第41話~第45話
第41話
地上へ戻ったあとに来るもの
温室跡の地下庭園から戻った王都は、目に見えるほどには変わっていなかった。
崩れた建物は崩れたままだ。
礼拝堂の傷も、北棟の封印口も、完全に消えたわけではない。
それでも、何かが違う。
城へ戻る途中、乾ききっていた水路の一部に細い流れが戻っているのを見た。
南区画の壁際では、ひび割れた石の隙間から小さな草が顔を出していた。
王都全体がほんの少しだけ、息をし直したようだった。
「……戻ってる」
私が呟くと、アレクシスも足を止めて視線を向けた。
「ああ」
「ほんの少しですけど」
「十分だ」
その一言が、胸に静かに落ちる。
私たちは城へ戻った。
けれど、穏やかだったのはそこまでだった。
王城の門をくぐった瞬間から、空気が張りつめているのが分かる。
普段以上の騎士の配置。
行き交う文官たちの強張った顔。
そして、広間へ呼び出されたアレクシスの背中。
「……何かありましたよね」
私が小声で言うと、ガイルが低く返した。
「北境侯側が動きました」
「やっぱり」
「殿下が不在の間に、“王都の異常を招いた娘を隔離すべき”という上申が数件」
私は小さく息を呑む。
「早いですね」
「早いのではなく、ずっと準備していたのでしょう」
ガイルの声は冷たい。
私たちが動けば、それを理由に攻める。
何もしなくても、不安を材料にして攻める。
つまり、最初からそれが狙いだったのだ。
「私は……」
何か言いかける。
けれどその前に、ガイルがはっきりと言った。
「ご自分を原因に数えないでください」
私は驚いて彼を見る。
ガイルは私を真っ直ぐ見返した。
「以前の私は、そう考えていました」
「……ガイルさん」
「ですが今は違います。あなたがいなければ、南区画はさらに閉じていた」
少しだけ、言葉を選ぶような間。
「利用しようとする者がいるからといって、あなた自身が害になるわけではありません」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
最初に強く警戒していた彼だからこそ、重みがあった。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、ガイルは視線を少しだけ外した。
「礼を言われることではありません」
それでも、その耳がほんの少し赤く見えた気がした。
広間では、予想通り荒れていた。
北境侯の使者ではなく、今度は王都内部の有力貴族たちが直接声を上げている。
「異常は加速しているのですぞ!」
「南区画の封鎖解除など、危険すぎる!」
「その娘を動かすたび、王都は揺れるではありませんか!」
責める言葉が広間を飛び交う。
私は一歩下がりたくなる。
けれど、アレクシスの少し後ろに立つと決めていた。
逃げない。
それだけを胸の中で繰り返す。
「揺れたのは事実だ」
アレクシスが言う。
広間が少し静まる。
「だが、戻った場所もある」
「だから何だと仰るのです!」
年配の貴族が声を荒げる。
「娘がいなければ揺れなかったかもしれぬ!」
「娘がいなければ、南区画は完全閉鎖に進んでいた」
アレクシスの声は低く、冷たい。
「結果だけを見て怯えるなら、誰にでもできる」
広間の空気が凍った。
私は背筋がぞくりとする。
この人は本当に、こういう時だけ容赦がない。
「殿下、それはあまりにも――」
「なら代案を出せ」
短く遮る。
「閉じるだけで王都が持つのか。誰がどの層を、どの順に、何年保たせるつもりだ」
誰も答えない。
それはそうだ。
閉じる側は“止める”ことしか言わない。
でもその先、どう生きるかまでは示さない。
アレクシスは広間を見渡す。
「カナエは原因ではない」
真っ直ぐ、はっきりと。
「王都を繋ぎ止める側だ」
私は一瞬、呼吸を忘れた。
今、彼は公の場で私の真名を呼んだ。
ナカジマではなく。
カナエ、と。
広間がざわつく。
当然だ。
それは単なる呼称の変更ではない。
彼が私を“王都の中心構造に関わる者”として正式に扱い始めたという意味だから。
