鈴の効果
「え?」
その奇想天外な展開に眼を見開くと、痛む背中に構わず振り返った。
そこには黒いオオカミの妖異をフルスイングで払いのけるカンナビの姿があった。
どう考えても彼女が手にしている神具の用途として適切ではなかった。
カンナビは神具をゴルフバットのように振り回し、ひたすら襲いかかる妖異を物理的に攻撃していた。しかし、三対一では分が悪く、何度殴られても妖異たちは果敢にカンナビに攻め入った。
「う、く。」
カンナビが戦っているのを見て心が奮い立つ。今この場においては、俺が一番無能で役立たずだ。ただ守られているだけというわけにもいかない。
深呼吸をして全身に力を込め、うずくまるようになりながら片膝を立てた。
出血のせいか脳みそが回るような頭痛に襲われたが、眼を擦ってカンナビの様子を伺った。
「リクくん。」
ちょうど俺と目が合ったせいで、カンナビの顔がわずかにほころんだ。妖異はその隙を逃さなかった。
真っ黒な大口を開けた妖異はカンナビのスカートに噛みついた。
「カンナビ!」
俺はしゃがんだまま噛みついた妖異の尻尾を掴むと、引き剥がすように後方に引っ張った。
びくともしない妖異を蹴ってみても結果は同じだった。
「くっそ。」
他の二体は黄金色に輝く神具に噛みついているが、その攻防も長くは続かなそうだった。
何かできることはないかと辺りを見回すと、退屈そうな糸目が目に留まった。
「サグジ……!」
「なんや、おどれらでなんとかするんちゃうん?」
「それはっ。」
豪語しておいてこの有様じゃ、笑われても仕方なかった。なんとかするなんて具体性のかけらもない、自分で選択したその場しのぎの宣誓に苦しめられる。
それならもういっそ、とジャージのポケットに手を突っ込む。
「は、何しよん。」
馬鹿げた真似。でもその良し悪しを考えている暇はなかった。この鈴にカミサマを使役させるほどの強制力がないのもわかっている。それでも賭けずにはいられなかった。
「力貸せよ、サグジ!」
取り出した鈴を握ったまま妖異を抱え込む。妖異が暴れるたびに鈴は激しく音を立てた。
「アホか! 一日に何度も呼び出すな言うたやろ!」
心臓の鼓動が一際大きく鳴った。湿度と気温が高いはずの季節なのに、体が寒くて仕方ない。額から流れる冷や汗も止まらない。
緊張からくる吐き気に襲われ、咽せるように咳をこぼした。
違和感に気がついたのは三度目の咳が出たときだった。
「は。」
黒い毛並みに付着したのは真っ赤な鮮血だった。血はゆっくりと妖異に染み込んでいった。
その瞬間、ふと力が抜けた。
受け身を取り損ねて、地面に頭をぶつけた。
鼻や口の端を伝う生温かい雫は、鉄の味だった。
「はあ、はあ、は、あ。」
呼吸を一定保つことさえ難しく、逆流する血を飲み込んでも少しも楽にはならなかった。
カチカチと寒さで歯の鳴る音だけが聞こえる。
——何度も呼び出すなって、これのことか。
二回目に鼻血を出した際、なんとなく偶然ではないような気がしなくもなかった。
カミサマを呼び出す代償がちゃんとあったから、彼は扱いに気をつけるよう釘を刺したのかもしれない。
初めはサグジがただ人間に命令されるのが嫌なんだと思っていたが、言動とは反対に身を案じてくれていたのだろうか。
——勝手なこと、したな。
後悔してももう遅い。視界の端には重い血溜りができていた。
「村、まもん、なきゃ。」
とても最期に選ぶような言葉ではない。それでも、この後悔を残したまま祖母に会いに行くのだ。
……怒られてしまうだろうか。祖母に言われた後悔しない生き方はできなかった。それでも体を張って挑戦したことくらいは褒めてもらえるだろうか。それとも——。
