほんの数秒の沈黙のあと。
「……お前を失う方が、困る」
世界の音が、遠くなった。
周囲には騎士もいる。
ガイルさんもいる。
風も、崩れかけた街も、そのままそこにある。
なのに、その一言だけがはっきり聞こえた。
「だから、無茶をするな」
王子は私を抱きかかえたまま立ち上がる。
その動きには迷いがない。
まるで最初から、こうするしかないと決まっていたみたいに。
「……殿下」
「喋るな」
「でも」
「今は休め」
抱えられたまま、私は彼の肩越しに東区画を見る。
さっきまで深く裂けていた石畳は、少しだけ繋がっていた。
木々にもわずかに色が戻っている。
全部は無理だった。
でも、少しは戻せた。
王子が歩き出す。
その胸元に寄りかかったまま、私は小さく目を閉じた。
この人が私を閉じ込めているのは、疑っているからだけじゃない。
必要だからだけでもない。
もっと別の、言葉にしにくい何かがある。
それを知ってしまったら、もう前と同じではいられない。
そう思った。




