ギャスパル・ランドウォーカーと二つの約束
ある日の夜——貿易都市セントバ郊外。
ギャスパル・ランドウォーカーは、とある商人貴族の洋館へ忍び込んでいた。正確には裏門をするりと掻い潜り、令夫人と娘が乗った馬車へ無断で乗り込んだ所である。まるで野盗か強盗のようにだ。これは、ギャスパルの流儀に反する方法であったが、のっぴきならない理由から、そうせざるを得なかったのだ。
洋館へ忍び込み、とある計画のための資金を調達——盗み出す。これがそもそもの理由であった。その資金とは、借金の形に取られた妹の身請け金であり、セントバから妹と共に逃げ出すための路銀である。これは誰が聞いても随分と身勝手な話だと、ギャスパルも思っている。だが、こと盗みに関しては盗賊の性分であり仕方がない。的になる方の運が悪かったのだと、ギャスパルは毎度そう結論づけている。それだから、運悪く盗まれる輩には、出来るだけ気持ちよく盗まれてもらおうと念入りに情報を集め——今回は、わざわざ下働きとして潜入もした——用意周到に計画も立てるのだ。
だが、のっぴきならない事態が起きた。
ギャスパルと刻を同じくして、洋館へ押し入った輩が居たのだ。それも、随分と手荒に正門から押し入ったようで、中庭が騒然とすると直ぐに剣戟の音が鳴り響いた。
これに驚いたギャスパルは、この夜のために立てた計画を、全て投げ捨てる羽目となった。つまり——のっぴきならない事態とは、幾つか用意した不測の事態用の計画には〈凄腕の剣術士が正門から殴り込む〉を想定したものは準備していなかったと云うことを意味している。だからギャスパルは、正門から押し入った輩を呪いながら——御者の頸を掻き斬り——乱暴に車内へ押し入ると、今は令夫人の白く細い首へ凶刃を当てているという訳だ。
※ ※ ※
「難しい話じゃあないだろ。命まで取るとは云ってねえんだぜ」
そう云って、宝物庫の鍵を渡せと令夫人に迫ったギャスパルの声は、口元を黒い厚手の布で覆っているから、随分とくぐもって聴こえた。それだけでも十分にこの場では恐怖の対象である。隣では娘が猿轡で口を塞がれ、声にならない声で悲鳴を挙げ失禁をしているのだから尚更だ。もっとも、短剣の刃を首に当てられ、鋭い狼のような双眸で見下ろされた令夫人にとってはギャスパルの存在そのものが恐怖であり、彼女の死神であると云って良い。だから、やっと聞き取れた「命まで取るとは云ってない」という安堵の片道手形へ懸命にかぶりを上下に振るったのだ。
そして、車内に転がった小袋を目で指して答えた。それが、あなたの望む物ですと。令夫人も娘と同じく猿轡されているが、その視線はしっかりとしていたから、ギャスパルはその意図を直ぐに理解できた。
※ ※ ※
「悪いな。でもまあ——お前らの商売も大概だろ。お互い様、いや、持ちつ持たれつってやつか。っとこれでいいのか?」 令夫人が目で指し示した小袋の中を漁ったギャスパルは、そう云いながら随分と古びた頼りない鍵を摘みあげた。
その鍵の頼りなさは一見するとそうなのだが、よく見れば鍵山が複雑で複製は不可能と云って良いだろろう。そんな厳重な鍵であれば、きっとこれが目的の物だとギャスパルは踏んだのだ。令夫人が必死にかぶりを縦に振るうのを強めたのを見れば、それは明らかであった。だがどうだろう。それで納得してはギャスパルの流儀に反するとでも云うのか「嘘をついても得はねえぜ。これでいいんだな?」と訊ねると念を押した。
令夫人は、それに先程よりも顔を真っ赤にかぶりを激しく振るって答えている。この期に及んで嘘は吐かないだろう。そう思うと、ギャスパルは「よし」と呟き——鍵を手の中でくるりと回すと——黒ズボンの 衣嚢へ滑りこませた。
