黙示録 -η
「私が死なせてしまったことには、変わりないわ。貴方は、悔やんでもどうしようもないと言うけれど、どうも私は割り切ることができないみたい」
「でも」と、シーナは言葉を区切って、やや血の気の引いた顔をゼドに向けた。眼差しには哀を色濃く滲ませ、強く握る拳からは血が流れていた。
ゼドはそれを不思議に思った。
彼女の感情は豊かだ。豊かで、他者からの影響を受けやすく、脆いように見える。傀儡の心を持つゼドにとって、シーナの気持ちを図ることは難い。
なぜ、その瞳を潤ませる。
なぜ、その唇を噛みしめる。
なぜ、そんなにも苦しそうに言葉を紡ぐ。
なぜ。なぜ。……なぜ?
「ゼド、貴方ってとても優しいのね」
「違う」
反射のように首を振ったゼドは、小さく呟いた。
「……拾った野兎が目の前で野垂れ死ぬのは、後味が悪いからな」
ゼドが突然、遠くを見遣った。
「どうしたの?」
ゼド眼つきが一段と鋭くなる。
音に聡い彼の耳は、遠くから地鳴りのように轟く足音を捉えていた。
波紋のように、不穏な気配が地を染め上げていく。
「ちっ。群がってきやがった。おい、走るぞ!」
ゼドがシーナの腕を掴み、破竹の勢いで走り出した。
あまりにも突然のことに、シーナは死体に躓きそうになって、咄嗟に脚を大きく前に出し、その胴体を跨いだ。足を縺れさせながら、彼に引っ張られるがままにひた走る。
「なに! 何が起こったの?」
「魔物達がお前の正気に勘付きやがったんだ!」
角を曲がる途中、シーナは無理矢理上半身を捻って、背後を振った。黒い塊が荒浪のように押し寄せて来るのが見えた。目を凝らす。
「ひっ」
黒い靄と見紛うそれは、魔物や妖怪の大群であった。
巨大なかぎ爪と鬼の頭を持った、毛むくじゃらの蜘蛛。顔の潰れた鳥人。狂い叫ぶガーゴイル。大量の蝮と大型の鼠。我を忘れたケンタウロスに、口の裂けた妖精。
金切声と咆哮が入り交じり、恐怖を煽る。
「あっ」
人間の死体が、嘶く馬の蹄に駆飛ばされ、鞠のように転がった。悪魔の矛に突かれ、鰐の尾に横殴りに叩かれて、魚の頭に似た怪物の、大きな牙に胸を裂かれた。
腹から転がり出た腑が、原型を留めない無惨な肉片と化して、靄の中に吸い込まれるように消えていく。
なんて呆気のない──。
視線を引き剥がし、シーナは前を見た。不安定な砂利道を踏みしめ、足裏で強く押し返す。
年端もいかぬゼドの背中が大きく思えた。彼の掌と触れている部分が、手袋越しに熱を孕む。
未知な世界を逞しく生きる彼のことを知りたい。例え、残酷な事実を知ろうとも。平穏な未来が危機に晒されようとも。真実だと信じていた世界が壊れようとも。シーナは知りたいのだ。
すぐに呼吸が荒くなった。腕の付け根が痛い。足が回らない。
「走れ! 立ち止まるな!」
「走っ、てる、わ!」
ゼドが徐に指笛を吹く。数秒おいて遠くで生じた喧騒が、次第に近付いて来る。
一匹の狼が人や妖を蹴散らしながら、どこからともなくこちらに駆けて来て、二人の眼前に飛び出したかと思いきや、ゼドと並走しだした。首輪がガチャガチャと音をたてる。
「俺を犬みてえに呼ばないでくれる?」
「狼だろが」
ゼドとフェンリルが加速した。シーナは全くついていけない。
「遅い!」
「ひゃっ」
ゼドがシーナを担ぎ上げた。まだ小さな彼の体のどこにそんな力があるのか。同じ背丈の少女を抱えても尚スピードを落とすことなく、それどころか彼は更に速度を上げた。
「クソッ。羽衣が邪魔で前が見えない。破っていいか」
「そ、それはダメ!」
慌ててシーナが片手で裾を抑える。
韋駄天の如く駆ける二つの影が、アガルタの街を掻き乱しながら、消え去って行った。
†
その夜は、なかなか寝つけなかった。
聖水のシャワーで汚れを落とせば、水に溶けて流れる血に、人間の無残な最期を思い出した。食事は喉を通らず、ベッドに入って目を閉じれば、魔物の大群がフラッシュバックする。
シーナの正気を嗅ぎ取った魔物は、すぐに道を埋め尽くすほどの大群となった。自分達の圧で、潰される者もいた。踏み倒される者もいた。誰が死のうが、押し退け踏み越え、シーナに一直線に向かって来た。
