アラン・フォスターと白銀の薬師
アランが村を出て数週間後——大貿易都市セントバ。
本国フォーセットの国境に位置するエドラス村から東へ数日。気が遠くなるほど馬を駆りフリンドーシャ大森林を抜けるとセントバへ到着する。フリンフロ王国王都フロンよりも煌びやかで騒がしく人種の坩堝と云えるのは世界を見渡しても大貿易都市セントバ以上の都市は見当たらない。世界最大の都市と云ってよかった。
アランはセントバへ到着後、直ぐに例の魔導師と合流するとセントバの喧騒から外れ〈白銀の薬師〉が店を構える小路へ案内された。そこは、昼日中という云うのに薄暗く陰鬱な雰囲気を垂れ流している。
アランはそれに「本当にこんなところに?」と、先を歩く魔導師の背中へ訊ねたが、魔導師は「主人は孤独ゆえにな」と返し明言を避けた。そして薄暗い通りに一際目立つ白木の扉の前で足を止め「次に夢を見るのは我が主人の番。お前はその体現者となれ」と、皺枯れた声でカサカサと続けていた。
しかし、どうだろう。
最後の言葉はアランの耳に届いていなかったようだ。
魔導師が皺枯れた手で白木の扉を開けるのにアランは目を奪われていた——見覚えのある手であった。そう——あの日、アランへ黒鋼を手渡したのはこの手である。
※ ※ ※
魔導師に案内されたアランは、店内へ足を踏み入れると、意外そうな顔で辺りを見回した。店内は外の陰鬱な雰囲気とは打って変わり随分と華やかに思えたのだ。
東西に設えられた窓からの採光がほど良いのだろう。
東からは柔らかな光がぼんやりと滲み、西からは暖かな明かりが差し込み心地よい空気を作っている。気が休まる香も感じられた。
壁のあちこちには半ば乾燥した薬草が吊るされていた。先ほどから感じる独特な清涼感のある香りは、きっとこの薬草たちが、暖かさに誘われ放っているのだろう。気が休まるのはきっとこの香のおかげだ。
少し足を進めれば、違った香りが鼻を突いた。
それは北側の古びたカウンタの周りを埋め尽くす——アランが目にしたことのない——赤や蒼、濃紫の花々が放っているのだと判った。そしてアランは、華やかで柔らかく暖かな店内に銀髪の小柄な女の姿を見つけた。彼女が〈白銀の薬師〉、その人なのだろう。魔導師と同じく白の外套を纏った彼女は店のカウンターの前でアランを待っていた。
〈白銀の薬師〉。
蒼みがかった白銀の髪が通り名の由来だそうだ。
本名を知るものは数少ないと聞く。どこかの都市ではブリタ・ラベリと呼ばれ、教会に属さない幻装魔導師の間ではメリッサと呼ばれているそうだが、その名が明確に〈白銀の薬師〉を指している確証はない。
だから、皆口を揃え〈白銀の薬師〉と彼女を呼ぶのだろう。
※ ※ ※
ともあれ、〈白銀の薬師〉は鈴のような声で「どうぞ、かけてください」とカウンター前の古びた丸机と対になった質素な椅子をアランへすすめた。
だが、アランは顔を顰め直ぐには応じなかった。彼女の声音が幼く感じたからでも、外套から覗いた手が随分と華奢に見えたからではない。
アランは少しばかりの沈黙の後、やっと声を発した。
「その仮面は、何かの冗談か?」
アランが云った仮面とは、〈白銀の薬師〉が着けた奇妙な——真っ白で目鼻口の穴がなく、つるりとした——仮面を指していた。
そんなものを着け何をどう見て、そんなにハッキリと言葉を届けることができるのか? 魔術でも使っているのだろうか——彼女の言葉はくぐもっている感じは全くない。
そして、そもそも顔を隠す必要が判らない。
下衆な考え方をすれば、醜女の類なのかともアランは思ったが、薬師の所作からそうだとは想像し難かった。だから、アランは警戒をしたのだ。
薬師は、それに要らぬ用心だと云うようコロコロと小さく笑い返し、言葉を続けた。「英雄様に見せられるような顔ではないのですよ。私は醜女ですので」と、今度は見透かしたように答え、もう一度コロコロと笑って見せた。
そんなやりとりの間、アランの背後に居た魔導師は「では」と云うと薬師へ浅く一礼し店の奥へと姿を消した。アランは立ち去る魔導師の手を、もう一度よく眺めると扉の前で悟ったことを、胸中で反芻した。この魔導師は一体何者なのだ?