「おお、そうだ。一つ忠告しておくぜ。宝物庫の鍵なんて持ち歩いたら危ねえからな。次からは気をつけろよ」これは去り際のギャスパルなりの最後の念押しの言葉だった。
※ ※ ※
身体を低く馬車からヒラリと飛び降りたギャスパルは中庭の騒動を一瞥しながら「あれじゃあ、ひと堪りもねえな。くわばらくわばら」と溢し影に溶け込むと、洋館の裏口へと急いだ。
中庭の騒動は、一方的な虐殺劇の舞台であった。押し入ったのは剣術士のようで、両手剣で血風を描きゴロツキの頸を刎ねている。洋館周辺はそんな阿鼻叫喚の騒ぎで満たされている。それであれば忍び込むのは容易だろう。ギャスパルは、それであれば手順は狂ったが概ね計画通りにことが進められると思ったのだ。
そして、その見立ては正しかった。裏口の警備もすべて中庭に駆り出されたようで取り付くのに、さほど時間はかからなかった。
腰袋から二本の錠破りを取り出したギャスパルは目的の裏口を破ると、外の喧騒とは打って変わって物静かな厨房へと身体を滑り込ませた。当たり前だが随分と薄暗い。遠くで剣戟の音が響いている。恐らくあの剣術士がホールに踊り込んだのだろう。厨房の外では何人かの男女が声を荒げ「盗賊だ!」と叫んでいた。
「あれが盗賊? 冗談じゃねえ。ただの狂った人斬りだろ」ギャスパルは外から聞こえた声にそう苦笑した。人斬りも、盗賊も同じような者なのか? いいや、紳士な盗賊は必要なければ斬りはしねえよ——と、ギャスパルは胸中へ付け加えると、馴れた足取りで厨房の扉へ取り付いた。
肝心の宝物庫は館の主人クラウスの寝室から辿り着ける仕組だ。寝室の隠し扉をくぐり見取り図の上では不自然な空間に地下までの階段が準備されている筈だ。そこまでの間に点検口はない。そんな特殊な作りである。
かつてギャスパルは下男を装い館で下調べをした。その時の記憶が役に立ったというわけだ。その際に見掛けた、手を出そうとしたアーティファクトのリュートは南に売り飛ばされ今ではどこぞの白の吟遊詩人の手にあるそうだが、ギャスパルには関係ない。
※ ※ ※
混乱に乗じた大盗賊は、卓越された抜き足で厨房を出ると、二階への大階段を踊り場まで駆け昇った。反対側の階段には押し入った剣術士の姿が見えた。全身黒の装備で両手剣を担いでいる。ここまでの疲労があるのか、剣術士の足取りは重そうだった。これであれば、気が付かれる事はないだろう。ギャスパルは一気に抜き足で踊り場までいくと、彫像の物陰に隠れ様子を覗き動向を見守った。
すると、反対の通路から一人の少女が剣を携え歩く姿が目に入った——恐らく先ほど馬車で縛った少女の妹だ。直ぐそこの階段には、黒の剣術士がゆっくりと足を運んでいる。ギャスパルは、この状況に、そこはかとなく胸をざわつかせ双方へ交互に視線を送った。このままでは少女と剣術士は鉢合わせだ。その先のことは容易に想像ができた。
ギャスパルは壁に後頭部を押し付け天井を仰ぎ見た。
妹の顔がよぎり、このままで良いのかと自問自答をする。しかし、あの二人が鉢合わせるまで猶予はない。
——俺は人斬りでも鬼でもない。盗賊だ。そう紳士な盗賊だ。用があるのは宝物だけで他人の命がどうなったって構いやしない——その筈だった。
※ ※ ※
その少女は何かに毒づくと、飾られた鎧騎士から剣を奪い大階段へと向かっていた。綺麗にすかれたブロンドが少しばかり鬱陶しいのだろう。肩にかかったそれを手慣れた手つきで振り払い剣を握り直した。そして、耳をそばたて大階段から聴こえてくる悲鳴や怒号へ注意を払いゆっくりと慎重に歩いた。
