懐古
* * *
「カミサマなんているわけない。」
そう思うようになったのはいつからだったろうか。
「——ごめんなさい、ごめんなさい。」
リビングを隔てる扉の向こう。聞こえてくるのは父親の怒声と母親の金切声だった。時折り何かが激しく砕け散る音がして、思わず目を瞑った。
騒々しい音を少しでも小さくするために、小さな両手で耳を塞いだが、あまり効果は感じられなかった。それどころか、自分の心音ばかりが肥大して耳障りだった。
「カミサマ、お父さんとお母さんを仲直りさせてください。」
誰でもない、超常的なモノにそう願い、手を合わせ、両親の仲が良くなるようにと毎晩祈った。しかし、そんなものはただの気休めにしかならず、実際は願いが叶うことなく両親はあっさり離婚した。
六年前、離婚してから母は泣かなくなった、と、同時に、俺に当たるようになった。
「あんたを見てるとあの人を思い出す。」
親権取っといて勝手な話だ、と今になっては思う。ただ、当時十歳。母親を悲しませたくなくて、嫌われたくなくて何も言い返せなかった。それどころか、俺は何も悪く無いのに謝ってばかりいた。母親が父親にしていたみたいに。
母親と顔を合わせたくなくて、家にいるときはずっと自室に引きこもっていた。電気もつけず真っ暗な部屋のベッドの上で、ぼんやりと天井を眺めた。
「なんだよ、毎日願ったのに。」
そんなふうに毒を吐いたところで、両親がヨリを戻すことはないのも、不幸なのをカミサマのせいにしてしまえば楽なのも、本当はわかっている。それでも、何かのせいにしなければ、心が壊れてしまいそうだった。
そんな荒んだ環境で育った俺にも、唯一の安息期間があった。
「よくきたね、さ、上がって上がって。」
ガラガラと玄関の扉をスライドさせると、髪が真っ白に染まった祖母がにこやかな笑顔で迎え入れてくれる。
都会では滅多に聞けないひぐらしの鳴き声が絶えず響くこの田舎村にいると、というより、祖母といると母親が心穏やかなため、ここに住んでいた方がマシだと思った。
母親が世界滅亡の日のように声を荒げて泣くこともなければ、俺に八つ当たりする回数もいつもより少ない。し、そんなことしようものなら祖母が黙っていなかった。味方がいるのは心強かった。
テレビはN◯Kしか映らないし、バスも一時間に一本しかないし、近くに歩いて行けるコンビニはないけれど、凄惨な日常と比べたら天国のようだった。
「手を洗って、お菓子食べる前に神様に祝詞を唱えてお祈りしてね。」
この祖母の異常に強い信仰心以外は。
ここ三柱村は、三柱のカミサマがこの村を守った逸話からそう名付けられたらしい。祖母はこの村の得体の知れない土着神たるカミサマたちを強く信仰していた。
「山の神様と、川の神様と、狐の神様。それぞれにお祈りと挨拶するのよ。」
「……うん。」
——カミサマなんているわけないのに。
そう思いながら洗面台で手を洗う。人はどうして存在し得ないモノを頼り、縋ろうとするのだろうか。
自分に降りかかる悲劇を嘆くように、ただ祈りを捧げる。無意味なのに。
「えらいえらい、神様はちゃあんと見てるからね。」
見てたんならなんで助けてくれなかったんだよ。この世の全てを憎むように、心の中で愚痴るとおやつを前に突っ伏した。手からは、ほのかに石鹸の匂いがした。
「村を囲む山々を司る山祇様、川を始めとする水源を司る水上様、そして、畑の作物の豊穣を司る三狐神様。この三柱の神様が、この村を守ってる。村だけじゃなくて、住んでいる人たちのことも守ってくれてるの。だから神様に恥じないような行動をしなければならないの。手を洗って身を清めることも、大事なことで——。」
「前にも聞いた。」
ふん、と鼻を鳴らして口を尖らせた。怒られるかと覚悟して体をこわばらせると、
「……リクくん、何かあった?」
本来母親がかけるべき声を、向かいに座る祖母にかけられた。そんなふうに誰かに心配される経験なんかなかった。学校でも担任が「何かあったらちゃんと言ってね。」と気遣う素振りを見せても、「結城くん、じゃなかった。高天野くんのご家庭、ちょっと大変そうなのよね。今度の面談憂鬱だわ。」と、他教師と嫌厭するように話していたのを小耳に挟んでしまい、心を許せる人が近くにいなかった。