薬師は思いを巡らせたアランを——恐らく——眺めながら「はい」と短く答えると、再び口を開いた。「それで、大体の事情——容態はあの魔導師から聞いています。あなたの娘の病は、時間は掛かりますが取り除けると思います。聞いた症状から鑑みるに、あなたの〈黒鋼〉から微弱に漏れ出る魔力に似た成分が蓄積しているのでしょう。あれは、幼い身体には荷が重いはず。私もそうでした」薬師は、いつまで経っても腰をかける様子のないアランを他所に、先に腰をかけながら云った。
それにアランはハッとした顔を見せた。
私もそうでした——薬師は確かにそう云った。それであれば、アランの娘が助かる見込みはあるのだろう。だがしかしだ。その原因は〈黒鋼〉にあるようにも聞こえる。聞き間違いか? アランは次に訝しげな顔をすると、ようやく腰をかけながら口を開いた。「あれの病の原因は〈黒鋼〉なのか? だったら治ったとしても、また発症するのか?」
薬師は机に用意されていた硝子瓶から、二つの杯へ何やら注ぎ、やっと腰をかけたアランの手元へ杯の一つを滑らせた。
アランはそれを鋭く一瞥すると「これは?」と訊ねたが、薬師は「そんなに怖がらないでください。ただのお茶です」と、またぞろコロコロと笑いを溢し言葉を続けた。「それで——また発症するのかと? それはそうですね。でもあれは微量の放射線ですので、成長すれば許容範囲内です。病巣は特定できるので書き換えるまで〈黒鋼〉を近くに置いておかなければ安全です」
「おい。今、なんて云ったんだ? 何が微量で何を特定できて、どうするって?」アランは身を乗り出すと、何食わぬ様子で面を少しばかりずらし杯を啜った薬師へ食ってかかるように訊ねた。途中の言葉が、あまりにも聞き取り辛く何か煙に撒かれたような気がしたからだ。
「ごめんなさい——」薬師は杯をそっと机に置くと、静かに続けた。「——微量なのは〈黒鋼〉が放つ魔力に似た力のことで、特定できるのは病の原因。それで私の丸薬で病の原因を取り除きます。と、云うことです」
「そうか——あんた、〈外環の狩人〉なんだな? なぜ街で商売なんかしている?」言葉が聞き取れなかったのは、〈外環の狩人〉特有の言葉だったからだ。そう理解するとアランは浮かせた腰を落とした。
「その通りです。私と……あの人は〈外環の狩人〉だけれど、その中でも特別な存在。私は——そうですね、この呼び方をすると、あの人が怒ってしまうから嫌なのだけれど、あなた達〈ネイティブ〉に起きた異変を観測している。薬師を名乗っているのは、身動きするのに都合が良いから。で、あの人は異変を起こした張本人を捜している」薬師はアランの問いにそう静かに答えた。
アランは、薬師が云った〈あの人〉が誰のことなのかと双眸を細めたが、いかんせ薬師の仮面のおかげで表情が読めない。だから、それを訊ねることは諦めた。万が一、それを訊ねることが薬師の逆鱗に触れるような話であれば、ここまでの旅路が無駄足になってしまう。なぜかそう思ったのだ。 それは、薬師の静かな声音の中へ、ちょっとした狂気のようなものを感じ取ったからだ。薬師の言葉のどれもが鳩尾あたりでドロドロと澱み溜まり、いつまでも耳の奥まで這い上がってくるようで気味が悪い。どの言葉も、普通のものだと云うのに。
銀髪が機嫌を損ねる前に本題へ入ろう——そう思うとアランは話を続けることにした。
「そうか——俺は、あんたみたいに頭が良いわけじゃない。だから難しいことは訊かないことにする。でだ、本題に入っていいか? 娘を治すには、幾ら払えばいい?」アランは固唾を呑み、そう切り出した。
「その前に、なんで娘を助けたいの? 訊かせて」薬師は、少しの間を置くと静かにそう訊ね返してきた。
その言葉は、またもアランの鳩尾に澱み溜まり、耳の裏で何度も繰り返された。
何故? と、薬師は娘を助ける理由を訊ねている。単純な問いだ。だが、それに対する答えは、単純ではないと薬師は云いたのだろうか。しかしだ——答えも単純だろう。娘だから——その一言に尽きるではないか。