私はその場で、逃げたくなるくらいの重さと、逃げたくないくらいの熱を同時に感じていた。
第42話
真名を呼ばれた日の夜
その夜、私はなかなか部屋へ戻れなかった。
広間でアレクシスが私をカナエと呼んだ場面が、何度も頭の中で再生される。
あれはただの呼び名ではない。
公の場で真名を与えることは、位置を与えることに近い。
私は北棟へ続く回廊の窓辺で足を止めた。
夜の王都は静かだ。
でも静かなだけで、安心はできない。
「ここにいたか」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
「……アレクシス」
彼が隣に立つ。
「眠れないのか」
「今日は、ちょっと」
「そうだろうな」
あっさり言われて、私は少しだけ笑う。
「そんなに分かりやすいですか」
「ああ」
「最近、もう隠す意味がない気がしてきました」
「最初から大して隠せていない」
「ひどい」
そう返しながらも、本気では怒れない。
しばらく二人で夜の王都を見下ろした。
遠くに灯りがいくつか見える。
止まりかけている街でも、それでも人は生きている。
「……どうして、広間でカナエって呼んだんですか」
私が問うと、アレクシスは少しだけ黙った。
「隠す段階を過ぎた」
「それだけですか」
「それだけではない」
私は息を止める。
アレクシスは窓の外を見たまま言った。
「お前が、ナカジマとしてここにいることも事実だ」
「はい」
「だが王都の中核に触れ、繋ぐ側として立つなら、真名を伏せたままでは足りない」
その理屈は分かる。
でも、それだけじゃないことも分かる。
「……私を、逃がさないためですか」
問いかけると、アレクシスが静かにこちらを見る。
「それもある」
「やっぱり」
「だが一番は」
ほんの一瞬、彼の声が低くなる。
「お前自身が、カナエであることをこの城の前で認める必要があった」
胸の奥がぎゅっと痛む。
それは厳しい言葉のようでいて、違う。
私が真名を知ってもなお揺れていることを、この人は見ていたのだ。
「……怖かったです」
私は正直に言う。
「カナエって呼ばれたら、ナカジマだった私が消える気がして」
「消えない」
即答だった。
「前にも言いましたよね」
「何度でも言う」
私は視線を落とす。
どうしてこの人は、私が一番不安なところをいつも真っ直ぐ射抜くんだろう。
「でも、広間で呼ばれた時」
「うん」
「少しだけ、嬉しかったです」
言ってしまってから、急に顔が熱くなる。
でもアレクシスは笑わなかった。
ただ、静かに頷く。
「そうだろうと思った」
「……分かってたんですか」
「ああ」
「それはそれで悔しいです」
「なぜだ」
「全部読まれてるみたいだからです」
アレクシスの口元がわずかに緩む。
そのかすかな笑みに、胸がまた苦しくなる。
「カナエ」
真名で呼ばれる。
今度は広間じゃない。
二人だけの夜の中で。
「お前は、逃がさない」
その言葉が、今日は前よりずっと甘く聞こえた。
「……うれしいのに、困ります」
「困れ」
「ひどい」
でも、そんなふうに言い合えることが少しだけ幸せだと思ってしまった。
第43話
王都中心部への道
翌朝、王都の中心部にある旧管理塔への調査が決まった。
クラウスが一晩かけて礼拝堂・地下記録層・温室跡の資料を照合した結果、最後に残る大きな結び目は王城の中心軸と重なる位置にあると判明したのだ。
「旧管理塔……」
私は地図を見つめる。
王城の中心部に近い。
今は立ち入りが制限されている区域で、王族でも限られた者しか入れないらしい。
「おそらく、王都全域の流れを最終的に調整する上層制御点です」
クラウスが言う。
「地下記録層が中核、温室跡が自然循環、礼拝堂が祈りの緩衝。そして旧管理塔が最終制御」
「全部繋がってるんですね」
「はい」
私は小さく息を吐いた。
いよいよ最後に近いのだろう。
もちろん、全部が終わるとは思っていない。
でも、第1の大きな核には届ける気がする。
「北境侯側の動きは」
アレクシスが問う。
ガイルが答える。
「表向きには静かです。ただし、だからこそ不気味です」
