第26話~第30話
第26話
北棟に広がる亀裂
北棟へ向かう途中から、空気が変だった。
冷たいのではない。
乾いているのでもない。
何かが、軋んでいる。
床を走るたびに、靴底の下で世界そのものが薄く鳴るような感覚がした。
「急げ」
アレクシスの声が低く落ちる。
私たちは礼拝堂へ続く回廊を駆けた。
先行する騎士たちの灯りが揺れ、その先の壁に奇妙な紋様が浮かび上がっているのが見える。
地下記録層と同じ模様だった。
根。枝。層。
ただし今は、それらが正しく繋がっていない。
途中で裂け、黒い筋が走っている。
「……広がってる」
私は立ち止まりそうになる。
礼拝堂の扉の前、石床に描かれたように浮かぶ紋様の中央が、ゆっくり脈打っていた。
まるで心臓だ。
でも生きている心臓ではない。
壊れかけた何かが、無理やり鼓動しているみたいな。
「下がるなよ」
アレクシスが私の手首を掴む。
「俺の後ろに」
「はい」
礼拝堂の中へ入る。
空気が重い。
前に来たとき、ここには悲しさが残っていた。
今は違う。
痛みだ。
祈りの残滓ごと、空間が捻れている。
「殿下!」
先に入っていた記録官が振り返る。
「祭壇の奥です。壁画の一部が――」
その言葉を最後まで聞く前に、私には分かった。
礼拝堂の最奥。
あの大樹の壁画の中心から、黒い亀裂が走っている。
「……まずい」
気づけば私はそう呟いていた。
「何が分かる」
アレクシスが問う。
「地上側の祈りの層と、地下側の記録層がずれてます。たぶん、ここが緩衝地帯だったんです」
「緩衝地帯」
「地下の傷が、直接地上へ出ないようにする場所。でも今、その結び目が外れかけてる」
言葉が勝手に出る。
分かってしまうことが怖い。
けれど今は、その怖さに構っている暇がない。
「直せるか」
アレクシスの問い。
私は壁画を見る。
以前、ここに触れたときは少しだけ戻せた。
でも今は、前よりずっと深い亀裂が入っている。
「……一人じゃ、たぶん無理です」
そう答えた瞬間、礼拝堂全体が大きく震えた。
悲鳴が上がる。
壁の粉が舞う。
そして、壁画の中心から淡い光が弾けた。
白い。
でも優しい光ではない。
眩しさの中に、鋭く切れるような記憶が混ざっている。
私は思わず目を覆う。
その瞬間、頭の中に映像が流れ込んだ。
白い鳥居。
社殿。
古い木箱。
そして――木箱の前に立つ、小さな女の子。
それは私だった。
「……っ」
「ナカジマ!」
アレクシスの声で引き戻される。
気づけば、私は膝をついていた。
「今、何を見た」
「神社……木箱……」
「まだ見えるか」
「少しだけ、でも」
礼拝堂の光は収まりつつあった。
けれど黒い亀裂は消えていない。
むしろ、こちらを見ているみたいに脈打っている。
「一度下がれ」
アレクシスが言う。
けれど私は首を振った。
「だめです。今、繋がってる」
「危険だ」
「分かってます。でも、たぶんこれ、今しか」
言い終わる前に、アレクシスの手が私の肩を強く掴んだ。
「俺の指示を忘れたか」
低く、抑えた声。
それだけで私は息を止める。
約束した。
一度も無視しないと。
私は唇を噛み、悔しさと焦りを飲み込んだ。
「……忘れてません」
「なら、今は下がれ」
私はようやく頷いた。
礼拝堂を出る直前、もう一度だけ壁画を振り返る。
黒い亀裂の奥で、何かが待っていた。
たぶん、私の“名前”を知っている何かが。
第27話
奉納名
その夜、私は再び夢を見た。
今度はただの夢ではなかった。
白い鳥居をくぐると、社殿の奥へ向かう道が最初から開いている。
鈴の音も、風も、木々のざわめきも、あまりにも鮮明だ。
私は迷わず進んだ。
奥の間。
古い木箱。
前回は触れる前に目が覚めた。
でも今回は違う。
私は膝をつき、木箱へ手を伸ばす。
指先が蓋に触れた瞬間、紋様が淡く光った。
大樹。根。枝。層。