するとどうだろう。反対の通路に飾られた彫像から男の顔が覗いた。どこかで見たことのある顔だった。それに少女は危ないから隠れていろと手を振るのだが、向こうの男は身体を顕に少女へ戻れと手を振ったのだ。しかし、少女は怪訝な表情をすると首を傾げ、そのまま大階段へ差し掛かったのだった。
その時だった。
大階段から黒塊が躍り出ると少女の胸に冷たく熱いものを埋めこんだ。
それは想像を絶する黒鋼の大剣。少女はどんどんと寒さを感じ身を震わせた。大量に噴き出た血が呼び込んだ凍てつく寒さは、痛みを置き去りにすると、今度は身体の内を燃やすような熱さを呼び込んだ——自分に剣を埋め込んだ黒の剣術士がゆっくりと刃を抜き始めたのだ。
いつの間にか、背を廊下につけた少女の周囲には血が溢れ口角から大量の血が、溢れたのが判った。その様子に黒の剣術士は随分と皺のある声で「クソ!」と叫ぶと、事も有ろうに「なんで剣なんか持っていたんだ。お前の親父はどうした!」と訊ねてきた。
視界が霞んでゆく。
そんなことを云われてもわからない。少女はぼんやりと目を瞬かせた。優しかったのかどうかはわからないが、戦士が頬に触れる手の感触も遠くなってきた。
もう一度目を瞬かせた。
何度目かの瞬きのあと、剣術士の背後に忍び寄った影を少女は見たように思った。恐らく引き返せと合図を送ってきた先程の男だろう。嗚呼、そうか。彼は少し前に館で働いていた下男だ。きっと仇を取ろうと忍び寄ったのだ。何もかも麻痺をした少女は最後にそれを想うと、絞り出せぬまでも青ざめた唇をかすかに動かした。
駄目。逃げて——と。だが、少女の口角から血が泡のように溢れ落ち、それは言葉にはならなかった。
※ ※ ※
ギャスパルは黒の剣術士が少女に両手剣を突き立てるのを見ると、頭の中が真っ白になった。気が付けば身体を低く、足音も、気配も消し去り短剣を逆手に黒の剣術士の背後へ立ったのだ。大盗賊の二つ名は、伊達ではない。これは魔導でも、魔術でもない。何度も死線を潜り抜けてきたギャスパルが編み出した人の業である。
——随分と焼きが回ったもんだ。
ギャスパルは少女の頬を撫で付ける剣術士の背中に視線を落とし心に呟いた。少女の仇でも取ろうと云うのか? それとも盗賊の矜持に反するからか? わからない。だが、こいつ——狂った黒の剣術士——の命は俺が預かっている。その想いだけでギャスパルは逆手に持った短剣を水平に構え身をかがめようとした、その時だった。
ぼんやりと宙を眺めた少女と目があった。
そして少女は唇を動かし、声にならない声でこう云った——駄目。逃げて——と。
その刹那、何か不穏な空気が首をもたげたように感じた大盗賊は瞬時に音もなく後方へ飛び退き、そして踊り場から飛び降りた。突然踊り場から響き始めた轟音に目を丸くしたギャスパルは「なんだあいつ、本気で狂いやがったか」と吐き捨てた。
※ ※ ※
「なんで逃げなかったんだ」
黒の戦士がひとしきり暴れ惨憺たる光景となった踊り場へギャスパルは戻ると、既に息のない少女の骸に語りかけた。せめてもの弔いにとでも思ったのだろう。
すっかり蝋人形のように青ざめた少女は瞼を閉じ答えることはなかったが、ギャスパルはそれでも「借りができちまったな。助かったぜ」と、静かにかぶりを垂れた。
「お前が望むか知らねえが、いいぜ、あいつの頸は俺が取ってやる。俺のこの胸糞もそれで晴れるってもんだしな。嗚呼、そうだお前の姉だか妹に怖い想いをさせちまった。あとで謝っといてくれ」
ギャスパルはそう云うと、黒の戦士が走り去った方へと駆け出し館の主クラウスの部屋へと急いだ。敵討ちは金を頂戴してから。全くを持って盗賊らしい矜持である。
