第五話:新しい部屋
ノイシュタットの冬は、ルスラントの大地を冷たく閉ざす。灰色の団地が並ぶ入植地は、民族共産党の「模範社会」の一角だが、暖房の蒸気と配給のパンだけが住民を繋ぎ止める。マンフレート・ベルンハルトのアパートは、ナディア・シュミットを養妹として迎え、初めて「家族」の温もりを宿した。赤剣団の調査を切り抜けた二人は、束の間の安堵に浸っていた。だが、ドイツ・レーテ社会主義共和国の監視の目は、決して緩まない。パウルスブルクの灯りが遠く輝く中、ノイシュタットの小さな部屋で、二人の新たな日常が始まろうとしていた。
新しい部屋
朝のノイシュタットは、凍てつく霧に覆われていた。マンフレートは、人民学校の機械修理の授業を終え、配給の罐詰を手にアパートへ戻った。鞄には、ナディアへの手紙――ルスラント・レーテ大管区からの通知が入っている。数日前、役所の養子登録の後、大管区の住宅局から連絡があった。マンフレートの住む団地の下の階、長い間空室だった部屋を、ナディアに提供するという。党の「家族奨励政策」の一環だ。マンフレートは、階段を駆け上がり、ナディアに叫んだ。「おい、ナディア! いい知らせだ!」
ナディアは、部屋の隅で壊れたヴァイオリンの弓を手に、マンフレートの声に顔を上げた。新しい革のコートとウシャンカを着た彼女は、少女らしい輝きを取り戻していた。「何? また何か買ってきたの?」彼女の冗談に、マンフレートは笑って手紙を差し出した。「違うよ。お前、部屋がもらえた。下の階、405号室。今日からそこに住める」
ナディアは、手紙を手に、目を丸くした。「部屋? 私に? 本当に?」彼女は、紙を何度も読み返し、党の赤い判子に指を這わせた。「大管区が……こんなこと、してくれるなんて」
マンフレートは、肩をすくめた。「党の政策だろ。ドイツ国籍の家族には、住む場所を保証するってさ。お前が『ナディア・シュミット』だからな」彼の言葉には、偽装の成功を誇る響きがあった。ナディアは、微笑んだが、瞳の奥には一瞬の翳りがあった。彼女の真の出自――ユダヤとロシアの血――は、書類の裏に隠されたままだった。
その日の午後、二人は405号室へ向かった。団地の階段は、凍った手すりが冷たく、廊下には配給の空き缶が転がる。405号室は、マンフレートの部屋とほぼ同じ造りだった。狭いリビング、錆びたスチームヒーター、配給用の木製ベッド。だが、ナディアには、それが宝物だった。「マンフレート、こんな広いとこ、初めてだよ。旧帝国じゃ、家族で納屋に住んでたこともあったのに」
マンフレートは、彼女の笑顔に胸が温まった。「まあ、模範市民の部屋ってだけだ。さ、荷物運ぼうぜ。お前のコートとヴァイオリン、持ってきてやる」
ナディアは、頷きながら部屋を見回した。窓の外には、ノイシュタットの灰色の団地と、遠くパウルスブルクの灯りが見えた。彼女は、そっと呟いた。「ここ、私の家だね……マンフレートのおかげで」
軋むドア
405号室での生活は、ナディアに新たなリズムをもたらした。マンフレートは毎朝、人民学校へ通い、ナディアは配給の仕事を手伝いながら、ドイツ語の教科書を借りて勉強した。党のスローガン「労働で未来を築け」を口にしながら、彼女は自分の「ナディア・シュミット」としての役を磨いた。だが、夜になると、彼女はヴァイオリンの弓を手に、母のロシアの民謡を心の中で歌った。それは、ルスラントの監視から逃れる、秘密の時間だった。
ある晩、ナディアは新しい部屋でくつろいでいた。革のコートを壁に掛け、ウシャンカをベッドに置き、配給のスープを温めていた。マンフレートが貸してくれたラジオからは、党の放送が流れ、「人民指導者ラデックの偉業」を繰り返す。ナディアは、それを無視し、机に広げた紙にドイツ語の単語を書き写した。だが、突然、身体が落ち着かなくなった。トイレに行きたくなったのだ。
