表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自由の星の下で  作者: そーゆ
自由を求めて
8/35

第二話:偽りの絆

ルスラントの冬は、人の心まで凍らせる。ノイシュタットの団地は、コンクリートの壁に囲まれ、暖房の蒸気が薄暗い廊下を満たす。マンフレート・ベルンハルトの小さな部屋は、少女ナディア・ニコラエヴナを匿うことで、初めて「家」らしい温もりを帯びた。だが、その温もりは脆い。ドイツ・レーテ社会主義共和国の監視の目は、路地裏から団地の窓までを貫く。赤剣団の黒いコートが街を巡り、密告の囁きが隣人を敵に変える。マンフレートは知っていた。このままでは、彼とナディアの未来は、鉄の檻に閉ざされる。


マンフレートは、朝の薄光の中で目を覚ました。ナディアは、床に敷いた毛布にくるまり、静かに眠っている。彼女の金髪は、洗ってやっと輝きを取り戻したが、頬のやつれは隠せない。壊れたヴァイオリンの弓を握る小さな手が、少年の胸を締め付けた。あの路地での出会いから三日。マンフレートは、配給のパンとスープを分け合い、ナディアに古いコートを着せ、彼女を「見ず知らずの難民」から「自分の世界の一部」に変えた。だが、その行為は、ルスラントでは罪だった。


ノイシュタットの団地は、孤児や入植者のための「模範住宅」だが、自由はない。毎朝、監督官が戸口を叩き、配給票の確認と「忠誠の唱和」を求める。隣人の目は、党のスローガン「団結は力」を口にしながら、わずかな異変を嗅ぎつける。マンフレートは、ナディアを部屋に隠し、監督官の視線をやり過ごしてきた。だが、昨夜、隣の部屋から聞こえた囁きが、少年の心に冷たい刃を突き刺した。「ベルンハルトの部屋、妙に静かだな。孤児一人で何してるんだ?」その声は、好奇心か、疑念か。どちらにせよ、密告は時間の問題だった。


学校での時間も、マンフレートを追い詰めた。ノイシュタットの人民学校は、民族共産党の「新世代」を育てる場だ。教室の壁には、ラデックの肖像と「労働で未来を築け」の標語が掲げられ、教師はドイツ語の文法と党の歴史を叩き込む。


夜、部屋に戻ったマンフレートは、ナディアに打ち明けた。「このままじゃダメだ。誰かに見られたら、赤剣団が来る。俺たちは……『教育指導所』に送られる」ナディアの青い瞳が揺れた。彼女は、指導所の噂を知っていた。反体制派や「不純分子」が送られる収容所。凍てつくバラックで、労働と洗脳が繰り返され、戻ってくる者は別人に変わる。ナディアは、唇を噛んだ。「私のせいで……マンフレート、ごめん」


「謝るな」マンフレートは、きっぱりと言った。「俺が決めたんだ。お前を路地に置いとけなかった。でも、考えなきゃいけない。どうやってお前を守るか」


マンフレートの頭に、ある計画が浮かんだ。それは、危険だが、唯一の希望だった。ナディアを「合法的な存在」にすること。ルスラントでは、ドイツ人入植者には特権がある。ドイツ国籍を持つ者は、配給も住居も優先され、監視の目も緩い。だが、ナディアは違う。ユダヤ人とロシア人の血を引く彼女は、党の目には「旧帝国の残滓」だ。ユダヤ人は特に、ファウストシュラーク作戦の後、「再教育」の名の下に追放や収容の対象だった。ナディアをそのまま匿えば、いずれ発覚し、二人とも指導所行きだ。


「ナディア、お前の出自を隠す」マンフレートは、机に広げた配給票の書類を見つめながら言った。「お前の父さんがユダヤ人だったことは、誰にも言わない。ロシア系ってことにする。母さんはドイツ系ロシア人だったんだろ? それを使えば……『ドイツ系ロシア人』として登録できるかもしれない」