礼拝堂と地下記録層、その両方にあったものと同じだ。
「やっぱり……」
箱が、ひとりでに開いた。
中に入っていたのは、紙でも巻物でもない。
細い白木の札だ。
そこに、墨で名が書かれている。
私はその文字を読めた。
読めてしまった。
――カナエ。
息が止まる。
知らない名前ではない。
でも、他人の名でもない。
その響きが、骨の奥まで滑り込んできた。
私は夢の中で立ち尽くす。
「……これ、私」
その時、背後で気配がした。
振り向くと、社殿の影に白い装束の老人が立っていた。
顔ははっきり見えない。
けれど、不思議と恐怖はない。
「ようやく辿り着いたか」
声は遠く、でも温かかった。
「誰ですか」
「守るよう託された者の残り香だ」
意味は分からない。
でも、夢の中ではそれが理解できる気がした。
「この名は、お前の真名であり、奉納名だ」
「奉納……」
「王都の記録層が壊れた時、接続の核は外へ逃がされた。そのひとつがお前だ」
頭がくらくらする。
「じゃあ、私は」
「ただ迷い込んだのではない。呼び戻されたのだ」
その言葉と同時に、社殿の床に光の筋が広がる。
地下記録層。
礼拝堂。
北棟。
全部が一本の流れになる。
「カナエの名を思い出した時、お前は鍵であるだけではなく、選ぶ者になる」
「何を」
「繋ぐか、閉じるかを」
その瞬間、鈴の音が鋭く響いた。
私ははっとして目を覚ます。
「……っ」
部屋は暗い。
でも、夢の余韻がまだ身体に残っている。
私はすぐに立ち上がった。
鈴を鳴らすより先に、隣の扉を叩く。
「アレクシス!」
中から椅子の引かれる音。
すぐに扉が開いた。
「どうした」
私は息を切らしながら彼を見上げる。
「分かりました」
「何がだ」
「私の名前」
アレクシスの目が変わる。
「ナカジマじゃないんです」
私は胸元を押さえる。
「たぶん、本当は……カナエ」
沈黙。
数秒だけ、世界が止まったようだった。
それからアレクシスは、静かに私の肩を抱いて部屋へ入れた。
「最初から話せ」
低く、でも確かな声。
私は頷く。
ようやく、自分の正体の輪郭に触れたのだと思った。
第28話
それでも、お前はお前だ
夢のことを話し終えるまで、アレクシスは一度も口を挟まなかった。
白い鳥居。
木箱。
札。
カナエという名。
接続の核。
呼び戻されたという言葉。
全部を話し終えた時、私は自分の膝の上で手を握りしめていた。
「……信じますか」
小さく問う。
アレクシスはしばらく黙っていた。
否定されるかもしれないと思った。
夢だけを根拠にするには、あまりにも曖昧だから。
でも、彼は静かに答えた。
「信じる」
それだけだった。
私は思わず顔を上げる。
「そんなにすぐ?」
「お前が、今の話を作って言う必要がない」
「それは、そうですけど……」
「それに、礼拝堂と記録層の反応はお前の夢と繋がっている」
アレクシスは長椅子の背にもたれたまま、まっすぐ私を見る。
「カナエ、か」
その音が彼の口から出た瞬間、胸が大きく鳴った。
ナカジマではなく。
カナエ。
それはたぶん、私の中心にある名なのだ。
「……変じゃないですか」
「何がだ」
「急に、別の名前が出てきて」
「変ではない」
アレクシスは首を横に振る。
「外で生きる名と、ここへ繋がる名が違うだけだ」
あまりにも自然に言われて、私は少しだけ目を潤ませそうになる。
「私は……ナカジマでも、カナエでもあるってことですか」
「ああ」
「中途半端じゃないですか」
「違う」
アレクシスが即答する。
「どちらもお前だ」
その言葉で、何かがほどける。
私はずっと怖かった。
ナカジマという名がこの世界で浮いていることも。
自分だけ異物みたいに見えることも。
カナエという新しい名を知って、今までの自分が消えてしまうかもしれないことも。
でも、この人は。
どちらも私だと、迷わず言う。
「……ずるい」
