アラン・フォスターと草原の暁
カミーユ達が砦を出立してから三日目。
昨晩は激しい雨に襲われ岩肌へ穿たれた洞穴で暖をとったが、今朝は雨もすっかりあがり気持ちよく晴れ渡っている。三人は遅れた旅程を取り戻すべく馬を走らせていた。
カミーユは、そこはかとなく開放感を覚え、馬上で大きく背伸びをしてみせた。大きく息を吸い込めば昨晩の雨もあってか、むせ返るような草の青さが胸を満たす。
ああ——春なのだなとカミーユは少しばかり微笑んだ。
「どうしたのです?」
馬を並べ走るクロエはたなびく赤茶の髪を押さえカミーユに訊ねた。
乱れる髪を気にすることもないカミーユはそれに答えようと口を開くのだが、絹のようなブロンドが悪戯に小さな口に滑り込んで彼女の口を塞いだ。ぺっぺっとカミーユはそれを吐き出しながら「いやね、なんか気持ちいいじゃない? 草の匂い、あたし大好きなんだよね。クロエはそんなことない?」と、笑って答えた。
「いえ、私も好きですよ。でもね髪を喰うほどじゃないですね」
クロエはそう皮肉を云ってみせると鞍袋から麻の紐を取り出し「結ったらどうです?」とカミーユへ手渡した。
「あら、クロエちゃん気が利くわね」カミーユは、それを乱暴に受け取ると赤い舌を少しばかり覗かせ、目の前の皮肉屋へやり返した。
※ ※ ※
キシリアは前を走る二人よりも幾分か小さな身体を上下に揺らし、懸命に馬を駆った。昔からそうなのだが、どうにも鈍臭くそれが馬にも伝播するようで、なかなか云うことをきいてくれない。そんな事情もありキシリアは少しばかり、カミーユとクロエよりも遅れて街道を走った。だが、そんなキシリアであったが彼女には唯一無二の才能があった。それは他の追従を許さない遠見の能力。優秀な弓兵でもあるキシリアが〈生きた戦場〉で生きることを許されるのは、これのおかげだ。
「先輩ー! クロエー! 待ってくださいー! 前見てください!」そして、キシリアは東から駆けてくる漆黒の軍馬を直ぐさま察知すると二人へ叫んだ。
ぐんぐんと東の街道を駆ける軍馬に跨るのは、深く黒い外套にフードを目深に被った戦士で、背には身の丈程の黒く大きな剣を背負っている。このまま行けば街道が交わるところで鉢合わせとなってしまう。最悪の場合——相手が〈草原の暁〉の残党であれば剣を交えることとなる。キシリアは鞍の脇に垂らした矢筒へ軽く手をかけた。弓に手をかけこちらを悟られる愚策は避けた。
※ ※ ※
「カミーユ。あれを」
クロエはキシリアの声にハッとすると東に目をやり黒い影を目視した。
「何あれ、真っ黒」
「じゃなくて。向こうもこちらに気が付いてますね」
確かに——キシリアの声が耳に入ったとは思えないが、東を走る騎影はどうもこちらを見ているようだった。その証拠に少しばかり速度を落とし始めている。カミーユはそれに「そうみたいだね」と小さく漏らすと、鞍に括りつけた剣の柄に手をかけ「ゆっくり」と小さく云った。
すると、ようやく追いついたキシリアはそれに「あれは?」と誰に訊ねる訳でもなく溢すと、やはり他の二人と同じく黒の騎影に釘付けとなった。
カミーユ達よりも先に街道の十字路に差し掛かった黒の戦士は、思った通りカミーユ達に気が付いていた。黒の戦士は咄嗟に速度を落とした三人に顔を向けると何度か馬を回頭させ様子を伺っている。
カミーユ達もそうした。とにかく情報が欲しい。
遠くからでもそうだとわかるほど、フードから覗く男の顔は憔悴し切っている。おそらく寝ずで馬を走らせたのだと推測できた。その証拠に軍馬も幾分か足取りが鈍く、口角には白い泡が固まっている。きっと馬の方も体力の限界が近いのだろう。
