第三話:役所の扉
ノイシュタットの冬は、息を白く染め、人の心を冷たく閉ざす。マンフレート・ベルンハルトの小さなアパートは、少女ナディア・ニコラエヴナを匿うことで、凍てつくルスラントにわずかな温もりを宿していた。だが、その温もりは、ドイツ・レーテ社会主義共和国の監視の目から逃れられなかった。赤剣団の足音が団地の廊下を響かせ、隣人の囁きが密告の影を落とす。マンフレートは決意していた。ナディアを合法的な「家族」にすることで、彼女を――そして自分を――守るのだ。パウルスブルクの役所が、その運命の鍵を握っていた。
マンフレートは、朝の薄暗い光の中で、机に広げた書類を何度も見直した。偽造した配給票のコピー、ナディアの新たな「出自」を記したメモ。そこには、「ナディア・シュミット、14歳、ドイツ系ロシア人、両親を旧帝国の混乱で失った」と書かれている。ユダヤ人の血は、紙の上から消し去られた。ナディアは、部屋の隅で毛布にくるまり、壊れたヴァイオリンの弓を握っていた。彼女の青い瞳は、警戒と信頼が交錯する。
「今日、役所に行く」マンフレートは、ナディアに言った。声は低く、だが揺るぎなかった。「お前を俺の養妹にする。書類は揃えた。うまくいくはずだ」
ナディアは、かすかにうなずいた。彼女は、ドイツ語を流暢に話せ、党のスローガンも暗記した。だが、心の奥では、父のユダヤの歌や母のロシアの民話を封じた痛みが疼く。「マンフレート、もしバレたら……あなたまで巻き込むよ」
「心配すんな」マンフレートは、笑って手を振った。「俺、孤児だ。失うもんはない。お前がここにいる方が、よっぽど大事だ」
ナディアは、唇を噛んだ。彼女の手が、ヴァイオリンの弓を強く握る。「ありがとう……でも、気をつけて。役所には、赤剣団がいるよ」
マンフレートは、コートの襟を立て、書類を革の鞄にしまった。団地の窓から、パウルスブルクの遠い灯りが見えた。模範都市の輝きは、希望と監視の両方を約束する。少年は、ナディアに言った。「昼までには帰る。ドアは絶対開けるな。誰かが来ても、隠れてろ」
ナディアは、頷きながら少年の手を握った。「約束だよ、マンフレート。帰ってきて」
その小さな手は、ルスラントの冷たさの中で、少年の心を燃やした。
朝の電車は、ノイシュタットからパウルスブルクへ向かう労働者で混み合っていた。マンフレートは、革鞄を胸に抱え、揺れる車内に身を縮めた。窓の外には、凍ったステップと、煙突から吐き出される黒い煙が広がる。パウルスブルクは、ルスラントの心臓だ。民族共産党が「新世界の輝き」と呼ぶ都市は、コンクリートのビルと電灯の海でできている。だが、その輝きの裏には、赤剣団の監視塔と、レーテ監視局の目が潜む。
電車が人民広場駅に滑り込むと、マンフレートはホームに降り立った。広場には、ラデックの巨大な肖像が聳え、「団結は力、平等は未来」のスローガンが赤い旗に揺れる。市場の喧騒が聞こえるが、少年の耳には、赤剣団のブーツの音が大きく響いた。彼は、鞄を握りしめ、役所へ向かった。
パウルスブルクの人民役所は、灰色の石造りの建物だ。入り口には、鎌と剣の党章が刻まれ、赤剣団の衛兵が門を固める。マンフレートは、深呼吸して中に入った。ロビーは、人民服を着た役人や、配給票を求める住民でごった返している。電光掲示板が、「労働で未来を築け」と繰り返す。少年は、受付の列に並び、心臓の鼓動を抑えた。鞄の中の書類は、彼とナディアの命綱だ。偽造がバレれば、指導所行きは免れない。
