表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自由の星の下で  作者: そーゆ
自由を求めて
7/35

第一話:偶然の出会い

パウルスブルクの朝は、鉄とコンクリートの交響曲で始まる。ドイツ・レーテ社会主義共和国が誇るルスラントの「模範都市」は、夜も眠らない。工場の煙突が吐き出す黒い息は空を覆い、電灯の光は凍てつく大地を昼のように照らす。街の中心、人民広場にはカール・ラデックの肖像が聳え、「団結は力、平等は未来」と刻まれたスローガンが赤い旗に踊る。ここでは、労働者も入植者も、党の理想の下で一つの歯車として生きる。だが、その喧騒の裏で、誰も見ない路地に小さな影が息を潜めていた。


市場への旅

マンフレート・ベルンハルトは、電車の窓に額を押しつけ、揺れる車内のざわめきに耳を傾けていた。15歳の少年は、ルスラントの入植地ノイシュタットからパウルスブルクへ買い出しに来るのが日課だった。肩に掛けた麻袋には、配給票で手に入れたジャガイモ、硬パン、罐詰の豆が詰まっている。電車の鉄の軋みと、車掌の「次は人民広場!」という無愛想な声が、少年の意識を現実に引き戻した。


パウルスブルクは、ルスラントの心臓だ。民族共産党が「新世界の輝き」と呼ぶこの都市は、ライン戦争とファウストシュラーク作戦の戦利品で築かれた。市場は朝から夜まで人で溢れ、ドイツ人入植者と現地住民が肩を擦り合わせる。屋台では、焼いたソーセージの匂いと、ロシア風のボルシチを売る老婆の呼び声が混じる。赤剣団の黒い制服が監視の目を光らせ、電光掲示板は「労働で未来を築け」と繰り返す。マンフレートは、この喧騒が好きだった。ノイシュタットの静けさとは違い、ここでは自分が大きな何かの一部だと感じられた。


だが、少年の心には小さな棘があった。市場で見た光景――配給の列に並ぶ現地住民の疲れた目、赤剣団に連行される男の叫び声。党のスローガンは「平等」を謳うが、ドイツ人入植者用のパンにはバターが塗られ、ロシア人の皿には薄いスープしかない。学校で習った「団結」は、どこか歪んでいる。マンフレートは、その疑問を押し殺し、電車に乗り込んだ。麻袋を握りしめ、ノイシュタットへの帰路につく。


電車がノイシュタット駅に滑り込む頃、夕暮れがルスラントの空を紫に染めていた。マンフレートはホームを降り、冷たい風にコートの襟を立てた。ノイシュタットは、パウルスブルクの華やかさとは対照的に、灰色の団地と未舗装の道が広がる。入植地とは名ばかりで、ドイツ人入植者の華やかで大きな街区とは対照的にロシア人や非ドイツ人労働者が暮らすアパートは、まるで監視塔の影に縮こまるようだ。少年は、アパートへの近道である路地を抜けることにした。


その路地は、いつも静かだった。崩れたレンガの壁と、凍った水たまりが並ぶだけの場所。だが、今日、かすかな物音が聞こえた。マンフレートは足を止め、目を凝らした。ゴミ箱の陰、薄汚れた毛布にくるまった小さな人影。金髪が泥と埃でくすみ、ぼろぼろのコートから細い手が覗く。少女だった。10歳にも満たないように見えたが、目だけは鋭く、獣のようだった。


「おい、そこで何してる?」マンフレートは、思わず声を掛けた。少女はビクリと身を縮め、逃げようとした。だが、足がもつれ、倒れ込む。少年は慌てて近づき、麻袋を置いて手を差し伸べた。「大丈夫だ、俺は敵じゃない。怪我してるのか?」


少女は無言で睨み返した。青い瞳には、恐怖と警戒が渦巻いている。マンフレートは、ポケットから硬パンを取り出し、そっと差し出した。「腹減ってるだろ? 食えよ。俺、マンフレートって言う。名前は?」


長い沈黙の後、少女はかすれた声で答えた。「……ナディア。ナディア・ニコラエヴナ」その名前は、ロシア風だった。マンフレートは、彼女が現地人――いや、それ以上の何かだと直感した。彼女の汚れた金髪と、微かに残る異国のアクセント。それは、ルスラントでは危険な印だった。


