*8 深く青く染まり始める視界
文化祭が終わり、受験モードに入りはしたものの、生活はいつもの雰囲気を取り戻しつつある。高校生活最後のイベントの余韻を引きずる間もなく受験モードに入るけれど、少しだけ余波を受けていることもある。
「森藤、パス!」
「おう、こっちこっち!」
文化祭実行委員の役目を終え、後夜祭で労われたのをきっかけにしてなのか、あれ以降なんとなくクラスのみんなが、前より話しかけてくれるようになった気がするのだ。現に体育の時間であるいまも、ごく当たり前のようにサッカーでのパスをもらった。
山なりに弧を描いて僕の許に届いたボールを胸で受け、そのまま足許へ転がしてドリブルを始める。あまりうまい方ではないけれど、それでも僕にボールを託してくれたのは嬉しい。
ゴールまで数メートル、という距離で受けたボールを、そのままドリブルしながらキーパーの待ち受けるそこへ向かって走っていく。晩秋の陽射しに青い視界が薄くきらめいている。
薄くきらめく先に、渋川が両手を広げ、腰を低くして構えている。今日は彼がゴールキーパーなのだ。
「来い、碧! 止めてやるからな」
敵チームであるはずなのに、どこか楽しげににこにこしながら煽ってくる渋川に、つい、笑いそうになる。味方チームのみんなは、僕を急かすように行け行けと急き立てるのだけれど、彼の笑みを見ていると不思議と心が落ち着いてくる。
だからなのか、僕はにやりと片頬をあげて答えた。
「止めてみなよ、渋か……」
そう言いながらシュートをしようと足を振り上げようとしたその時、突然、胸が、心臓がぎゅっとつかまれたように強い痛みに襲われ、息が止まったかと思った。
痛い、苦しい……何が、起きたって言うんだろう……自分でも状況が把握できず、どんどん不安と焦りで冷静さを失っていく。胸を抑えその場で足が止まる。
呼吸さえままならない痛みに僕は駆けていた脚を止め、その場にうずくまって地面に手をついて倒れ込む。蹴りそこなったボールは点々と渋川の許へ転がっていく。
「何やってんだよ、碧……碧? どうした?」
ボールを余裕で止めた渋川が、苦笑しながら僕に近づいてきて顔を覗き込もうとして、様子のおかしさに声を強張らせる。
何でもない、と言いたいはずなのに、僕の声は喉元をつかまれたように出てこない。声どころか息さえも、ぎゅっとつかまれたままだ。
脂汗が滲み、震えが止まらない。痛いことと苦しいこと何より詳細がわからない初めての状況に頭の中はパニックになっている。
呼吸って、どうやってしていたっけ……そんなことを思うほどに、息が肺の中に入ってこない。酸素が突如全身に廻らなくなり、身動きができなくなった。
「碧?! 碧! 誰か! 先生! 碧が!!」
渋川の叫び声が、とても近くに聞こえる。視界を蝕む青さが、どんどん濃くなっていく。まるで闇のようにさえ見る青さに、僕は呑まれてしまいそうで怖くて仕方なかった。呑まれたら、もう二度と眼が開かない気がして。
「いやだ……怖い……いやだ……」
うわ言のように怖いと繰り返す僕を、誰かが抱える感触がした。ふわりとした浮遊感と共に、大きな揺れが続き、遠く近く怒号が聞こえる。どこかに、運ばれているんだろうか。
それとも、このまま、僕は死んじゃうんだろうか――ふと過ぎった考えに、ぞくりとした恐怖さえ覚えなかった。何故ならいまは、想像で感じる恐怖よりも、突き付けられている現実の光景の方がよっぽど恐ろしかったからだ。
事実は小説より奇なり、って、こういう時に使う言葉じゃなかったよね……そんな呑気なことを頭の片隅で考えている僕の意識の中に、稲妻のように突然ぼやけた意識を叩き起こすほどの声が響く。
「碧! 大丈夫だからな! しっかりしろよ!」
名を呼ばれ、誰かが――たぶんきっと、渋川が、僕の手を握って励ましてくれている。叫ぶように声をかけながら、強くつよく、放すまいというように。まるで、この手を放したら、僕が取り返しのつかない遠くに行ってしまうとでも言いたいようで、胸が痛くなる。
(そんなことしない……僕は、どこにも、行かない……)
応えたいのに声が出ない。段々と痛みと苦しさで意識も薄れていく。それでもどうしても渋川に応えたくて、僕は瞬時に考えた末、渾身の力を込めて彼の手を握りしめた。大丈夫、ここにいるよ、というように。