「同感だ」
私は地図から顔を上げる。
「私たちが旧管理塔に入ること、向こうは知ってると思いますか」
「知っている前提で動くべきだ」
アレクシスの返答は早い。
「隠せる段階ではない」
つまり、次は政治の揺さぶりだけでは済まない。
直接、妨害が来る可能性が高い。
私の手が少しだけ冷えた。
その変化に気づいたのか、アレクシスが何気ない顔で私の手元に自分の指先を重ねる。
一瞬だけ。
ほんの触れるだけ。
「冷えている」
「……ちょっとだけです」
「怖いか」
「はい」
私は素直に頷いた。
「旧管理塔って、たぶん今までで一番深いところですよね」
「ああ」
「じゃあ、正直に言うと、すごく怖いです」
クラウスとガイルがいる前で言うのは少し恥ずかしかった。
でも、今さら強がっても意味がない。
アレクシスは短く返した。
「それでいい」
「強がらなくていい、ってことですか」
「違う」
彼は私を見る。
「怖がったまま進めばいい」
その言葉が、思っていた以上に胸に残る。
怖くなくなるのを待たなくていい。
怖いままでいい。
そのまま進めばいい。
私はゆっくり頷いた。
「……はい」
その瞬間、ガイルが咳払いをした。
「殿下、出発は正午でよろしいでしょうか」
「問題ない」
彼は本当に、見ていないふりが上手い。
第44話
逃げ道を塞いだのは、あなたの言葉
出発の準備をしている最中、レティシアが私を訪ねてきた。
昼前の静かな時間だった。
侍女が戸惑った顔で取り次いできたので、私は少し驚いた。
「レティシア様」
「お忙しいところ、失礼しますわ」
彼女は今日も完璧に整っている。
だが、以前のような露骨な刺々しさはなかった。
部屋の中に入ると、彼女はまっすぐ私を見た。
「旧管理塔へ行かれるのですね」
「……はい」
「止めても無駄でしょうね」
「たぶん」
そう答えると、レティシアは小さく息を吐いた。
「殿下はあなたを止めたいのに、止められないのでしょう」
私は言葉に詰まる。
たしかにそうかもしれない。
アレクシスは何度も危険だと言う。
でも最後には、私と一緒に行く形を選ぶ。
「レティシア様は、やっぱり私が行くべきじゃないと思いますか」
私が問うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「思っていましたわ」
「……今は?」
「今も、あなたが危険な場所へ行くこと自体は賛成できません」
きっぱりとした口調。
「ですが、あなたが行かなければ殿下だけでは届かないのでしょう」
私は頷いた。
レティシアは窓辺へ歩き、しばらく外を見ていた。
「わたくしは殿下の婚約者候補として育てられました」
突然の言葉に、私は息を止める。
「知っていましたか」
「少しだけ、噂では」
「ええ。噂の通りですわ。でも、殿下は一度もそれを望まれなかった」
声は静かだ。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
それが余計に胸に刺さる。
「それでも、そばにいたかったのです」
レティシアは振り返る。
「だからこそ分かります。殿下がどれほどあなたを手放す気がないか」
私は何も言えない。
彼女はそんな私を見て、少しだけ苦く笑った。
「誤解しないでくださいまし。わたくしはあなたを好いているわけではありません」
「はい」
「ですが、あなたを軽く見てもいません」
その言葉は重かった。
認められた、とは違う。
でも、ようやく“見られた”気がした。
「旧管理塔へ行くなら、迷わないことです」
レティシアが言う。
「迷いは、閉じる側につけ込まれますわ」
「……はい」
「そしてもうひとつ」
彼女は一歩近づく。
「殿下のためを思って身を引く、などという愚かな真似はなさらないで」
私は目を見開く。
どうして、それを。
「顔に出ています」
即答だった。
「あなたも分かりやすすぎますわね」
私は思わず苦笑する。
まさかそこを彼女に刺されるとは思わなかった。
「ですが、もう遅いでしょう」
レティシアの目が少しだけやわらぐ。