彼女は、部屋の隅にある小さなバスルームへ向かった。だが、ドアノブを引いても、ドアはびくともしない。木枠が歪み、錆びた蝶番が軋む音だけが響く。「何これ……開かない?」ナディアは、力を込めて押したり引いたりしたが、ドアは頑固に閉ざされたままだった。スチームヒーターの熱で木が膨張したのか、団地の古い造りが原因か。彼女は、苛立ちと焦りで額に汗を浮かべた。
「もう、しょうがない……」ナディアは、コートを羽織り、マンフレートの部屋へ駆け上がることにした。階段を二段飛ばしで登り、505号室のドアを叩いた。「マンフレート! いる? 助けて!」
ドアが開き、マンフレートが顔を出した。少年は、作業着のまま、工具箱を手にしていた。「どうした、ナディア? 大声で叫ぶなよ、隣に聞こえるぞ」
ナディアは、頬を赤らめながら言った。「トイレのドアが……開かないの。立て付けが悪くて、動かないんだ。直してくれない?」
マンフレートは、くすりと笑った。「お前、せっかく新居なのに、早速壊すなよ。よし、工具持ってくから、ちょっと待ってろ」
二人は、405号室に戻った。マンフレートは、バスルームのドアを調べ、ドライバーとペンチを手に作業を始めた。ナディアは、ドアの脇でそわそわしながら見守った。「マンフレート、ほんとごめん。こんな時間に呼び出して」
「いいって」マンフレートは、蝶番のネジを外しながら言った。「人民学校で、機械修理なら負けねえよ。ドアくらい、朝メシ前だ」彼の手は、慣れた動きで木枠を調整し、錆びた蝶番に油を差した。団地の古い設備は、こんなトラブルが日常茶飯事だった。
ナディアは、少年の真剣な横顔を見ながら、そっと言った。「マンフレート、いつも助けてくれて、ありがとう。路地で会った時から……あなたがいなかったら、私、きっとここにいられなかった」
マンフレートは、手を止め、照れくさそうに頭をかいた。「大げさだな。俺だって、孤児だ。お前がいなきゃ、この部屋、ただの箱だったよ。妹ができたおかげで、なんか……生きてるって感じがする」
ナディアは、微笑んだ。彼女の瞳には、ルスラントの冷たさを溶かす光があった。「じゃあ、これからもよろしくね、お兄ちゃん」
「やめろって、気色悪い」マンフレートは笑いながら、ドアを軽く叩いた。「ほら、できた。試してみろ」
ナディアは、ドアノブを引いた。今度は、スムーズに開いた。彼女は、安堵の息をつき、少年に抱きついた。「やった! マンフレート、最高!」
マンフレートは、驚いて後ずさりしたが、ナディアの笑顔に負けて笑った。「おい、落ち着けよ。ドア直しただけで、こんな喜ぶな」
その夜、二人はナディアの部屋でスープを分け合った。ラジオは、党の放送を流し続けるが、二人はそれを無視した。ナディアは、ヴァイオリンの弓を手に、そっとロシアの民謡を口ずさんだ。マンフレートは、それを聞きながら、机に工具を並べた。「お前、そのヴァイオリン、直す気あるのか? 俺、試してみてもいいぜ」
ナディアは、笑って首を振った。「いつかね。まだ、準備ができてないの。ママの形見だから……大事にしたい」
マンフレートは、頷いた。「分かった。いつでも言えよ。俺、待ってるから」
窓の外では、ノイシュタットの夜が静かに降りる。パウルスブルクの灯りは遠く、ルスラントの監視は続く。だが、ナディアの新しい部屋と、マンフレートの修理したドアは、凍てつく大地に小さな安らぎを刻んだ。それは、嵐の前の静けさかもしれない。だが、今、二人の絆は、確かにそこにあった。