※ ※ ※
洋館潜入から数刻後——大貿易都市セントバ・色街。
そこは何処かからか艶かしい女の声が聞こえる薄暗い一室だった。
部屋にたった一つある角灯が室内を照らすのだが、光量が絞られており余計に薄暗さを感じる。部屋を満たす甘い香りは大きく息を吸うとむせ返ってしまいそうだ。きっと香を炊いた後なのだろう。しかし甘さの中に饐えた匂いが見え隠れする。むせ返るのは、むしろこちらが原因なのかもしれない。
部屋の四分の一ほどもある寝台は大人が二人、寝転がれるほど大きく、純白の絹の敷布で整えられていた。
寝台に横たわったのはシーツに身を包んだ栗毛の女と全裸の恰幅の良い中年男だった。女は膝を丸め肩を震わせ壁際へ身を寄せている。男の方はと云えば大の字になり目を見開くと天井を凝視していた。男の目は恐怖に歪んでいるように見えるが、ただの一言も発しない。よく見れば純白の敷布を真っ赤に染め上げ絶命をしているようだ。その横で女は、か細い声で「助けて兄さん、助けて兄さん」と気狂いのように連呼していたのが判った。
ギャスパル・ランドウォーカーはその光景を見下ろしていた。
そして寝台に腰を下ろすと、寝台の外へ顔をゆっくりと向けた。床には痩せこけた男が寝転んでいた。
ギャスパルは男を一瞥し何度か器用に短剣をくるりと回しながら何かを吟味しているようだった。無言の時間が流れた。男は何度か起きあがろうとするのだが、ギャスパルの脚に阻まれ再び無様に背を床にした。
ギャスパルはその無様な男を鋭く睨み静かに口を開いた。「ガストン。明日の晩までは客を取らせねえって約束だったよな。一体全体、これはどういうことなんだ。納得のいく説明はできるんだろうな」
ガストンと呼ばれた男は身体を起こすと「ああ」と顎をさすり、ギャスパルに目をやった。鋭い目だ。恐らくギャスパルと同業か、それに似た生業の者なのだろう。
「クロンデイルは、お前の妹が形に取られたってのを何処かで聞きつけてな。そりゃあ法外な金で買うってやって来たんだ。いいかギャスパル、この一晩の稼ぎでお前の借金は帳消しだったんだぜ? ソフィもお前もそれで自由だったんだ。ソフィもそれを承知した。何もむげに娼館に放り込んだんじゃねえんだ」ガストンは、ヘラヘラとそう答えた。
ギャスパルはガストンのどこか嘲笑めいた口調に片眉をあげ、目にも留まらぬ早さで再び蹴り倒すと馬乗りになった。そして胸ぐらを掴み、顔を引き寄せ「んなこたあ聞いてねえんだ」と短剣を口に押しこみ続けた。「約束は約束だろ。俺達は信用が商売の種。そうだろう? お前ら人買いは違うとでもいうのか? そうじゃないだろガストン。俺はお前を信じていたぜ。でもお前はどうだ。クロンデイルの話をソフィにするのは明日の晩でも良かっただろ」
短剣を押し込まれたガストンは「んー、んー」とギャスパルの腕を叩き、今にも喉奥に切っ先が届きそうなのを勘弁してくれと訴えた。しかし自分の腕を叩く手に目を落とした大盗賊は「駄目だなガストン。納得がいかねえ」と、人買いの目と鼻の先で小さく囁いたのだ。
※ ※ ※
妹のソフィは同じ腹から産まれた妹だと思えないほどに美しかった。
腹違いなのかと云えばそうではない。こそこそと娼婦の真似事をした母親はろくに家に戻らない父親をよそに、堂々と家で客を取っていたのだから種が違うということはあるのだろう。だがしかし、そんなことはギャスパルにとってはどうでも良かった。
兎に角だ——ソフィが産まれる場を目の当たりにすると稲妻に打たれたように使命感を抱いた。この命を粗末にしてはならないと。だから、家に居ない父、相変わらず家で客を取る母、その代わりに妹の世話をした。ギャスパルにとって腕に抱いた小さな命は、かけがえのない何かだった。