だがしかしだ。隙はどこにも見出せない。逆にコチラを見透かしているようだ。
まるで、死を宣告にやってきた死神なのではないだろうか——そう三人は感じた。
何度か回頭をする黒馬。
騎乗の黒の戦士。
黒の大剣。
フードから覗いた黒瞳。
——その全ての黒が不吉に思える。
風が強く吹いた。
カミーユは一本に結いたブロンドが揺れるのも気にせず、堂々と不吉な黒を見据えている。向こうもそうだ。それはどうだろう、暫くの間だったのか、僅かな刻だったのか判らない。クロエとキシリアは突然に訪れたカミーユと黒の戦士との緊迫した空気に固唾を飲んだ。
ほんの少しの切っ掛けで、あの黒の戦士は剣を抜き放つだろう。憔悴しきった様子ではあったが、その佇まいから歴戦の戦士であることが推し量れた。それであれば、黒の戦士はどんな些細な危険も放ってはおかないはずだ。憔悴しきっているのであれば尚更——最優先事項であると言っていい。実際のところ、クロエは小さく「ちょっと、まずいかも」とキシリアに溢していた。黒の戦士に心当たりがあるようだった。
もう一度、風が強く吹きつけた。
それに、嘶いた黒馬が何度か回頭すると、黒の戦士は三人を一瞥し南に向かい走り出した。どうやら黒の戦士は三人を脅威だとは思わなかったようだ。すると、張り詰めた緊迫は雪溶けのように消え去り、クロエとキシリアは胸を撫で下ろし顔を見合わせた。
「アラン・フォスター」クロエが誰かの名前を呟いた。
「え? クロエ知っているの?」カミーユが目を丸くしクロエに訊ねた。
「はい。あの姿にあの黒鋼の大剣」
「え!? 黒鋼?」驚いたのはキシリアだった。黒鋼と云えばそれだけで幾つもの畑を買うことができる。それをあんなにも大きな剣に鍛えているのだから、その価値は計り知れない。
「そう。黒鋼。あんな代物ぶら下げてるのはアラン・フォスターしかいない。宵闇旅団の団長アラン」
「え? 宵闇旅団って傭兵の? 解散したんじゃないの?」続いて驚きの声を挙げたのはカミーユだった。クロエはそれに「そうです。本国に解体され、その殆どは国軍に降り、残りは<暁>に流れたと聞きます。多少は在野に下った者が居たとも」と答えた。
「それでアランは?」
「わかりません。でも国軍には流れなかったのは確かですね。あれだけの男が国軍へ徴用されたのであれば噂は直ぐに流れるでしょう」クロエは南へ遠ざかる戦士の背中を凝視しながら、静かにそう答えると言葉を続けた。「おそらくですが、アランが向かっているのはエドラス村だと思います。彼の素性を知りたいなら、村で直接聞きましょう」
エドラス村はベルガルキー国軍を率いる将軍オセ出生の地と知られ、周辺の農村よりも幾分か賑やかな村だ。そして、アラン・フォスターが産まれた故郷でもある。
※ ※ ※
アランの運命が大きく変わったのは十歳の頃だった。
本国東方国境に位置するクルシアス砦を前線としたフォルダール連邦ナルダール王国との戦線——通称〈クルシアス戦線〉で、兵卒であったアランの父は右脚をそっくり失い、軍を退役した。アランの父は——幾許かの報奨金を元本に——それ以来エドラス村で農家を営んだが、お世辞にも上手くいっているとは云えなかった。
そんなアランの父は、ことあるごとに村の英雄である将軍オセのことをアランに熱く語った。父が戦士であること——戦士であったこと。それはまさに将軍オセの存在があるからこそだと。
通例で云えば将軍に就任するのはグスタフの血筋からだ。