アランは、そう思うと口を開き答えようとしたが——遂には言葉にすることができなかった。娘の命が大切であったのならば、妻の説得を聞き入れ丸机に立てかけた〈黒鋼の両手剣〉は無かっただろうし、そもそもこの場所で奇妙な薬師と顔を合わせていることもなかったはずだ。では何故なのか——耳の裏へ何度も這い上がってくる薬師の言葉の残滓にアランは苛まれ、杯に視線を落としてしまった。
その様子に薬師は——おそらく笑ったのだろう——鈴のような音を立てると「ごめんなさい、意地悪なことを訊ねてしまったようですね」と、云うと続けた。「フリンフロン金貨で九枚。それで、丸薬を売りますよ」
アランは、その言葉に愕然とした表情を浮かべ薬師の奇妙な仮面へ再び視線を戻した。
フリンフロン金貨と云えば流通する金貨の中でも最も信用の高い通貨だ。それもそのはずだ。大貿易都市セントバを有する国が発行した金貨である。価値が破綻することは、まず考えられない。九枚もあれば故郷でしばらくは遊んで暮らせるだろう。つまりだ。その額面はアランにとっては法外だと云ってよかった。
「おい、待ってくれ。そんなに持ち合わせがある訳ないだろう」アランは、今度は腹の底から絞り出すような声で、そう答えていた。
※ ※ ※
薬師は丸薬の代金をアランが支払えないことを見越していたのか、すぐさまに別の提案を持ちかけた。それは、薬師の身辺を嗅ぎ回る商人貴族を殺して欲しいと云うものであった。聞けば、その商人貴族の表向きは貿易商であるが、裏では違法な人身売買——それも幼い子供を攫い売り飛ばす——の元締めだと云う。なるほど。薬師を見るに随分と幼い気もする。その提案は身を案じてのことなのだろうとアランは考えた。
そして驚くことに薬師は、依頼を請けるのであれば報酬は丸薬、前払いでフリンフロン金貨五枚も支払うと破格の内容を提示したのだ——アランは、これを二つ返事で引き受けた。
※ ※ ※
〈白銀の薬師〉との邂逅の日の夜——セントバ郊外の洋館。
アランは薬師の依頼を請けると、そのまま商人貴族が住まう洋館まで足を運んだ。善は急げ。薬師の元へ首を持ち帰れば、その場で丸薬を渡すと云ったからだ。もっとも、騒ぎを起こして問題ないのかと云う疑問もあったが、薬師はその辺りの根回しは魔導師に任せてあると云っていた。何故か、それでアランは疑念をすっかり晴らしていた。
いざ洋館の正面門に立ったアランは、疑念を晴らした自分は、催眠術の類にでも掛けられていたのかと疑ったが、いずれにせよ直ぐにセントバを出て国境を越えてしまえば良いと腹を括っていた。
だから——と、いう訳でもなかったが、アランは声をかけてきた随分とガラの悪い門番の頸を撥ね飛ばすと、門を蹴破り中庭へ踊り込んだ。
※ ※ ※
その日の夜——アランが押し入った夜——は満月だった。
洋館の中庭中央に設えられた噴水が水飛沫をあげると、月光に照らされた飛沫がキラキラと輝き幻想的に周囲へ広がり幻想的な光景を魅せている。あたりを見回せば丁寧に剪定された庭木と、その下に咲き誇る花々も月光に照らされ、月下の中庭はまるで絵画から飛び出てきた光景のようだ。
もっとも、騒ぎを聞きつけアランの周囲を取り囲んだゴロツキの戦士もどきが、それを台無しにしている。
アランは不満げに鼻を鳴らした。
その不満は景観を汚すゴロツキになのか、それともこの景観が汚い金でできていることになのか、はたまたは、その両方になのか。とにかくアランは不満を露わにした。そして周囲に集まったゴロツキ達へ黒鋼を構えると、無言で距離を詰め身体を捻り目にも留まらぬ勢いで振り抜いた。
問答無用とはきっとこのことを云うのだろう。
アランが美しい景観を汚された腹いせに、そうしたとは思えないが周囲に集まったゴロツキ達は敵であることに違いなかったし、それを確かめる必要はアランには無かった。アランの前へ剣を握り立ったのであれば、それは問答無用に斬り伏せる対象なのだ。
振り抜かれたアランの身の丈ほどある黒鋼は暗く深く鈍く唸った。
すると、月の落とし露を刀身に流し宙を斬り裂いた切っ先は何人かのゴロツキの戦士もどきの頸を撥ね飛ばしていた。ゴロツキたちには声を挙げる暇も、黒鋼を受ける暇も与えられなかった。