だから、不満や強がりをぎちぎちに閉じ込めていた扉を開けられたように、本音が洪水のように溢れた。
「……カミサマ、何もしてくれなかった。仲良くなりますようにって祈っても、全然ダメだった。父さんがいなくなったのも、カミサマのせいだ。」
突っ伏したまま、独り言のように呟く。目の端からは温かい雫が一筋垂れた。祖母に見せないように、深呼吸をして、頭を抱え込むように姿勢を直した。
「うーん、じゃあリクくんは、それをちゃんと伝えた?」
「誰に?」
「直接お母さんやお父さんに。当人たちじゃなくても、周りに相談したの?」
誰にも話してきたことがなかった。他人に頼らずに、一人で抱え込んで、行動に移さず、カミサマに縋った。
「してない。できなかった。」
「やろうとしたの?」
「それは、」
してない。祖母の家に行く機会はたくさんあったのに、言わなかった。
「言えば何か変わった?」
答えを求めるように目だけ動かして祖母を見つめた。祖母は少し眉尻を下げて、「わからない。」と答えた。
なんだよそれ。神のみぞ知るって? 結局——
「でも、変えようと何か行動する人には、必ず結果が伴うものよ。」
風に揺れる風鈴の音を聞きながら、静かに祖母の話に耳を傾けた。
「きっと、神様は見てる。リクくんがしんどい思いをしたのも、見てる。でも、神様も願いを叶えたい人は選んでる。この人は頑張っているな、と感じる人の願いを叶えるのよ。」
「それでも叶わなかったら?」
祖母に苛立ちをぶつけるように、ぶっきらぼうに吐いた。この期に及んで、まだ「ばあちゃんに責任が取れんのかよ。」と無関係な他人を責めようとしていた。
「そうねぇ、叶わなくても、やらないよりやった方が、スッキリするんじゃ無いかしら。同じ後悔なら、少しでも自分の心が楽になる手段を選ぶ方がいいと思うわよ。」
「後悔……。」
隠れてコソコソ願うだけだった。具体的に両親が仲直りするための策を練ることも、仲裁に入ることもなかった。
「でも、私も気付けなくてごめんね。リクくんにもっと早く声をかけてあげられたらよかったね。」
もっと早く祖母に相談していたら。怒られる覚悟で、父親に物申せていたら。傷心する母親に寄り添っていたら。
そんなもしもが脳内で堂々巡りをする。なんだ、結局俺が行動に移さなかったせいか。自嘲気味に鼻を鳴らすと、また机に突っ伏した。
拗ねる俺を宥めるように、ふわっと、頭に温もりを感じると、祖母が優しい声をかけた。
「リクくんには、もう後悔してほしくないから、自分に正直に生きなさい。自分に正直だと、神様も応えてくれるから。」
「うん。」
「そうねぇ、三狐神様あたりが助けてくれるかも。三狐神様は人間に近い神様だから、きっと努力する人を放っておいたりしないと思うわ。それから——。」
返事をしたのは自分に正直に、の部分だけだったが、これをきっかけに俺は我慢するのをやめた。後悔するくらいなら言いたいことを言ってやろうと。たとえその結果、痛みを伴うことになっても——。
* * *
顔に冷たい水の粒が当たる感覚がして、ゆっくり瞼を開けると、遠くからサァサァと水の落ちる音が聞こえた。
だんだん頭が冴えてきて、深呼吸をすると、ゆっくりと立ち上がった。
「う。あいつ、顔ばっか狙って。」
雨を避けるために足をよろめかせながら木の下に座り込む。不快感を拭うために、カバンの中に入ってあった水筒のお茶で口をゆすいだが逆効果だった。せっかく麻痺していた痛みが、また頬を突き刺すように帰ってきた。
「あー、最悪。」
こんなことなら関わらなければよかったと怨んでも、あそこで見て見ぬふりをしていたら、きっともっと後悔したと考えると、行動に移せてよかったと思う。あの少年が傷つくことも避けられたし、結果オーライ。
「うわ、この時間だと病院閉まってるよな。」
スマホで時間を確認すると、夕方の五時を過ぎていた。
雨が全身を濡らす不快感はあったが、家に帰るまでにわずかだが血が洗われて好都合だった。