だが、類まれなる戦果——実績と本国の後押しもありオセは将軍への道を駆け昇った。アランの父は、それはオセが草原の精霊に見初められ祝福を受けたからだと語り、だからこそ草原の血脈の正当性はアムルダムではなくベルガルキーにあるのだと云った。オセはそれを体現する戦神であり、アランの父はその信徒で今でも信じてやまないとも。自分が今でも草原の戦士である理由——その誇りを捨てない理由はそこにあると、農家を営みながら——そう云った。
アランはそんな父が嫌いだった。
父は妄執に囚われているのだと幼いながらも思ったのだ。
母もそう思い辟易としていたのだろう。軍人としての報奨は農家よりも遥かに良いものだった。母は父の妄執に心のなく頷き、アランの面倒を見れば生活は保証された。だが、片脚を失い妄執だけが取り柄となった父がもたらすものは苦しい生活だけだった。だから母は幼いアランを残し、あっさりと家を出ていってしまった。少なくとも幼かったアランはそう思っていた。大人の事情というものは理解ができないのだから仕方がない。
それからも父は幾度となく、将軍オセの話をすると、そのうちにまた声がかかる。それまでの辛抱だとアランに語って聞かせた。
片脚を失った父は戦士であったとしても、信仰の厚い魔導師でも、学のある魔術師でもない。父が語ることの根拠は草原の血脈のことだけで片脚の戦士に、どれほどの価値があるのか——それに目を向けなかった。つまり、父は現実から目を背け続け、母は現実を捨てた。
アランはそんな両親が嫌いだった。
それから数年後——アランが十五の頃だ——いつものように家で妄執を垂れ流す父の替わりに農作業をしたアランのもとへ〈黒鋼〉を携えた純白の魔導師がやってきた。純白の外套とフードで、すっかり身を隠した魔導師はアランへ「お前の父に、妄執——いや英雄の夢を見せてやる気はないか?」と訊ねると大量の〈黒鋼〉を手渡したのだ。
アランはそれに「これを父に渡せばいいのか?」と——随分と訝しみながら——訊ね返したが、魔導師は「夢を見るのは誰でも構わない」と云い残すと忽然と姿を消してしまった。
——それならば。
アランは——その日のうちに父から逃げ出すよう村を出た。
アランが再びエドラス村に戻ったのは五年後——無敵の傭兵旅団〈宵闇旅団〉の団長としてだった。若き日のアランは随分と危ない橋も渡ったと噂されたが、エドラスの住民には関係なかった。常勝無敗のアランを、将軍オセを継ぐ戦士になると讃え村への凱旋を祝福したのだ。そのうちに将軍オセから声がかかり大英雄になるだろうと。
凱旋の少し前に、残して来た父は流行病で帰らぬ人となっていた。
アランは、直ぐに生家を訪れ、家焼き払うと無縁墓地に埋葬された父を生家のあった土地へ移し墓石を添えた。それが、アランにとってどう云う意味があったのかは、誰にも判らなかった。
だが、アランの凱旋を聞きつけた母親がアランを尋ねて来ても顔すら合わせなかったことを思うと、生家を焼き払ったのは惨めな父への弔いと、ご都合主義な母への復讐であったのかも知れない。
団員の多くはそう思っていた。
ともあれ、傭兵団の拠点をエドラス村に置いたアランは、それからも多くの戦線へ出向き功績を上げた。〈クルシアス戦線〉における砦の奪還。北の軍事大国アークレイリ王国属国ロドリアによる〈灯台砦〉強襲も退けた。そのうちにアランの名声は王都クルロスにも届き国が傭兵団を取り立てるのではないかと囁かれた。そう——将軍オセから直々に〈宵闇旅団〉を戦線へと指名する機会が多くなったのだ。
アランが妻を迎え子をもうけたのもその頃だった。アランは、これまでの人生において初めて幸せを噛み締めたといってよかった。だが、その幸せな時間は、残酷にもそう長くは続かなかった。