思わず漏れた声に、アレクシスがわずかに目を細める。
「今のもか」
「今のは特にです」
「なぜだ」
「いちばん怖いところを、先に潰すからです」
アレクシスは少しだけ黙り、それから低く言った。
「お前が怖がることは、俺も先に考える」
その言葉が胸に深く刺さる。
私はもう何も言えず、ただ視線を落とした。
「なら、今後はどうする」
アレクシスが現実へ引き戻すように言う。
私は息を整える。
「礼拝堂と地下記録層、両方でこの名が反応するか確かめたいです」
「危険だ」
「はい。でも、避けて通れません」
「……そうだな」
彼は頷く。
「ただし、今度はお前ひとりの判断では動かない」
「分かってます」
「カナエ」
私ははっと顔を上げる。
彼は今、意識してその名を呼んだ。
「え……」
「嫌か」
そんなはずがない。
でも、答えられなかった。
心臓が苦しいほど速くなる。
「……少し、びっくりしただけです」
「そうか」
「でも」
私は小さく言う。
「アレクシスが呼ぶなら、大丈夫です」
今度は、彼の方が一瞬だけ黙った。
それからほんの僅かに、目元がやわらいだ。
「なら、そう呼ぶ」
私は顔が熱くなるのを隠せなかった。
第29話
王都を閉じる者
翌日、礼拝堂で再調査が行われた。
今回は前より少人数だ。
アレクシス、ガイル、私、クラウス、それに護衛の騎士が二人。
礼拝堂の床に浮かんだ黒い亀裂は、昨日よりわずかに広がっていた。
「進行してる」
私がそう言うと、クラウスが険しい顔で頷く。
「北棟の地下封印口と同期しています。まるで、双方で何かが呼応している」
私は壁画の前へ立つ。
大樹の中心。
そこに手をかざした瞬間、胸元が熱くなった。
カナエ。
その名が、自分の中で小さく響く。
「……いける」
「何が分かる」
アレクシスが問う。
「これ、壊れてるだけじゃないです」
私は目を閉じる。
光の流れの奥に、別の意志がある。
切り離したい。
閉じたい。
固定したい。
「誰かが、閉じようとしてる」
「閉じる?」
「はい。王都の流れを止めて、記録層を固定しようとしてる。壊れたままでもいいから、これ以上変わらないように」
クラウスが息を呑む。
「それは……修復ではなく、封印の思想です」
私は頷く。
「たぶん昔、この世界を守ろうとした側がいた。でもその中に、“繋ぎ直す”んじゃなく“閉じて持たせる”方を選んだ人たちがいた」
アレクシスの声が低く落ちる。
「それが今も残っていると」
「たぶん。意思か、仕組みか、あるいはその両方」
その時、壁画の奥から黒い影のようなものが立ち上った。
人の形に近い。
でも顔はない。
騎士たちが剣を抜く。
「下がってください!」
私は反射的に一歩前へ出る。
だが次の瞬間、アレクシスが私を後ろへ引いた。
「約束を忘れるな」
「……っ、はい」
影は礼拝堂の中央へ広がり、ひどく歪んだ声を発した。
言葉には聞こえない。
けれど意味だけは流れ込んでくる。
――定着せよ。
――揺らぐな。
――閉じよ。
「これが……」
私は息を呑む。
王都を閉じる側の残滓だ。
祈りではない。
恐れから生まれた固定の意志。
影がこちらへ伸びてくる。
空気が一気に冷える。
「アレクシス!」
その名を呼ぶのと同時に、彼が一歩前へ出た。
剣が閃く。
影そのものは切れない。
だが、進行が一瞬だけ鈍る。
「カナエ、今だ!」
彼の声が飛ぶ。
私は壁画へ手を伸ばした。
怖い。
でも、今なら分かる。
閉じるな。
繋げ。
胸の奥で、カナエの名が熱くなる。
次の瞬間、壁画から白い光が広がった。
影が大きく揺らぐ。
悲鳴のような音。
そして、黒い残滓は礼拝堂の高い天井へ溶けるように消えていった。
私はその場に膝をつく。
息が苦しい。
「カナエ!」
すぐにアレクシスが駆け寄る。
その腕に支えられながら、私は礼拝堂の壁を見る。
黒い亀裂は完全には消えていない。