ナディアは、眉を寄せた。「そんなこと、できるの? 党の役人は、血統を調べるよ。ユダヤ人の名前なんて、すぐバレる」


「だから、書類を偽る」マンフレートは、声を低めた。「俺、人民学校で印刷機の使い方知ってる。配給票の書式も見たことある。名前と出自を変えれば、役所のデータに入れられる。ナディア・ニコラエヴナじゃなくて……たとえば、ナディア・シュミット。ドイツ風の姓なら、疑われにくい」


ナディアは、驚いたように少年を見た。「シュミット? それって……」


「俺の養妹にする」マンフレートは、顔を赤らめながら続けた。「形式上だけだ。孤児の俺でも、家族登録はできる。党は、ドイツ人の家族を増やす政策を推してるから、審査は甘いはずだ。お前が『ドイツ系ロシア人』で、俺の妹なら、国籍も配給も手に入る。赤剣団も、わざわざ調べない」


ナディアは、黙ってヴァイオリンの弓を握りしめた。彼女の父の名前――ユダヤの血を隠すことは、家族の記憶を裏切るようだった。だが、ルスラントで生きるには、過去を捨てる覚悟が必要だった。「……分かった。やるなら、ちゃんとやって。私、ドイツ語なら話せる。パパが教えてくれたから」


マンフレートは、ほっと息をついた。「よし。じゃあ、まずお前の話を揃えなきゃ。役人に聞かれた時のために、偽の過去を作る」


次の数日、マンフレートは計画を練った。ナディアの新しい「物語」を作り上げるため、二人は夜遅くまで話し合った。ナディア・シュミット、14歳。父はロシア帝国のドイツ系商人、母はドイツ系ロシア人の農婦。旧帝国の混乱で両親を失い、ルスラントに逃れてきた。マンフレートの遠縁として、ノイシュタットで再会した――そんな筋書きだ。ナディアは、ドイツ語のアクセントを磨き、党のスローガンを覚えた。彼女の鋭い頭脳は、偽りの役を完璧に演じる素質を持っていた。


マンフレートは、人民学校の印刷室に忍び込む機会を窺った。監督官の目を盗み、夜の作業場で配給票の書式をコピーした。インクの匂いと、機械の唸りが、少年の心臓を高鳴らせた。これは、ただの書類作りではない。党への裏切りだ。だが、ナディアの笑顔を思い出すたび、マンフレートは手を動かし続けた。書類には、「ナディア・シュミット」の名と、偽の出生記録を刻んだ。


家では、ナディアが協力した。彼女は、母のドイツ系ロシア人の血を強調し、ユダヤの伝統――ハヌカの歌やイディッシュの詩――を心の奥に封じた。「マンフレート、もしバレたら……私だけ捕まればいい。あなたは関係ないって言って」彼女の言葉に、マンフレートは首を振った。「バカ言うな。一緒にやるんだ。俺とお前で」


二人は、書類を手に、ノイシュタットの役所へ向かう準備をした。役所の窓口は、赤剣団の監視下にある。冷や汗と恐怖が、マンフレートの背を濡らした。ナディアは、少年の手をそっと握った。「大丈夫。私、信じてるよ」その小さな手は、凍てつくルスラントで、唯一の温もりだった。


役所の日が近づく朝、マンフレートは、ナディアに新しいコートを渡した。学校の予備品から拝借した、ドイツ人らしい青いウールだ。「これ着てれば、誰も疑わない。ナディア・シュミット、俺の妹だ」彼は、笑って言った。


ナディアは、コートを羽織り、鏡もない部屋で身なりを整えた。金髪を結い、鋭い瞳を隠すように微笑んだ。「マンフレート、ありがとう。こんなこと、初めてだ。誰かに……守られるの」


マンフレートは、照れくさそうに頭をかいた。「大げさだな。まだ終わってないぞ。役所でバレなきゃいいけど」


二人は、団地の窓からパウルスブルクの灯りを見た。模範都市の輝きは、遠くで偽りの希望を謳う。だが、マンフレートとナディアの小さな計画は、ルスラントの闇に一筋の光を投じた。それは、偽りの絆かもしれない。だが、その絆は、本物の火種だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