ナディアの物語

マンフレートは、ナディアを路地に放置できなかった。彼女の震える肩と、空っぽの目が、少年の胸を締め付けた。「うち、近いんだ。温かいスープがある。来いよ」彼は半ば強引に少女を促し、アパートへ連れて行った。ノイシュタットの団地は、冷たいコンクリートの塊だったが、マンフレートの部屋は小さくとも清潔だった。孤児用の配給で賄われた家具、机には壊れたラジオと教科書が並ぶ。


ナディアは、部屋の隅に座り、スープの入った椀を両手で握った。スチームヒーターの音が、沈黙を埋める。マンフレートは、彼女の汚れたコートや、擦り切れた靴に目をやりながら、そっと尋ねた。「なんであんなとこにいたんだ? 家族は?」


ナディアの瞳が揺れた。彼女は、椀を見つめたまま、ゆっくりと話し始めた。「家族……もういない。パパとママ、二人とも死んだ。旧帝国で」彼女の言葉は、まるで凍った川が割れるように途切れがちだった。


ナディア・ニコラエヴナは、ユダヤ人とドイツ人の血を引いていた。父はロシア帝国のユダヤ人医師、母はドイツ系ロシア人の教師だった。旧帝国――ファウストシュラーク作戦で崩壊したロマノフ朝の時代、ユダヤ人は「劣等人種」として迫害された。ナディアの家族は、灰ウクライナの小さな町で細々と暮らしていたが、ドイツの侵攻とともに全てが変わった。作戦の混乱の中、父は帝国の転覆を図ったとして銃殺され、母は略奪に巻き込まれ命を落とした。12歳のナディアは、燃える村を逃げ出し、たった一人で生き延びた。


「国境地帯は地獄だった」ナディアは、声を震わせた。「地雷が埋まってて、夜は銃声が響く。食べ物はなかったから、死体から乾パンを盗んだこともある」彼女は、ルスラントの封鎖された国境を命懸けで越え、パウルスブルクに流れ着いた。市場の残飯や、裏路地で盗んだ果物で飢えを凌いだ。だが、赤剣団の検問や、密告を恐れる住民の冷たい目は、少女を追い詰めていた。


マンフレートは、言葉を失った。学校で教わった「ファウストシュラーク作戦」は、ドイツの栄光とロシアの解放の物語だった。だが、ナディアの口から語られるのは、血と灰の真実だった。少年は、自分の手にある配給パンを握りしめ、胸の奥で何かが軋むのを感じた。「そんな目に遭って……よく生きてきたな」


ナディアは、かすかに笑った。だが、その笑顔はすぐに消えた。「生きてなきゃ、負けだろ。パパがそう言ってた。『どんな時も、生きろ』って」


その夜、マンフレートはナディアに毛布をかけ、床に寝床を作った。彼女は、暖かい部屋とスープに戸惑いながらも、すぐに眠りに落ちた。少年は、薄暗い電灯の下で、机に突っ伏して考え込んだ。ナディアをこのまま路地に戻せば、赤剣団に見つかってキャンプ行きか、寒さで死ぬだろう。だが、彼女を匿うのは危険だった。ルスラントでは、ユダヤ人や無許可の難民をかくまうことは「反逆罪」に等しい。学校の監督官や、隣人の密告が、マンフレートの小さな世界を壊すかもしれない。


それでも、少年は決めた。「ナディアを放っておけない」彼は、孤児としてドイツからルスラントに送られ、誰も頼る者のいない孤独を知っていた。ナディアの目には、同じ空虚があった。だが、彼女の瞳には、諦めきれぬ炎も宿っていた。それは、マンフレートが忘れかけていた何か――生きる意味、闘う理由――を呼び覚ました。


翌朝、ナディアが目を覚ますと、マンフレートは新しい服を差し出した。孤児用の予備のコートと、洗ったばかりのシャツ。「これ、着ろ。汚れたままだと目立つ」ナディアは、驚いたように少年を見た。「なんで……こんなことしてくれるの?」


マンフレートは、照れくさそうに笑った。「知らねえよ。ほっとけなかっただけだ。とりあえず、ここにいろ。食い物は俺がなんとかする」


ナディアは、黙ってうなずいた。彼女の手には、壊れたヴァイオリンの弓が握られていた。それは、母の形見だった。少女は、そっと呟いた。「ありがとう……マンフレート」


路地の少女と入植地の少年。凍てつくルスラントで、二人の小さな絆が生まれた。それは、まだ誰も知らない、大きな火種の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