第23話 床の足跡
朝から雨が降っていた。
強くはないが、止みそうでもない。
屋根を叩く音で目が覚める。
ひだまり亭の屋根は古いから、雨音が少し大げさだ。
嫌いじゃない。
階下に降りる。
ミリアが火を起こしていた。
「おはよう」
「おはよう」
リナが、濡れた布巾でテーブルを拭いている。
雨の日は、木が少しだけ湿る。
拭いても、すぐには乾かない。
それでも、彼女は真面目に拭いている。
手つきが、少しだけマシになった。
「おはようございます」
リナが言う。
「おはよう」
ユウトはいつもの席に座る。
茶を飲む。
少し渋い。
いつもの味だ。
雨の日は、音が増える。
外の足音。
馬車の車輪の音。
それが雨に混ざって、少し遠く聞こえる。
昼前。
扉が開いた。
鈴が鳴る。
でも、誰も入ってこない。
風だろうか。
ミリアは鍋を見ている。
リナは皿を洗っている。
誰も気にしない。
ユウトは、床を見た。
泥の足跡があった。
入り口から、奥の席へ。
等間隔に増えていく。
ペタ。
ペタ。
音はしない。
足跡だけが進む。
一番奥の席。
椅子が、少しだけ軋んだ。
座面が沈む。
誰かが、そこにいる。
姿は見えない。
気配もない。
呼吸の音もしない。
たぶん、すごい魔法なのだろう。
ユウトは立ち上がった。
厨房へ行く。
乾いた布巾を手にする。
それから、木のコップ。
水を入れる。
まっすぐ、奥の席へ歩く。
何もない空間。
その前に立つ。
コップを置く。
トン、と音がした。
空気が、少しだけ揺れた気がした。
「ご注文は」
ユウトは聞いた。
返事はない。
見えていないと思っているのだろう。
見えていないのは、確かだ。
ユウトはテーブルに布巾を置いた。
「床」
短く言う。
「泥がついてます」
ヒュッ。
息を呑む音がした。
何もない空間から。
空気がぐにゃりと歪む。
黒い外套の男が、姿を現した。
男は、目を見開いていた。
ひどく青ざめている。
幽霊でも見たような顔だ。
ガタガタと震えている。
「なぜ」
声が掠れている。
「気配は、完全に消したはずだ」
男は後ずさろうとした。
壁にぶつかる。
ユウトは床を指差した。
「足跡が、残っています」
男が下を見る。
泥の跡が、入り口から続いている。
魔法は完璧だったのだろう。
でも、泥は消えない。
ただの汚れだ。
それだけのことだ。
男はそうは思わなかったらしい。
完璧な魔法を見破られた。
そう勘違いしたようだ。
絶望している。
「乾きます」
ユウトは言った。
男はビクッと肩を揺らす。
布巾を、ひったくるように取った。
「す、すみません」
男は床に這いつくばる。
泥を拭き始めた。
必死だった。
キュッ、キュッ。
布巾が床を擦る音。
「そこもです」
「はいっ」
男は泣きそうな顔で拭く。
すごい使い手なのかもしれない。
危険な奴なのかもしれない。
何か目的があるのかもしれない。
でも、今はただの掃除係だ。
「終わりました」
男が立ち上がる。
「ありがとうございます」
ユウトは布巾を受け取る。
「で、ご注文は」
「ス、スープを……」
「わかりました」
男は隅の席で、小さくなってスープを飲んだ。
味がわかっているのかは、怪しい。
ガルドが来た。
「雨か。最悪だ」
「そうだな」
いつもの愚痴だ。
男はガルドを見て、さらに小さくなった。
何か勘違いしているのだろう。
男は銀貨をテーブルに置いた。
「釣りは、いらない」
逃げるように出て行った。
扉が閉まる。
「変わった人ですね」
リナが言う。
「そうだな」
ユウトは床を見た。
綺麗になっている。
それでいい。
夕方になり、雨脚はさらに弱まった。
いつの間にか、黒猫が足元にいた。
濡れてはいない。
「今日も平和だったね」
ミリアが言う。「そうだな」
すごい魔法も。
なにかの技術も。
ひだまり亭では、ただの泥汚れ。
拭けば終わる。
雨は夜まで降り続いた。
特別なことは起きなかった。
それでいい。