「お、おい。ちょっと待ってくれ。も、目的はなんだ。お前の雇い主は幾らでお前を雇った?」刹那の出来事で呆気にとられたゴロツキの中の一人が前に出ると、アランへブルブルとそう訊ねた。それは無理もないだろう。門を蹴破り突然やってきた戦士が血風を撒き散らし——ゴロツキ達は、それに太刀打ちできなかったのだ。
声を挙げたのは、おそらくゴロツキの頭なのだろう。
見れば構えた片手剣をカタカタと震わせている。包み隠さぬアランの鋭く静かな殺気を前に、気をへし折られるのではないか。そう肌で感じているのだ。次に頸を撥ねられるのはきっと自分だ。その未来が視えているに違いない。
「お前が死ぬのに、それがなんの関係がある?」アランの答えは至って簡潔だった。洋館への道を塞ぐのであれば、叩き斬る。アランにとっては、それだけのことであって他に理由はない。幾らで雇われたのか? それだってそうだ。邪魔をするなら——娘のために……死んでもらうだけだ。
「は?」ゴロツキの頭は、アランの答えに目を丸くした。
「俺の賃金が、お前の生き死に何の関係があるんだって訊いてんだ」アランは次の動作のために、鼻から息を吸い込むと静かにそう答えた。
「ちょっと待てよ。落ち着け。安駄賃のために随分と危ねえ橋を渡るじゃあねえか。金に困ってるのか? それなら三倍は払ってやる、どうだ? それで手を打たねえか」頭はアランが痺れを切らせ、襲いかかってくるだろうと予測すると条件を出した。
ゴロツキの主人は随分と敵も多い。だから、二束三文の依頼金で主人の頸を狙った傭兵崩れを何度も斬り伏せてきた。だが、今度のは格が違う。違い過ぎている。頭はそれを肌で感じていた。だからこその条件提示だった。上手く交渉すれば、仲間に引き入れられるかも知れない。だが、それは叶わない望みだった。
「話は終わりだ」アランはやはり簡潔に答えただけだった。
アランは答えるや否や、一気に身体を右に捻り右手を柄へ軽く添えた。
そして、限界一杯まで上半身を捻ると、次の瞬間には弩級のように撃ち出していた。両脚は地に吸い付きアランの体幹がブレないようを支えながら次々と獲物の前へ前へとアランの身体を運んでいた。
そうやって黒刃の軌跡は月明かりに照らされ蒼白い線を描き、一回転する頃には真紅に染まり幾つかの頸を撥ね飛ばしている。
次には左回転。
その次は右——それを繰り返した。
その様相はまるで、血飛沫を纏った木枯らしのようであった。その証拠に、血飛沫が黒刃の残滓を追いかけ、次の刹那には美しい中庭を、丸く赤く黒く染めあげていた。
おそらくだ——ゴロツキ達は、三十は居ただろう。
だが、その全てが構えた剣を振るうことも許されず瞬く間に血反吐の海に横たわることとなった。
気が付けば、その惨劇を月光が照らし出していた。
近くでは、そんなことは知らずと噴水が再び音をたて飛沫をあげている。それはなんとも、アランにとって滑稽な惨劇の跡であった。その光景にアランは「にわか戦士が舐めんなよ」と吐き捨て骸の一つへ唾を吐きかけた。
※ ※ ※
「父上、どちらへ? 随分と館の外が騒がしいのですが」
純白の寝着の裾を揺らし慌てて部屋の外へでた駆け出たアリサは、何やら大荷物を抱え慌て廊下を駆けた父、クラウスと鉢合わせになった。クラウスはすっかり豪奢な外着を着込み、これから旅に出るような姿で慌ててる様子だ。
アリサは父の様相に怪訝な表情を浮かべた。
階下から響く金属音や怒声に罵声はただ事ではないことは、直ぐに判ることだ。それであるのに父は、どうやら逃げ出そうとしている。それはアリサでなくとも眉を顰めるのに十分な理由だった。
「中庭に賊が押し入った。何をもたもたしている! 逃げる準備をしろ! いや、もうその格好で良い、行くぞ!」痩せっぽっちのクラウスは顔を赤くしながら云うと乱暴にアリサのか細い腕を掴み走り出そうとした。それにアリサは「痛い!」と声を荒げ父の手を振り払った。