ある日、父親がどこぞの戦場で命を落としたと傭兵仲間が遺品を届けに来た。母親はそれを受け取ると気が狂ったように泣き叫び、その日の夜には姿をくらましてしまった。客のところへ転がり込んだのか、どこぞで野垂れ死にしたのかは判らない。
それからは住む家もなくしセントバの裏路地へ身を隠した。生きる為になんでもした。盗みでも、殺しでも、なんでもだ。
そして言い訳をした。
手を汚すのはソフィの為だと。だからこれは許されるのだと。
そのうちに口利きもあり郊外の空き家を借りることができた。
しばらくは真っ当な生活が送ることができた。しかしだ、根を下ろせばなんとやら。報復のため家を襲撃されることも、ソフィを狙った人攫いが彷徨くこともあった。だからギャスパルは近所のゴロツキを掻き集め徒党を組んだ。遂には大盗賊とまで謳われるようになり、そして、堕ちた。
やはり言い訳をした。
これはソフィの為だったから仕方がないと。
※ ※ ※
「なあガストン。俺はさソフィをどうしてやれば良かったんだろうな。結局こんなにボロボロになっちまってよ。見ろよ。あの変態野郎、ソフィの爪を剥いでいやがる。悲鳴を聞きながら竿をおったてて、初物に捻じ込んだんだ....イカれてるぜ。ところでだ、ガストン。約束の金は準備したんだぜ。借りは借りだお前に渡しておくぜ」
ゆっくりと生暖かい感触が手をつたい流れてゆく。
身体を痙攣させたガストンの口からゆっくりと短剣を抜いたギャスパルは、腰袋から割と大きめな皮袋を取り出すと、そう云って血が溢れ出る口へ皮袋を押し込んだ。そして丁寧にガストンの後頭部を抱えゆっくりと寝かすと「ああ、逝く前に相談すりゃ良かったな——気が利かなくて悪かったな」と唾を吐きかけた。
「兄さん……兄さん……」
どのあたりから、それを見ていたのだろうか。
シーツに包まり震えたソフィがいつの間にか身体を起こしギャスパルを見つめていたのだ。そして、小さく震えた声で兄の名を呼ぶのだが、大の字に寝転がり血を流したクロンデイルの骸に気が付くと「ヒッ!」と壁際で身体を丸めてしまった。
「ソフィ、大丈夫か? 俺だ——わかるか?」ギャスパルはクロンデイルの骸を力任せに引っ張り、寝台から引きずり落とすとソフィの頬へ手を触れようとした。
しかし——。
暗がりだからなのか、それともすっかり痣だらけにした顔を触れられるのを拒んだのかソフィは兄の手を打ち払い「来ないで!」と叫んだ。身体を大きく震わせたのは、傷だらけの裸体を晒したからというわけではなく、混乱しことごとく恐怖に心を支配されたからだ。その手が触れれば再び恐怖が降りかかる。苦痛が舞い降りてくる。そのように感じたのだろう。
「ソフィ。大丈夫だ。もう大丈夫だ。俺だギャスだ。ここはもうやばい、逃げよう」できるだけ、知りうる限り優しく——ギャスパルは声をかけ手を差し伸べた。血に塗れた手を伸ばし、傷だらけのか細く白い手を取ろうとした。それは滑稽に映っただろう。何も大丈夫ではない。大丈夫な手はきっと血に塗れてはいないだろう。
ソフィは差し出された血塗れへ打ち震えた茶色の瞳を落とした。そして口を震わせカチカチと歯を鳴らすと「触らないで」と行く先のない壁へ背を押し付けたのだ。
「ソフィ。手を取ってくれ。もう何も起きやしない。二人でどこか遠くへ行こう。やり直すんだ。俺はもう足を洗うぜ。金ならしこたま残してある。だから——」ギャスパルは妹が寄越した拒絶に頭を殴られたように顔を落とし、そう懇願した。
※ ※ ※
