第21話 奇跡の使い道
朝。
目が覚めたら、少しだけ空気が湿っていた。
雨の匂いではない。
ただ、夜のあいだに降りた霜が、ゆっくりと溶け始めている匂い。
古いベッドから降りる。
床板が少しだけ軋む。
もう慣れた音だ。
階下へ下りると、厨房にはすでに火が入っていた。
薪の燃える音。
湯の沸く音。
それから、見慣れない不器用な足音が混ざっている。
「……あ、おはようございます」
リナだった。
彼女は今朝も、使い古したエプロンをつけて厨房の隅に立っていた。
手には、水で濡れた布巾を握っている。
「おはよう」
それだけ言って、定位置の椅子に座る。
ミリアが鍋の様子を見ながら言った。
「おはようユウト。パン、もう少しで焼けるから」
「わかった」
茶を注ぐ。
少し渋い。
いつもの味だ。
「あの、私、パンの様子を見ます」
リナがオーブンの方へ歩み寄る。
「熱いから気をつけてね」
「はい」
リナは布巾を手に巻きつけ、鉄板を引き出そうとした。
そのとき、少しだけ手元が狂った。
ガタン、と鈍い音がした。
鉄板が傾き、オーブンの縁に引っかかる。
「あっ……!」
リナの小さな悲鳴。
鉄板の上のパンから、黒い煙が上がっていた。
火に近すぎたらしい。
表面が炭のように焦げ、苦い匂いが厨房に広がった。
「どうしよう……私のせいで……」
リナの顔が青ざめる。
彼女は震える手を、無意識のうちに焦げたパンへと伸ばした。
両手を組み、目を閉じる。
唇が、かすかに動いた。
光った。
淡く、白い光だった。
リナの指先からこぼれ落ちた光が、鉄板の上のパンを包み込む。
音はなかった。
ただ、焦げた苦い匂いが、ふっと消えた。
光が収まる。
鉄板の上には、焦げ跡ひとつない、黄金色に輝くパンが並んでいた。
表面はふっくらと膨らみ、麦の甘く香ばしい匂いが立ち上っている。
「……え?」
リナ自身が、一番驚いた顔をしていた。
自分の手と、パンを交互に見る。
かつて、彼女がその祈りを捧げたのは、傷ついた騎士たちの命を繋ぎ止めるため。
病に苦しむ人々を、暗闇から救い出すための奇跡。
それが今、焦げた小麦粉の修復に使われた。
ユウトは茶を飲み終え、立ち上がった。
鉄板に近づき、黄金色のパンをひとつ手に取る。
温かい。
ちぎると、中からきめ細かい白い生地が顔を出した。
そのまま口に入れる。
「……どう、ですか」
リナがおずおずと尋ねる。
「美味い」
「本当ですか……?」
「でも、次は焦がさないように」
「はい……」
それだけだ。
奇跡が起きた理由は聞かない。
パンが焼けた。
食べられる。
それでいい。
昼前。
ガルドが扉を開けて入ってきた。
今日は鎧ではなく、革の胸当てだけをつけている。
少し、足を引きずっていた。
「よう。……なんか今日、いい匂いがするな」
「おはよう」
「もう昼だ」
いつものやり取り。
ガルドは椅子にどさっと座り、ため息をついた。
「森でゴブリンの巣を叩いてきた。数は大したことなかったが、足を少し捻った」
「大変だな」
「他人事かよ。……で、そのいい匂いの元をくれ」
ミリアが、スープと一緒に例のパンを出した。
リナが少しだけ、緊張した顔でそれを見守っている。
ガルドはパンをちぎり、スープに浸して口に放り込んだ。
咀嚼する。
動きが止まる。
「……おい」
ガルドがパンを見つめた。
「なんだこれ。やけに美味いな」
「そう?」
ミリアは皿を拭きながら答える。
「いや、美味いだけじゃないぞ。なんか……こう、腹の底から力が湧いてくるというか……」
ガルドは自分の足をさすった。
「捻った足の痛みが、引いてる気がする」
リナが息を呑んだ。
聖女の祈りが込められたパン。
食べた者の傷を癒やし、活力を与える効果があっても不思議はない。
「ユウト、このパン、なんか入れたのか?」
ガルドが真剣な顔で聞く。
ユウトは厨房から顔を出さずに答えた。
「少し、焦げた」
「は?」
「焦げたのが、直った」
「意味がわからん」
ガルドは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「まあいい。美味いからもう一個くれ」
午後は、客が途絶えた。
外は曇っている。
風が少し冷たくなってきた。
リナは、客が使った皿を洗っていた。
桶の水は冷たいはずだが、彼女はもう文句を言わない。
慣れた。
黒猫が、いつの間にか厨房の隅に入り込んでいた。
リナの足元にすり寄る。
「……ん? お腹空いたの?」
リナはしゃがみ込み、残っていた例のパンの欠片を猫の前に置いた。
奇跡のパンだ。
猫も喜んで食べるだろう、と彼女は思った。
猫はパンの匂いを嗅いだ。
二度、三度。
それから、ふいっと顔を背け、そのまま丸くなって寝始めた。
「……あれ?」
リナは少しだけ、不満そうだった。
ユウトが薪を持って裏口から入ってきた。
「猫は、パンより魚の方が好きです」
「そうなんですか……奇跡が入ってるのに」
「猫には関係ないですから」
ユウトは薪をストーブの横に積み上げた。
正確な四角形。
いつもと同じ形だ。
夕方になり、雨が降り始めた。
ひだまり亭の古い屋根が、規則正しい音を立てる。
ポツ、ポツ、という音が、少しずつ繋がって、ザーッという音に変わっていく。
雨の日は、音が増える。
外を歩く人の足音は消え、代わりに雨粒が世界を叩く音だけが残る。
ミリアがランプに火を入れた。
オレンジ色の光が、少しだけ薄暗くなった店内を照らす。
「今日は冷えるね」
「そうだな」
「スープ、少し多めに温めとく?」
「お願いします」
リナは、箒を持って店内を掃いていた。
床の軋む音と、箒が埃を集めるシュッ、シュッという音。
彼女はふと、手を止めて窓の外を見た。
雨の向こう側。
王都の方角。
そこでは今も、自分を探して血眼になっている者たちがいるのだろう。
奇跡を求め、力を求め、権力を争う者たち。
でも、この宿には届かない。
ここでは、奇跡はただの「失敗した朝食のリカバリー」。
世界を揺るがすほどの力も、ここではただの生活の一部。
それが、どうしようもなくおかしい。
そして、少しだけ泣きたくなるほど安心した。
「リナ」
ユウトの声だった。
「はい」
「そこ、まだ埃があります」
彼が指差したのは、テーブルの脚の影だった。
「あ……すみません」
リナは慌てて箒を動かした。
聖女としての威厳も。
奇跡の価値も。
ここにはない。
あるのは、掃き残した埃と、冷たい水と、温かいスープだけ。
夜になった。
雨はまだ降り続いている。
止む気配はない。
最後の客が帰り、ミリアが扉の鍵を閉める。
カチャリ、という小さな音。
それで、今日のひだまり亭は外の世界から完全に切り離される。
「今日も平和だったね」
ミリアが、いつものように言った。
ユウトが頷く。
「そうだな」
リナも、少しだけ遅れて頷いた。
「……はい」
明日の朝も、パンを焼く。
たぶん、もう焦がさない。
奇跡を使う理由はない。
それでいい。
ひだまり亭は、今日も、特に何もなかった。




