第三話:権力への道
民族共産党の台頭は、ワイマール共和国の混乱に後押しされた。1920年代初頭、ドイツはハイパーインフレと失業に苦しみ、共産主義者と右翼の街頭衝突が日常だった。ラデックは、この混沌を巧みに利用した。彼は、右翼の民族主義者から「ドイツの誇り」を、左翼の労働者から「階級闘争」を借り受け、両者を融合させたのだ。党の民兵組織「赤剣団」は、茶色の制服を着た突撃隊や赤旗を振る共産主義者と異なり、黒いコートと赤い腕章で統一された。彼らは、工場でのストライキを組織し、右翼の集会を襲撃し、貧民街で食料を配った。この「行動する革命」は、若者と失業者を引きつけた。
1923年のルール占領は、民族共産党にとって最初の試金石だった。フランスとベルギーがラインラントの工業地帯を占領すると、ラデックは「民族の屈辱」と「資本の陰謀」を結びつける演説で民衆を扇動した。赤剣団は、占領軍の補給線を妨害し、工場でサボタージュを展開。ラデック自身は、逮捕を逃れながら全国を飛び回り、秘密のラジオ放送で「ラインの奪還」を呼びかけた。この抵抗運動は、党の支持を一気に広げた。労働者はラデックの社会主義に、退役軍人は彼の復讐の叫びに共鳴した。
1925年、ワイマール共和国の議会選挙で、民族共産党は初めて議席を獲得した。だが、ラデックは議会を「革命の道具」としか見ていなかった。彼は、街頭での勢力を拡大し、軍や警察への浸透を進めた。1927年、ベルリンでの大規模ストライキは、赤剣団と警察の衝突に発展。ラデックはこの混乱に乗じ、「労働者評議会」の設立を宣言した。評議会は、工場や地域ごとに組織され、党の指導下で食料配給や治安維持を行った。政府はこれを違法とみなしたが、評議会の人気は高まる一方だった。
1930年、世界恐慌がドイツを直撃すると、民族共産党の勢いは止まらなくなった。失業率が30%を超え、都市は飢えた民衆で溢れた。ラデックは、恐慌を「資本主義の終焉」と呼び、党のスローガン「団結は力、平等は未来」を全国に響かせた。1932年の選挙では、民族共産党が議会で第一党に躍り出た。だが、ラデックは議会での妥協を拒否。1933年1月、彼は赤剣団を動員し、ベルリンでクーデターを決行した。国会議事堂は炎に包まれ、ワイマール政府は崩壊。ラデックは「ドイツ・レーテ社会主義共和国」の樹立を宣言し、自ら「人民指導者(Volksführer)」に就任した。