ソフィはギャスパルの悲嘆に暮れた言葉で、気を取り直したのか顔をあげ「に、兄さん? ギャスパル兄さん?」と、兄の手を取ろうとゆっくりと手を伸ばしたのだ。五指の爪の半分は剥がされ、やはり血に塗れた手がギャスパルの手に触れようとした。
確かにその動きは緩慢であった。
それは仕方の無いことだ。
だが、動きが全く止まってしまう道理はないはずだった。
しかし全ての動きは止まった。
ソフィは蝋人形のようにその場に固まった。
角灯の中で揺らいだ小さな炎も止まった。
つい先程まで聞こえた商売女の喘ぎ声も止まった。
何もかもが止まったのだ。
ギャスパルはソフィに向けた優しい眼差しをしまいこみ、静かに鋭く研ぎ澄まされた眼光を取り出した。人の心を見透かし裏から静かに突き刺すような眼。それがもたらすものは心を読むといった類の業ではない。何処か客観的で、幾つもの心の型を人に当てはめ、捕らえるのだ。ギャスパルはそうやって、まるで預言者のように振る舞い人を堕とす。時には甘い言葉で、時には辛辣な言葉で、時には鼓舞するような力強い言葉で、人が求める言葉を吐き掌握する。
「おい。いつからそこに突っ立ていやがる」
「ギャスパル・ランドウォーカー。宝を運ぶ者よ。良い勘をしているな。して、いつからとな? そうだな。少なくともお前の父が命を落とした日のことは覚えておるよ」
しゃがれた忌々しい声がギャスパルの声に応えた。
忌々しい声は、背筋を撫で上げるような気味の悪い声でもあった。気味の悪さは突如としてギャスパルの真後ろから聞こえたことからも伺い知れた。この大盗賊が背後を取られることはない。考えられることは一つ。そこに忽然と姿を現したということだ。であれば背後に立つの者は魔を操る者だろう。魔導師か魔術師のいずれかだ。いよいよ気味の悪さが際立った。
「親父のことを知っているってことは、親父の傭兵仲間ってことか?」
「いいや、違うな。違うぞランドウォーカー。儂をそのような瑣末な括りで測っておると痛い目にあうぞ。儂の名はアイザック・バーグ。白銀の主の獣だ」
気がつけば、しゃがれ声は耳元で囁かれたものだから、ギャスパルは思わず寝台から飛び降りた。見ればそこには純白の外套に身を包んだ男が佇み、目深に被ったフードから怪しげな赤黒い蛇目を覗かせた。狂おしく輝く赤黒は周囲の刻は止まっているようであるのに、爛々と揺らめいた。ギャスパルはそれに戦慄し、ゆらりと短剣を逆手に構えた。
ギャスパルが感じた戦慄。純白の男から、ひしひしと伝わる気魄とでも云うのか、気の弱い者であれば、きっとその場へ平伏をしてしまうだろう。そして隙はなく手を出せば、何かしらかの方法で屠られる。アイザックと名乗った男は、ギャスパルが戦慄した様子に満足をしたのか「そう構えるな盗賊」と、カサカサ笑うと続けた。「どうだランドウォーカー。お前は、妹へやり直そうと云ったな。本当にやり直せるとでも思っているのか? これだけ最愛の妹を傷を負わせたにも関わらず、あまつさえ綺麗さっぱりと? 本気でそう思うのか?」
アイザックは両の五指の腹を合わせ忙しなく動かすと楽しげに部屋を歩き回った。
転げたガストンの骸を蹴飛ばし、次にはクロンデイルの骸を軽々しく持ち上げると部屋の壁へ投げ飛ばした。そしてカサカサとやはり笑い声を挙げると更に続けた。「こいつらの命を奪ったところで、お前の妹の記憶は消えないというのにか? それに。お前はお前の存在意義を確かめるため、妹の人生を縛ったのだろ? 妹のために手を汚した? 妹のために人を騙しても良かったのか? 妹のために身を粉にしたのだから傍で微笑んでいろと? 虫唾の走る思いだな——」
