第18話 泥と宝石
朝。窓の外が白い。
霧だ。
何も見えない。
「乾かないね」
ミリアが言った。
「そうだな」
それだけ。
湿気が多い。音もしない。
世界がそこだけ、切り取られたみたいだ。
昼前、扉が開いた。
鈴の音が鈍い。
入ってきたのは、大柄な影だった。
古びた外套を羽織り、帽子を目深に被っている。
遠目には、ただの疲れた旅人に見えた。
だが、歩くたびに床が濡れる。
雨水じゃない。泥だ。
服の隙間から、黒い粘土のような肌が覗く。
客は、一番奥の席に座った。
帽子も取らない。
「いらっしゃいませ」
ミリアは、お冷やを持っていく。
「ご注文は」
泥の手が、袖口からぬらりと出た。
カウンターの隅。
茹でたばかりの殻付きの根菜
塩味だけ。
「......これ?」
泥が頷く。帽子の縁から、滴が落ちた。
ミリアは皿に載せて、出した。
泥はそれを掴むと、顔があるはずの場所に押し当てた。
ズブ、と音がした。
芋が沈んで、帽子の奥へ消えた。
食べたらしい。
「美味しい?」
答えはない。
ガルドが来た。
入るなり、足を止めた。
「......ッ」
音もなく剣を抜いた。
切っ先が震えている。
「おい、ユウト」
声が低い。
「どうした?」
「下がれ。あれは『沼の王』だ」
「客だ。服を着てるぞ」
「騙されるな」
ガルドの目が血走っている。
「昨日、町であれが暴れた。あとには何も残らない。災害級だ」
「芋、食ったぞ」
「はあ?」
ガルドが固まる。
泥は、二つ目の芋を顔に押し当てていた。
咀嚼音はない。ただ、飲み込むだけ。
「......食ってるな」
ガルドは剣を下ろした。
深くため息を吐いて、いつもの席に座る。
「酒」
「はいよ」
手は、まだ少し震えていた。
帰り際、泥が立った。
カウンターに、石を置いた。
緑色。親指くらいの大きさ。
「お代、かな」
ミリアが拾い上げる。
「綺麗だね。窓に飾ろうか」
「そうだね」
泥は、霧の中へ帰っていった。
後ろ姿は、やっぱり人に見えた。
入れ違いで、商人が入ってきた。
カウンターの石を見て、目を見開いた。
「っ! おい、それ......」
商人の声が裏返る。
「なに?」
「いや、その輝き、まさか『森の心臓』......」
商人は石に顔を近づけ、ごくりと喉を鳴らした。
石の奥で、光が脈打っている。
怪しく、けれど目が離せないほど神々しい。
「国ひとつ買える......」
そこで言葉を切って、店内を見回した。
古い柱。
欠けた皿。
いつものスープの匂い。
商人は苦笑いした。
「いや、まさか。ここにあるわけないか」
「なぁに?」
商人は、何も言わずに席に着いた。
霧が晴れる。
泥の跡は、いつの間にか消えていた。
ミリアは石を窓辺に置いた。
元々そこにあったみたいに馴染む。
西日が当たると、石の中で何かが動いた気がした。
「ユウト、どう?」
「いいんじゃないか」
ひだまり亭では、今日も、特に何も起きなかった。