〈草原の暁〉が台頭すると、傭兵団の類は軒並み国軍の命によって解体されたのだ。これは、最大勢力であった〈宵闇旅団〉も例外ではない。
本国へ牙を剥く芽を根こそぎ刈り取るのがその目的であった。〈草原の暁〉が掲げた理想はベルガルキー国民の心を打ち、国に縛られない多くの傭兵団は〈草原の暁〉へ合流すると民衆の代弁者となろうとしたのだ。
そんな中〈宵闇旅団〉には特例として国軍への取り立てといった処置が施されたが、それは人数制限の条件付きであった。アランは国軍への配属を望まず、可能な限りの団員を国軍へ取り立てるよう申し出ると、幾許かの金を握らされ在野に下った。その金は、〈草原の暁〉へ関与すること無きようにと国から刺された釘であった。
※ ※ ※
アラン・フォスターとカミーユ・グスタフの奇妙な邂逅の数ヶ月前——エドラス村にアランの姿はあった。
「すまないが、もう一度云ってもらえるか? 精霊への供物がなんだって?」黒髪黒瞳のアランは、村道に寝転がった男の胸ぐらに足を乗せ、そう凄んでいた。
陽が落ちる間際の朱と紺が混じり合った黄昏を見上げることしかできない男はアランに言葉を返せないでいる。それもそのはず。寝転がった男の口へアランは短剣を突っ込みながら訊ねていたのだ。
男の口から溢れる聴こえるのは「ほんなほとひわれえも」と、間違っても舌を切らないよう音を発した何かの意思表示で、もっとも、その音を反芻してみれば「そんなことを云われても」と聞こえる気もする。だがアランにとって、そんな事はどうでも良いことだった。アランは段々と暗くなる空に合わせ、青褪めていく男の顔を真っ直ぐに見下ろすと言葉を続けた。
「お前らが、精霊の名を穢したおかげで俺の人生は——そうだな、詩的に云うなら、クソなもんになっちまったよ。おかげさまで娘は原因不明の病を患って苦しんでいる。お前ら〈草原の暁〉の理想とやらに、これは織り込み済みだったか? でだ。もう一度訊くが、そんな不幸な俺らから、あまつさえ〈サタナキア砦〉の麓のこの村でだ、精霊様へ供物を捧げろ。そう、お前らは云うんだな? ああ——もう、お前だけだったな。で、答えはどうだ?」そうアランは静かに云うと、今度はゆっくりと周囲を見回した。
すっかり村道の向こうは、紺碧の夜空に押された朱色の線が消えようとしている。その日最後の陽の光はもう姿を消すだろう。そんな朱色の線は村道に幾つかの影の塊を浮き彫りにしていた。
それは幾つかの血溜まりに転がった、頭のない骸だった。周辺に見える小さな黒い塊は——どれが誰のかは判らないが、跳ねられた頭そのものだろう。
アランは一通り、骸と頭の数を数えたのか「五人か」と溢し、再び足元の男へ目を落とすと続けた。「お前で六人か。随分と舐められたもんだな」
アランの言葉を男は最後まで耳にすることはなかった。言葉の途中でアランは、男の口へ突っ込んだ短剣を最後まで押し込んだのだ。男は「グエッ」と鳴くように音を漏らし、ゆっくりと血溜まりの中へ沈んだ——。
たったいま絶命をした男は〈草原の暁〉を名乗った一人だった。
彼らは、その日の夕方にエドラス村へやってくると「灯台砦を背信者から取り戻す」と村長宅へ押しかけ「精霊様への供物を準備しろ」と迫ったのだ。丁度そこに居合わせた村長の息子は、慌てて家を飛び出すとアランに助けを求めた。
エドラス村は、この少し前に〈サタナキア砦〉から徴収を受けたばかりで、蓄えはほとんどなかった。そこへ大胆不敵にも〈草原の暁〉がやってきたのだ。そっくりそのまま事情を話せば背信者の村と罵られ、村長は命を奪われかねない。