アイザックの言葉が終わる間際、部屋中に鈍い金属音が轟いた。
その言葉が図星を突いたのか、すっかり形相を変えたギャスパルは豹の速さで床を蹴りアイザックに襲いかかっていた。しかしその一刀は、いつの間にかアイザックの手にあった〈黒鋼の剣〉にいなされたのだ。
それに「チッ」と舌打ちしたギャスパルは逆手の短剣ごと身体を捻りこみアイザックの腹を目がけ次の一刀を放ったが、それも見事にいなされた。
そこからは、人の業がここまで昇華されるものであるのかと目を見張る神速の中で二人は刃を撃ち合ったのだ。生まれる火花と鳴り響く斬撃の音だけが部屋を支配した。火花は刃の軌跡を追いかけ斬撃音はその光景の裏拍子を担った。
「儂らと源流を共にするとは云え、人の業でこの高みに至ったか。しかし、なんたる傲慢だ。その神速で神に手を伸ばそうとでも云うのか、この盗賊風情が」そう云ったアイザックの表情は相変わらずであったが、ギャスパルはそろそろ四肢の持久力に限界を覚え苦悶した。そしてアイザックの言葉が終わるやいなや、脇腹に強烈な打撃をもらった大盗賊は身体をくの字に折り壁へ激突をした。
アイザックは壁にもたれたギャスパルの眼前へゆらりと立つと〈黒鋼〉を振り上げ、右太腿へ突き立てた。ギャスパルが苦痛の叫びが挙げると、アイザックはそれに「おうおう——よく鳴く猿だな」と更に〈黒鋼〉を捻り「これで少しは音程が変わるのか? どうだ?」と鋭く見下ろした。
更に苦痛の叫びが響いた。
※ ※ ※
「ランドウォーカー」アイザックは外套の裾を払いしゃがみこむと、苦悶に歪めたギャスパルの顔を骨張った指で持ち上げた。
「その傲慢に免じてお前の命は救ってやろう。これで貸し一つだ。だが儂も傲慢ゆえにその貸しは瑣末なものだと見栄を張りたくもなる。これで儂とお前は友だ。ん? 違うか? そうだろう? 価値を同じくする友だ。兄弟と云っても差し支えないな。それでだ、兄弟であるお前に一つ有益な情報を与えてやろう。お前の妹の記憶を帳消しにするアーティファクトが存在する。だがな、それは強欲な屍鬼の王の手中にあるのだ」
太腿に走る激痛へ顔を歪めたギャスパルはアイザックが滔々語る言葉のほとんどが頭に入って来てはいなかった。しかしアイザックが口にした「記憶を帳消しにするアーティファクト」が耳に入ると片目をあけ「どうしろって云うんだ」と声を震わせた。
アイザックの云うことが本当なのであれば、妹の心の傷をなかったことに出来るやもしれない。だがそれが疑わしいことだと云うことも頭では理解をしている。それでもこのまま話を流してしまえば十中八九、ギャスパルは命を奪われるだろう。妹も同じだ。
「嗚呼、友よ。信じてくれるか。ならば儂からの頼みは一つだ。サタナキア砦に向かい、アーティファクトはお前の手中に収め妹を救ってやってくれ。ああ、そうだ——サタナキアに屍鬼の王の姿はある。なあに心配する必要はない。お前の他に四人の英雄がサタナキアへ向かう。それに合流するが良い。それで頼みというのはここからだ——」
アイザックはカサカサと再び笑うとギャスパルの耳元へ顔を寄せ何かを囁いた。
それにギャスパルは「わかった」と短く答えると「ソフィはどうなる?」とアイザックに訊ねた。眼前の男を丸々と信用をしたわけではない。しかし、いずれにせよソフィの安全は確保しなければならない。ギャスパルは未だ寝台の上で手を伸ばしたままのソフィに目をやった。
「心配するな兄弟よ。儂が安全なところへ匿ってやる」アイザックは両の五指を合わせ、またぞろ忙しなく動かすと「心配ならば共にメルクルス教会向かうぞ。そこで妹を匿う故にな」と不気味な笑みを浮かべた。