列の先で、人民服の役人がマンフレートを呼んだ。40代の男は、眼鏡の奥で少年を値踏みするように見た。「名前と用件を」
「マンフレート・ベルンハルト、ノイシュタットの入植者です」少年は、声を落ち着かせて答えた。「養妹の登録を申請したい。書類はここに」
役人は、書類を受け取り、ページをめくった。「ナディア・シュミット、14歳、ドイツ系ロシア人……ふむ。両親は旧帝国で死亡、か。君の遠縁だと?」
「はい」マンフレートは、ナディアと練った物語を口にした。「母方の親戚です。ルスラントに来てから連絡が途絶えてたんですが、最近再会しました。俺、孤児なんで、家族として引き取りたい」
役人は、眉を上げたが、表情は変わらなかった。「孤児が養子を取るのは珍しいな。だが、党の政策では、家族の団結を奨励してる。書類に不備がなければ、問題はない」
マンフレストは、喉の詰まりを飲み込んだ。役人の指が書類をなぞるたび、偽造のインクが暴かれる気がした。だが、役人は淡々と続けた。「レーテ育児政策のおかげで、子持ち家庭には補助金が出る。養子も同じだ。生活補助と、君の学校の休校補償も付く。党は、未来の労働者を育てる者を支援する」
マンフレートは、驚きを隠した。民族共産党の「育児政策」は、ドイツ人の人口を増やし、ルスラントを「理想郷」に変えるためのものだ。孤児の養子縁組も、党の「団結」のスローガンに合致する。ナディアの「ドイツ系ロシア人」という偽装が、皮肉にも党の政策に守られていた。
「彼女のドイツ語は?」役人が、突然尋ねた。
「堪能です」マンフレートは、即答した。「親戚がドイツ系なんで、子供の頃から話してました。党のスローガンも覚えてます」
役人は、うなずき、書類に判を押した。「よし。データに入れる。早ければ今日中に合否の手紙をノイシュタットに送る。人民指導者の名の下に、兄弟の絆を祝福する」
マンフレートは、胸の奥で安堵の息をついた。だが、役所のロビーを出るまで、背中に赤剣団の視線を感じ続けた。
その日の夕方、マンフレートがノイシュタットのアパートに戻ると、団地の郵便受けに封筒が届いていた。赤い党章が押された、人民役所からの手紙だ。彼は、部屋に駆け込み、ナディアに叫んだ。「ナディア! できたぞ!」
ナディアは、毛布を肩にかけ、少年の声に飛び起きた。「本当に? バレなかった?」
マンフレートは、封筒の封を破り、手紙を広げた。「ナディア・シュミット、マンフレート・ベルンハルトの養妹として登録。ドイツ国籍を付与。配給票と補助金の支給……全部、認められてる!」
ナディアは、目を丸くした。彼女の手が、ヴァイオリンの弓を離れ、マンフレートの腕をつかんだ。「マンフレート……ありがとう。本当に、ありがとう」
少年は、照れくさそうに笑った。「これで、お前は合法だ。赤剣団も、指導所も、怖くねえよ」
だが、ナディアの瞳には、複雑な光が宿っていた。彼女は、偽りの名と出自で生きることを選んだ。父のユダヤの血を隠し、母のロシアの歌を封じた。それでも、マンフレートのそばで、彼女は初めて「家」を感じていた。「マンフレート、私……妹、ちゃんとやるよ。約束する」
マンフレートは、ナディアの頭を軽く叩いた。「バカ、形式上だって言ったろ。でも、まあ……家族ってのも、悪くねえな」
窓の外では、ノイシュタットの夜が静かに降りる。パウルスブルクの灯りは遠く、ルスラントの闇は深い。だが、マンフレートとナディアの小さな部屋は、偽りの絆で結ばれた本物の希望を灯していた。それは、ルスラントの凍てつく大地に、確かに根を下ろし始めていた。