だから、村長の息子は必死にアランに縋った。
歴戦の戦士——英雄アランであれば、なんとかしてくれるだろうと。
だが、これにアランの妻は「酷い話だけれど関わらないでくれ」とアランに云うと引き留めたのだ。
アランの妻は、ことあるごとに〈黒鋼〉を売って王都へ行こうと口にし、そうすれば娘を高明な魔導師に診てもらえると説得を試みていた。そう——アランは傭兵団を解散した後も、装備品を売却することなく納屋の奥へしまいこんでいたのだ。アランの妻は、そうするアランへ過去の栄光にではなく、家族に目を向けてくれと懇願したのだ。
だからだろう。村長の息子が必死に救いを求めても、アランの妻は〈草原の暁〉に目を付けられるようなことはしないでくれと、暗に云ったのだ。そうなってしまえば、目を付けられてしまえば、たとえ〈黒鋼〉を売ったとしても、得た金はゴロツキ兵団の格好の餌になってしまう。
だが、アランはそれを聞き入れなかった。
村長の息子が跪き、救いを懇願する姿を無碍にすることができなかった。それが、どのような心境だったのかはアラン自身にも判らないが放って置くことができなかったのだ。
そしてアランは妻の制止も聞かず、村長の息子と家を出ていくと、〈草原の暁〉の面々を村の外へ連れ出し——息の根を止めた。
話を聞き入れるような輩では——もうないことをアランも承知をしていた。それにだ——砦へ突き出すことも考えたが、どうも砦の様子もおかしい。下手に突き出せば関与を疑われる可能性もあった。少しでも疑われてしまえば、国軍に身を寄せた仲間たちの身に何が起きてもおかしくはない。
〈草原の暁〉へ関与することなかれ——これが、傭兵団の仲間の生活を保証する条件だからだ。
——アランは輩の息の根を止めると、散らばった骸から幾ばくかの金銭を剥ぎ取り、替わりに石を詰め込むと骸を村の外れの川へ流した。丁度、川の流れは激しかったし村の反対方向へ流れてくれている。
「クソみてえな話になってきたな」アランは最後の骸を川に投げ込むと、ひとりごち暗くなった村道を家に向かって歩き出した。
※ ※ ※
アランが家に戻ったのは夜半近かった。
「あなた、その格好……」戻ってきたアランの血塗れの姿に絶句した妻は口に手をあて、かろうじてその言葉を口から絞り出した。
次第にアランの妻の瞳が濡れてきた。その瞳が語っているのは、アランが無事だったことへの安堵ではない。妻の言葉を聞き入れず、手にかけてはならない物へ手をかけたことへの怒りの涙だろう。
家の奥から、か細い咳こむ声が聞こえてきた。
アランの娘はもう寝ているのだろう。だが、こうやって寝ていても小さく咳き込み、時には血の混ざった痰を吐き出し、それに驚くと泣きながら起きてくることがある。アランは娘の小さな咳の音を耳にすると目を瞑り「大丈夫なのか?」と妻に訊ねた。
しかし、答えは返ってこなかった。
アランは顔をあげ妻を一瞥したが、視線が交わることはなかった。妻は娘の様子を見に静かに家の奥へ歩いていく途中だった。
その姿を黙って見たアランは、妻の姿が廊下の奥へ消えるのを見届けると無言で家を出て、離れの納屋へ足を運んだ。
※ ※ ※
アランは血塗れの服を納屋で脱ぎ捨て、干してあった厚手の丸首のシャツへ袖を通すと納屋の奥からゴソゴソと何かを引っ張り出してきた。
黒の鎖帷子、黒の皮の胸当て、黒のサーコート、それに剣帯。その他にも〈宵闇旅団〉の団長であった頃の装備を引っ張り出すと、黙々と身に付け始めた。剣帯には一振りの剣を納めたが腰に巻くことはなく、もう一組の変わった形をした剣帯を背に括りつけ、そして、そこへ〈黒鋼の両手剣〉を引っ掛けると納屋を後にした。