「こんな格好で外に出ろと仰るのですか?——」アリサはブロンドを掻き上げ、ほんの僅かに露出をした胸の谷間に手を当てると、父の横暴に抗議するよう声を荒げ続けた。「——これで、外に出られるのは歓楽街の娼婦だけです。私は違います! それにこの騒動の中、お父様はどちらに行こうというのですか。屋敷の者をお助けにはならないので?」
娘の抗議はもっとだった。
だが、自分が打って出て命を落としでもしたらどうする? ここまで商会を育てあげ爵位まで与えられた。それが一切合切無駄になろだろう。だから自分は他者の命を差し置いてでも逃げなければならない。
——クラウスは心中に恥ずかしげもなく吐露をした。
考えてもみれば、随分とこれまで人の幸せというものを踏みしだき我が道を歩いた。その道程でセントバ随一の薬師と呼ばれた銀髪のあの女を商会へ招き入れようと金を積み上げてきた。しかしあの女は「ある男を苦しめてくれるならば考えてあげても良い」そう云うと金には興味もなさそうにしたのだ。随分と舐められたものだ——それであれば、攫って売ってしまっても良い。舐められたままでは面子が立たない。
だが、その思いが仇になったのだろう。
恐らく館に押し入ったのは薬師が雇った傭兵といったところだ。であれば、いよいよ命を落とすわけにはいかない——薬師一人の差金に屈したとあらば尚更に商会の名折れだ。
「私が今ここで命を落とすわけにはいかないのだ! 良いか私は反対から外に出る。急いで持てるものを持って裏門へ来い!」クラウスは巡らせた考えに意を決したのか、そう捲し立てた。
「お父様。本気で仰っていますか? それに母上と姉上はどうなされたのですか?」父が見せた激情にアリサは次第と顔を紅潮させると、そうやり返した。
そこでアリサは自らも見せつつある激情へ、はたと思いを馳せた。
この身勝手な父の血が自分にも流れている。今、抱いている激情は、果たして家族を想ってのものなのか。だが、いずれにせよ押し入った賊をなんとかしなければ、その答えを得ることはできない。そう思うと両腕を摩り身体をぶるぶると震わせた。
「わからぬ——夜会から戻って来ていないのだろう」そんなアリサを、まじまじと見たクラウスは、どこか寂しげな声でそう答えた。いつになく着飾った妻と娘は、いつものように出掛けたが未だ帰ってきてはいない。どこで何をしているのかさえも判らないのだ。クラウスは夜会と口に出したが、それは知り得るそれらしい言葉が口を突いただけだ。
いよいよ階下の玄関ホールで叫び声が挙がった——賊が館へ押し入って来たのだろう。
「い、いいから、早く準備をして来い。わかったな」クラウスは、それに顔面を蒼白とさせ云うと廊下を駆け出した。
何度も荷物を落とし拾い上げながら走る父の姿にアリサは溜息をこぼすと、父とは反対方向、つまり階下の玄関ホールへ通じる階段に向かった。
「やっぱり、あの父親の血が流れていると思うと——反吐が出る」アリサは道すがらに飾られた鎧が携えた模造の剣を手に取り、そう吐き捨てた。
※ ※ ※
剣を手にした者を殺める。
ただそれだけの仕事なのであれば自分にうってつけだ。
それに対して後ろめたさは——もうない。戦場に出ればいつだって、そこに在るのは戦争の駒だ。そう駒なのだから心を痛めることもない。誰かの落命は己が存命の証であり、剣を握る者なのであれば誰でもそう思うだろう。だから目前の戦士崩れの頸を幾ら撥ねようとも、なんとも思うことはない。アランは押し入った玄関ホールで、ゴロツキ共と斬り結びながらそんなことを考えていた。
だが、そのアランの姿に悲鳴を挙げる侍女たちの形相は悪魔を見るように酷く怯えている。階段下に身を寄せ合い震えた侍女たちに視線を落とすと、胸の奥を強く握られるような気分になった。
そうか——ここは戦場ではないのだ。アランにとっての人の死は自分が生きるための糧だった。しかし、ここではそうではない。ここでは、無碍に命を奪われる様相は恐怖でしかないのだ。
アランは、その現実に目を向けると吐き気をもよおし動きが緩慢とした。だが、ゴロツキの最後の一人が斬りかかってくると、無意識に〈黒鋼の両手剣〉を突き出し、腹を抉っていた。