ぞわりと鳥肌が立つ。
もう何度目の寝返りを打ったことだろう。頭は冴えるばかりだ。シーナは、またくるりと体を回し、寝返りを打った。
「お兄ちゃん?」
傍にゼドがいない。
インフェルノに来て七日が経った。二人は結局、大判のタオルケットに一緒に包まるようになっていた。最も、ゼドはシーナから一定の距離を空け、いつも背を向けて背を丸めているが。
シーナは、めいいっぱい腕を伸ばして確認してみるも、隣はもぬけの殻。跳ねるようにベッドから飛び降り、必死に彼の姿を探す。
「ゼド……」
月光が、開け放たれた大きな窓から差し込んでいる。蒼く、冷たく、翠に、柔らかく。零れ落ちる砂糖で仕立てたベールのように、光波が紗を織り成し、彼の輪郭を淡く縁取って、そこに新しい美を設えていた。
ヘヴンでは醜いと下卑されるであろう彼の美しさは、開闢より謳われていた普遍的な美を打ち砕く。
神にしては禍々しく、胸襟に翳を隠伏し、深淵の片鱗を窺わせる。
ゼドは、テーブルに足を置き、積み上げた書籍を椅子代わりにして、降り注ぐ光の波濤を浴びて、ひとり静かに座っていた。
その燦爛たる光景と、玲瓏な姿貌は、絵画のような優しく繊細なタッチでシーナの眸に映る。
肘に体重を預けた姿勢のまま、彼がシーナの方を向いた。丹花の唇は冷たく弧を描き、伏せられた瞼が、紅玉の虹彩を半分ほど隠して、ゆっくりと胡乱げに瞬きする。薄闇の中、蛇眼が放つ紫電が、意識ごとシーナを呑み込んだ。
「眠れないのか」
「ええ……」
惚けたように、彼に魅入っていたシーナは、一拍遅れた返事を返す。
「羊の数を数えるといいぞ」
「羊?」
「生贄の羊が、一匹、二匹……って頭の中で、羊の首を落としていくんだ」
「それ、本当に眠れるの?」
ゼドは片手で開いていた本を閉じた。青白い光に照らされ、浮き出た題名は、見たことがない文字の羅列。
「何を読んでいるの?」
「孫子だ」
「何の本?」
ゼドが、にやりと口端を持ち上げた。
先程までの圧倒的な気高さは鳴りを潜め、冷酷さの垣間見える、悪戯な表情。
「効率的な、人の殺し方」
思わず顔を引き攣らせたシーナを見て、彼はけらけらと笑った。
「嘘、冗談だよ。これは、生きる為の知恵の結晶さ」
その言葉を易々と鵜呑みにできないのは、ゼドの眼が笑っていないからだろう。
彼はその膨大な知識と底知れぬ智略とを用いて、ヘヴンを壊す気なのだろうか。そもそも、ゼドやフェンリルを忌み子たらしめたのは、何の所為なのか。
いや、在りはしないのだ。
ただ邪神に生まれたというだけで、本来彼らは罪など犯していない、無辜だったのだ。
これも、ヘヴンの奸計なのか。シーナの中で、猜疑の繊翳が燻り始める。
思案顔のシーナを、ゼドが横目で掠め見た。
「眠れないなら」
立ち上がったゼドが、窓を開け放った。
「いいものを見せてやる」
泡色のカーテンが風を含んで、大きくはためく。それは、雄々しい翼を持つ、龍の背を思わせた。
その背に乗って飛び立つ先には、素晴らしき大海がシーナを待っている。そんな気がしてくる。
「来るか」
ゼドが、控えめに手を差し伸べる。シーナは躊躇なくその手を取る。
ゼドの視線が、自分の手を握るシーナの手へと移り、腕を伝って、首筋を撫でてから瞳へと這うのが判った。珍妙なものでも目にしたかのような、一抹の驚きを含んだ視線を受け止め、シーナは真っ直ぐにゼドを見つめ返した。
普段通りの、愛想のない仏頂面。感情の褪せた表情に、少し本物の微笑が滲んだ気がして、シーナは彼の顔をまじまじと熟視した。
ゼドが首を傾げる。シーナはにこりと笑って、静かに首を振る。
見間違いかもしれない。虚仮の可能性もある。しかし、本物だったような気もする。期待する心を、そっと仕舞い込んだ。
彼に導かれるまま、シーナは外に出る。
「わあ……」
感嘆の声が洩れた。
シーナはその大きな瞳を殊更丸くして、ただひたすら、新世界に抱かれる感覚を享受した。
***
シーナが死体を跨ぐシーン。
「寝転がる人を跨いではならない」迷信として知っている方いらっしゃると思います。
跨いだら二度と起きれない、という結構厳しめな話もあるらしいですね。