「終わったで、早よ起きんかいダボ!」
「う。」
背中に衝撃が走った。その痛みで現実に引き戻されると、重い瞼を開けた。
西陽を反射させる地面に顔を顰めながらも、瞬きをするにつれ順応していく。
目が慣れてくると腕を組むサグジと、制服の汚れたカンナビだけが俺を挟むように立っているのが見えた。
「さっきの、妖異たちは?」
「ボケが寝てる間に祓たわ。」
「そう。」
安堵したようにため息を吐くと足を抱え込んでしゃがんできたカンナビに「リクくん、平気。」と、断定なのか疑問なのかわからない言葉を投げかけられた。おそらく後者だろう。
「ん、なんとか?」
自分でも生きているのが不思議だった。背中は変わらず痛み、貧血気味の頭も重かったが、吐血も鼻血もおさまっていた。
「なんで助けてくれたんだ? 鈴に呼び出し以外の強制力はないんだろ。」
「別に助けたわけやないけど、こいつが毎日豪勢なもん振る舞う言うたから。」
長い爪の生えた人差し指は、カンナビを指していた。
「がんばる。」
「あーあ疲れた。早よ帰んで。今日はカニやっけ?」
妖異に会う前は寿司を所望していた気がするが、もっと豪華な代物に変わっている。面の皮が厚いカミサマだ。
しばらく歩くとあぜ道を抜け、トラクターの跡がついた道路に出た。
「そういえば、なんで妖異たちは俺を狙ったんだ?」
心当たりがあるとすれば特殊な鈴を持っていることと、祠に触ったことだろうか。
「此岸にいる妖異は、自分より弱い人間を狙うから。精神が乱れると取り憑こうとしたり、殺そうとしたりしてくる。そういう存在。」
「あとは、視認できると寄ってくる。ツレや思うんやろな。」
「なるほど。なら視えるだけで戦力にならない俺は格好の餌食ってわけか。」
自分で言って虚しくなった。
「いっちょかみの凡人よりポンコツ巫女の方が心が凪いでんねん。伊達に巫女やってへんわ。攻撃当たらんけど。」
「機械みたいな喋り方はそのせいか。」
わずかに唇を尖らせたカンナビは何かいいたげな視線を飛ばしてきたが、瞬きをするとまたいつもの無表情に戻った。
そうこうしているうちにカンナビの家に着いた。格子のついた門を潜ると、石畳の先に大きな古民家が佇んでいた。どうやら家の裏に神社があるらしく、社務所と繋がっているらしかった。それにしても大きな家だ。サグジがかがむ必要もなさそうなくらい、広く高さのある玄関の前で、カンナビたちと別れた。怪我の心配をされたが平気と押し切って痛々しい背を向けた。
「じゃあここで。」
「ああ、また明日。」
カンナビを家に送り届けると、安心したのか背中の傷がじわじわと痛み出した。
歩けないほどではないが、三人でいたときより歩幅が小さくなった。
ここから家まで歩いて帰るなら三十分はかかるだろうか。最寄りのバス停で次のバスを待ってもよかったが、取り出したスマホには「17:36」と表示されていた。
バスの時刻表と照らし合わせると、早くて二時間後にしか来ないことがわかり、諦めてバス停を後にした。二時間待つなら歩いて帰ったほうが早い。
オレンジに染まっていた道路には、やがて青い影が落ち、汗を乾かすような涼しい風が吹き過ぎた。
日が長くなったな、とぼんやり考えていると、村を流れる川に架かる橋に差し掛かった。
欄干に手をかけて川の流れを眺めた。地元の子供たちが川で水を掛け合っていた。
「いやまだ寒いだろ。」
今日の気温に関しては長袖ジャージでもなんとか我慢できた。それなのに子供たちは半袖半ズボンで川に入り、無邪気な笑顔で楽しんでいた。
「あ。」
微笑ましい様子を伺っていると、足を滑らせた一人が肩まで水に浸かった。
そのまま体幹がブレたのか、梅雨の影響で水が増した川に消えていった。