そうなのだ——アランはあまりにも〈戦場の死〉に馴れてしまっていたのだ。だから、戦場ではないどこかで命を簒奪する者としての自分を直視することが出来なくなってしまっていた。つまりだ。人の命を奪うことに躊躇いがない。だが、そうでもなければ〈生きた戦場〉は生者を逃してはくれない。
※ ※ ※
最後の一人の腹から〈黒鋼〉を抜いたアランは、再び悲鳴を挙げた侍女達へ「そこで大人しくしてろ」と冷ややかに云うと、両手剣を肩に担ぎ二階への階段を登った。
見渡せば豪奢な調度品で設られた玄関ホールは血の海が広がり、元は純白であったろう魔導師ギルヌールの彫像も血塗られていた。ここの商人は熱心なギルヌール神派なのだろう。あらゆる邪気や毒素を祓うとされたギルヌールの業はその傍で、金を洗い清めるものだと信じられ商人達の信仰も厚い。
そして、ホールから踊り場へ目を戻した、その時だった。
階段の踊り場の壁からスラリと剣の切っ先が顔を覗かせたのが判った。アランはそれに気が付くと電光石火の如く階段を駆け上がり、剣の主に両手剣を突き立てた。そしてアランは絶句した——たった今、自分が両手剣を突き立てた相手を見て。「こ、子供……。クソ!」
※ ※ ※
それは、先ほど逃げ出す父の背中へ呪いの言葉を吐いたアリサだった。
アリサの胸に突き立てられた黒鋼はその重量で、か細い身体を押し倒した。
アリサは苦痛の声は挙げなかった。正確には苦痛の声を挙げる間もなく絶命にほど近い致命傷を負ったのだ。それほどにアランの突きは鋭く正確にアリサの心臓を貫いた。それにアリサは、ただただ堪らず血の泡をゴボゴボと吹くことしかできなかった。ひょっとしたら、何か恨みの一つでも云おうとしたのかも知れないが、それは声にはならなかった。
※ ※ ※
みるみるうち広がる血を確かめたアランは「クソ! クソ! クソ!」連呼し身体を痙攣させた少女の顔を何度も撫でつけた。そして「なんで剣なんか持っていたんだ。お前の親父はどうした!」と答えを得られるはずもない問いを投げかけていた。
先ほど感じた吐き気とは、異なる吐き気がアランを襲った。
幾ら〈死〉に心が麻痺しているとは云え、この死は許されるはずもなかった。少女がアランの娘に歳が近しいのではないかと思ったからアランはそう感じたのかも知れないが、だがどうだろう。今度の吐き気は、到底言葉では言い表せない暗い塊が喉の突き続けている。
それに堪らずアランは、いつの間にかに震えた手で少女の剣を触っていた。剣を持つ者であれば、この結末は当然のものだ。命を奪う者は奪われることも覚悟しなければならない。そう思いたかったのだ。
しかし、アランは愕然とした。
少女が手にしたのは刃が落とされた模造の剣であった。
通路の向こうを見れば乱暴に打ち捨てられた飾り鎧の残骸が転がっている——それを目にしたアランは、遂には堪えられず嘔吐した。
この少女は剣の訓練をしていたのだろうか。
アランの娘も身を護るためと自分に剣術の教えを乞うた。だから少しばかりは教えた覚えがある。この少女も、同じような理由で少々剣術を嗜んだが故に賊を追い払うだけならばと模造の剣を手に取ったのかも知れない。そうだ。ならば、賊の命を奪う覚悟はしていたに違いない。だが、相手が悪かったのだ。アランは嘔吐しながら、そう自分に云い聞かせた。しかし、胸を突き上げる吐き気が去る気配はない。
アランはそれに苛立ちを覚えると、少女の胸から黒鋼を抜き——力の限りの声を張り上げながら踊り場の柵や壁、あらゆる調度品の数々を打ち付けた。
それは獣の咆哮にも聞こえた。
階段下で身を寄せ合った侍女たちは、それを耳にすると雷に打たれたように跳び上がり一斉にその場から逃げ出していった。その慟哭の破壊は目に付くもの全てを砕き斬るまで続くのではないかと思われたが、しばらくするとアランは少女の近くで片膝を付け肩で息をした。どこか遠くで音が聞こえ我に帰ったのだ。きっとそれは、扉を強く閉めた音だろう。
「すまなかったな」アランは、すっかりと血の気が失せた少女の頬に手を当て、そう云うと、そっと少女の両瞼を閉じてやった。そして〈黒鋼〉を背負うと、先ほど聞こえた音の方へと駆け出した。