「どこへ行くつもりなの?」
納屋の外で声をかけてきたのは、アランの妻であった。
娘の咳は、酷い発作による物ではなかった。
だからアランの妻は直ぐに戻ったが、そこにアランの姿はなかった。替わりに、納屋の方から物音がするのに気が付くと悪い予感に駆られ、直ぐ様に納屋へやってきたのだ。そして、嫌な予感は的中した。アランの妻が目にしたのは、かつて英雄と持て囃された夫の姿だった。過日の栄光。それを身にまといアランは何をしたいと云うのだろうか。アランの妻の声は、どこまでも暗く深い疑念の音を孕んでいた。
「セントバで〈白銀の薬師〉から薬を調達してくる」アランは淡々とそう答えた。
「酒場の噂話を鵜呑みにして?」相変わらずアランの妻の声は暗く深い。
「いや、酒場で話したのは俺に〈黒鋼〉を託してくれた魔導師だ——そのはずだ。だから——」アランはそう答えながら、妻と目を合わせず納屋横の厩舎へ足を運ぼうとした。
アランの妻が云いたいことは判っている。なんの確証もない。確かなのは、今すぐにでも装備を脱ぎ捨て、売り払い村を出れば、まだ安全が保証されると云うことだ。
「仮にね——そうだったとしても、なんでまた十年近くも経ってから、その魔導師はこの村へやってきたの? あなたに何をさせたいの?」いよいよアランの妻の声音は聞くに堪え兼ねるほどの辛辣さを孕んだ。いっそのこと他人であれば、黙ってこの場を去るか、相手が男であれば首を掻き斬ってもよかった。だが、相手は妻だ。
アランは肩越しに妻を一瞥すると答えた。「あの魔導師は——いや、なんでもない——とにかくだ。〈白銀の薬師〉の話はよく耳にする。滅多に人に会うこともないそうだが、あの魔導師が都合をつけてくれる」アランの答えは頑なだった。
実のところ、アランは家族と自身の望みを天秤にかけている自覚はあった。
過日にアランの父が口にしたように、いつかは運気が回ってくると、空に漂う雲のように掴むことのできない希望を天秤の片側に乗せたのだ。しかしだ——アランの父は致命的に戦士としての資質を失ったがアランは違う。
娘の病は〈白銀の薬師〉の手で祓い、アランは〈草原の暁〉を壊滅へ追い込めば良い。その道筋も、あの魔導師が教えてくれた。ここ最近、砦が騒がしいのは、どうやら将軍オセがやってくるからだと。それは好機だろうとも魔導師は云った。アランであれば、オセは喜んで謁見するだろと。そして、上手く運べばアランは〈草原の暁〉を壊滅する英雄になれる。そう魔導師は囁いたのだ。
「なんでその魔導師は——なんの得があって、あなたに肩入れをするの?」アランの妻も〈白銀の薬師〉の噂は知っていた。だから、アランの答えにいよいよ呆れ返った様子を見せ、そう訊き返していた。
国のお偉方でさえ〈白銀の薬師〉に診てもらえる機会は少ないと聞く。それであるのに——英雄だと讃えられたアランではあるが——隣国の片田舎の村民のために、何かをしてれくるとは思えない。
ありありとアランの妻の心の声はアランの頭に染み渡ってきた。
彼女はもう、本音を言葉の裏に隠す気はないのだ。ここから、アランがどう答えたとしても——どうだろうか、長くは続かないだろう。互いに不信感を抱き、ついにそれは娘にも悟られる。そうなれば——。アランは、そこで考えることをやめた。いずれにしても、今やらなければならない事は一つだ。
「いいから——待っていてくれ」アランはそう答えると厩舎へ向かった。