「殿下の言葉で、もう逃げ道は塞がれているはずですもの」
私は唇を噛む。
その通りだった。
世界より先に私を選ぶ。
逃がさない。
離さない。
あんな言葉を受け取っておいて、今さら綺麗に身を引けるほど、私は強くない。
「……はい」
やっとそれだけ答えると、レティシアは小さく頷いた。
「なら、戻ってきてくださいまし」
それは祈りに近い言葉だった。
私は深く頭を下げる。
「必ず」
第45話
行く前に、ちゃんと伝えたかった
旧管理塔への出発直前、私はどうしてもアレクシスに言っておきたいことがあった。
でも、いざとなるとうまく言葉にならない。
廊下の先で彼を見つけた時も、しばらく呼び止めることができなかった。
「……アレクシス」
やっと声をかける。
彼が振り返る。
「どうした」
もう出発の直前だ。
軽装の上に外套を羽織り、剣も装具もすべて整っている。
私はその姿を見て、急に胸が苦しくなった。
本当に、これから行くのだ。
いちばん深い場所へ。
「何かあったか」
アレクシスが近づく。
「いえ、あの」
言葉がつかえる。
今さら何を言うのかと、自分でも思う。
でも、これを言わずに行きたくなかった。
「もし、旧管理塔で……」
「悪い方を先に考えるな」
「違います」
私は首を横に振る。
「そうじゃなくて、行く前にちゃんと言いたかったんです」
アレクシスが黙る。
彼の目が、私の続きを待っている。
「私、最初は怖かっただけでした」
ひとつずつ、ゆっくり言葉にする。
「ここに来た時、何も分からなくて、閉じ込められて、監視されて」
「監視だ」
「そこはまだ訂正するんですね」
少しだけ笑う。
アレクシスの口元も、ごく僅かに動いた。
「でも今は違います」
私は続ける。
「怖いのは今も怖いです。でも、それだけじゃない」
胸の前で指を握りしめる。
「アレクシスが一緒にいてくれるから、進めます」
そこで一度、呼吸が止まりそうになる。
ここから先を言えば、もう誤魔化せない。
けれど、もう誤魔化したくなかった。
「離れたくないって思ったのも」
「……」
「一緒に落ちるなら怖くないって思ったのも」
アレクシスが一歩だけ近づく。
でも何も言わない。
私は目を逸らさずに言った。
「たぶん、ちゃんと好きだからです」
沈黙。
廊下の向こうで、誰かの足音が遠くに聞こえる。
でも、ここだけが切り取られたみたいに静かだった。
私は顔が熱くなるのを感じながら、続けた。
「だから、行く前に言いたかったんです」
「……そうか」
やっと返ってきた声は、思っていたより低かった。
「はい」
「今、言うのか」
「今だからです」
アレクシスは数秒、何も言わなかった。
その沈黙が少し怖くなる。
でも逃げようとは思わなかった。
すると、彼の手がゆっくり私の頬に触れた。
「困ったな」
「え」
「お前に先を越されるとは思わなかった」
私は思わず瞬く。
「……それって」
「俺も同じだ」
胸の鼓動が、一気に大きくなる。
アレクシスは私を見つめたまま、静かに言った。
「好きでなければ、ここまで手放せないわけがない」
それは甘い囁きではなかった。
でも、この人らしくて、何より真っ直ぐだった。
私は息を呑む。
「だから戻るぞ」
彼は続ける。
「この話の続きを、ちゃんとするために」
私は小さく頷く。
「……はい」
「泣くな」
「泣いてません」
「泣きそうだ」
「それはアレクシスのせいです」
彼はほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見られただけで、たぶん私は今日、どこまででも行ける。
廊下の先で、ガイルが気まずそうに咳払いした。
「殿下、そろそろ」
「ああ」
アレクシスが手を離す。
でも完全には離れない。
指先が一瞬だけ私の手に触れた。
「行くぞ、カナエ」
「はい、アレクシス」
私は答える。
怖い。
でも、もう迷わない。
ちゃんと好きだと言ってしまったから。
ちゃんと同じだと返してもらったから。
その言葉を抱えたまま、私たちは旧管理塔へ向かうため歩き出した。