でも、中心の一部だけ白く戻っていた。
「……今の、見ましたか」
「ああ」
アレクシスの声は低い。
「王都を閉じる者だな」
私は頷いた。
敵の輪郭が、初めて見えた気がした。
第30話
世界より先に、お前を選ぶ
礼拝堂の一件のあと、私は高熱を出した。
地下へ入った時よりも強い反動だった。
目を閉じると、白い光と黒い影が何度もぶつかる。
礼拝堂の壁画。
地下の記録層。
白い鳥居。
全部が夢とも現実ともつかないまま混ざり合った。
どれくらい眠っていたのか分からない。
目を覚ました時、最初に見えたのは見慣れた天井だった。
そして、その少し下に、アレクシスの横顔。
「……アレクシス」
かすれた声に、彼がすぐ顔を上げる。
「起きたか」
「……ここ」
「お前の部屋だ」
私はゆっくり瞬きをする。
喉が渇いていた。
身体はまだ重い。
でも、隣に彼がいるだけで少し楽になる。
「礼拝堂は」
「一時的に安定した」
「……よかった」
「お前のおかげだ」
私は小さく息を吐く。
それならよかった。
けれど同時に、別の不安が胸を刺す。
「次は、もっと大きいのが来ますよね」
アレクシスは答えない。
その沈黙が、答えだった。
「私、止められるでしょうか」
「止める」
「私が、じゃなくて?」
「俺たちが、だ」
私は少しだけ笑う。
「ずるい」
「またそれか」
「だって、すぐに一人で背負わせないようにするから」
アレクシスはしばらく私を見つめ、それから静かに言った。
「当然だ」
その声が、今日はいつもより深い。
「カナエ」
私はその呼び名に目を上げる。
外の世界の私でもなく、異物としての私でもなく、
この世界と繋がる私をまっすぐ見て呼ぶ声。
「もし、この先で選ばなければならなくなったら」
アレクシスが言う。
「選ぶって、何を」
「世界を繋ぐか、閉じるか。お前が鍵なら、その時が来る」
私は息を止める。
夢で老人が言ったことと同じだ。
「……はい」
「その時」
アレクシスは少しだけ前へ屈む。
近い。
近すぎて、逃げることもできない。
「俺は、世界より先にお前を選ぶ」
時間が止まった。
風も、灯りも、部屋の静けさも、全部遠くなる。
私はただ彼を見ていた。
それは告白とは少し違うのかもしれない。
でも、私にとってはそれ以上だった。
この人は今、王都でも責務でもなく、私を先に選ぶと言った。
「……それ、ずるいどころじゃないです」
やっと声を出すと、涙が滲みそうになった。
「そんなこと言われたら、もう逃げられないじゃないですか」
「逃がす気はない」
即答だった。
でも今は、その強さが怖くない。
むしろ嬉しい。
「私も」
声が震える。
それでも、ちゃんと言いたかった。
「私も、アレクシスのそばにいます」
彼の目がわずかに揺れる。
「世界がどうなっても?」
「……それは困ります」
思わず本音が出てしまい、彼が少しだけ笑った。
その笑みにつられて、私も泣きながら笑ってしまう。
「でも、逃げません」
言い直す。
「繋ぐなら、一緒に繋ぎたいです」
アレクシスの手が、そっと私の頬に触れる。
「なら、約束しろ」
「何を」
「ひとりで消えようとしないと」
その言葉の重さに、私は目を見開いた。
たぶん彼はもう、私がいざとなれば自分を差し出そうとすることを知っている。
だから先に、それを封じに来たのだ。
「……約束します」
「絶対だ」
「はい」
その時、部屋の外で鐘が鳴った。
北棟からだ。
遠いのに、はっきり聞こえる。
礼拝堂の安定は一時的だ。
地下の記録層も、王都を閉じる者も、まだ何も終わっていない。
けれど、今だけは分かる。
私はもう、ただ巻き込まれた少女ではない。
ナカジマであり、カナエであり、繋ぎ直す側の人間だ。
そして。
この世界で最初に、私を選ぶと言ってくれた人がいる。
それだけで、次に来るものへ立ち向かえる気がした。