「碧!! 碧!!」
渋川の僕を呼ぶ声が遠のいていく。大丈夫、大丈夫……声にならない言葉を指先から伝えるように、僕はずっと渋川の手を握りしめたまま、意識を失った。
どれくらい、眠っていたんだろう。ようやく痛みが引いて呼吸がしやすくなったと思って目を開けると、古ぼけた白い天井に黄ばんだカーテンが風にそよいでいるのが見えた。
ここはどこだろう? と、首だけを動かして見渡していると、カーテンが開いて若い白衣の女性が顔を覗き込みつつ僕の額に手を宛がう。
あ、保健室の五島先生だ、と、気付くのと同時に、先生は口を開く。
「気分はどう?」
「……少し、マシです」
小さく息を吐きながら言う僕を、先生はまだ何か深刻な顔をして見つめてくる。額の手は離されたけれど、それによる何かを、カルテのようなものに書き留めている。
そう言えば、渋川はどうしたんだろう? ずっと付き添っていてくれた気がするのに。
僕が渋川を捜している様子に気づいたのか、先生は、「お友達ならもう教室よ」とだけ教えてくれた。
「ずっと君の手を握っていてね、“大丈夫だ、大丈夫だ”って言ってくれてたよ」
いい子ね、彼。と言う先生の微かな笑みに、僕もまた小さく微笑んでうなずく。渋川は、たしかにいい奴に違いないからだ。
だけど、先生はもう一度僕の顔を覗き込むなり、先程とったメモのようなものを見合わせて顔を強張らせ、スマホを取り出して何かを調べ出す。
何か、ヘンな事でもあったんだろうか……そんなことをぼんやり考えながらまた天井を見上げていたら、「森藤君、だっけ?」と、声をかけられた。振り返ると、先生はさっきよりもうんと真剣な険しい顔をしている。
「あなた、BLUEに罹患……かかっているんだよね?」
「あ、はい……そうです」
五島先生は保健室の先生なので、生徒の健康事情とやらは把握されているようで、すぐに僕の持病であるBLUEの発症を言い当ててきた。医療関係者だから当然の話なんだろうけれど、学校の関係者でもあるから、普段病院などで聞く単語を口にされると、妙に緊張してしまう。
だけど、いま覚えている緊張感は、ただ状況の問題の話ではないことを、僕は知ることになる。
「いますぐ、おうちの方に連絡して、かかりつけの病院に診てもらった方がいいわ」
「え……?」
BLUEを発症しているけれど、症状は軽いので、半年に一度くらいの定期健診しか受診してこなかったのに、急にそう言われ、僕は衝撃を覚え言葉を失った。
それって、どういう意味だろう……そう、先生の放った言葉の意味をなかなか飲み込めないでいる自分と、心のどこかで、「ああ、来たか」とひどく冷静に事態を受け止めようとしている自分がいる。まったく相反するけれど、どちらもいまの僕の気持ちそのものだった。
「それって、俺、死ぬってことですか?」
「ううん、そうじゃなくて……でも、念のために、ね」
先生はさっきまで深刻な顔をして僕に病院に行けと言っていたのに、僕が震えそうな声で問うと、慌てて笑みを作って大丈夫だと言うようにやさしく言葉をかけてくれた。だけど、それくらいで不安が拭えるなら、病院なんて行かなくていいはずだ。
BLUEは、発症しても症状に個人差が大きい。ただ視界が蝕むように青く欠けるようになり、体の一部が青くなるだけの人もいれば、碧部分が体内、内臓などに広がることもあると言う。青く染まる内臓は、原因は詳しくわかっていないと言うけれど、血の巡りが悪くなるためにそう見えるのだと言われている。
そして、症状は突然悪化する。そのタイミングもまたいつだと決まっているわけでも、決定的なきっかけがわかっているわけでもない。
ただ一つ言えるのは、突然それまで青く染まっていたもの――肌や髪、視界など――の青さが、一段と深く濃くなると、悪化したと判るらしい。
念のため、と先生は言いつつも、バタバタと慌ただしく担任の荒木先生に施設の先生の連絡先を聞きに行ってしまう。残された僕は、先程意識を手放した時よりも青みを増している気がするしかいを硬く閉じて膝を抱いてただ震えていた。
「……嘘だ、そんな……」
声が、誇張なく震えているのが自分でもわかる。情けなくておかしいのに、全く笑えない。当たり前だ、いま僕は、自分の体がより悪く青くなっていっているのを知ってしまったのだから。