黙示録 -ζ
シヴァが彼を諫めようとするも、一度沸点を越えた彼の憤怒が収束するのは暫く先である事は、長い付き合いだ、誰もが分かっている。激した声は更に棘を含み、シーナの目を覚まそうとするが如く頬を打つ。
「聞いたところでお前に何が出来る。知ってたんだろ? 外には曠しく荒廃した土地がある事、貧困が多くの神と人間の生活を蝕んでいる事ぐれえはさ。俺達が可哀想だと思うなら、それ相応の態度を取るべきだった。救いたいと思うなら行動をすべきだった。お前は俺らの為に何かしたのか?」
「ごめんなさい。……私、知っていても何もしなかった。今だって、何もできやしないわ……」
「そう言う事だ。口先だけの役立たずはすっ込んでろ」
「言い過ぎだ」
禍津が会話に割って入った。
「娘、お前が謝る必要はない。そもそも、ここにいる者は誰も、インフェルノに生きることを憐れんで欲しいわけじゃないからな」
俯き加減になっていた顔を少しだけ持ち上げて、シーナは禍津を見た。
なんて強かな眼差しなのだろう。
シーナと同じ色の黒い眼は、様相を全く異にしていた。冷厳で、雅量に富み、それでいて隙がない。その瞳が真っ直ぐにシーナを見てくるものだから、視線に心の臓を貫かれ、宿した焔に身を灼かれてしまいそうだ。
「幼さ故の無力、非力故の不能は、娘の罪ではない。誰しもが経験することだ。今必要なのは、その気持ちを堪え、決意と共に胸に秘めることだ」
シーナは熱を持った目頭に力を入れ、唇を噛む。喉に力を入れて嗚咽を封じて、席を立った。
「わ、私……ちょっと御手洗い!」
逃げるかのように、小走りで去っていったシーナの背中をちらと見ながら、シヴァが入れ替わるようにテーブルに近寄って来た。
「フェンリル、あんたってば言葉がきついんだから気を付けなさいよ。どんな理由があっても女の子を泣かせた罪は重いわ」
彼女はいつの間に衣装変えを済ませている。魚の鱗を縫い付けた絢爛な衣装は、光の加減できらきらと色を変えた。纏う香りも先程とは少し違う。より強く、より甘い、ひとを誘う薫香だ。
呆れたシヴァはフェンリルの組まれた足先を、ヒールの先で思い切り蹴り上げた。膨れっ面のフェンリルの表情が痛みに歪む。
「痛っ、てめえ」
「大事なところ蹴られなかっただけ、マシと思いなさい」
「女の子の涙は、湖いっぱいの聖水よりも尊いのよー?」
ふわりと舞う綿毛を思わせる女性が、シヴァの背後から顔を出した。柔和で寛雅な雰囲気がある。
「ルーシー」
「ゼド、フェンリル。会えて嬉しいわ」
シヴァと色違いの派手なドレスを着ている彼女は、吸血鬼だ。蒼白にも近しい白肌、勘の鋭そうな知的な眸。紫がかった口紅が、薄闇の中で緩々と角度の甘い曲線を描く。
「あの子、階段の方に走って行ったけど大丈夫かしら」
「知るかよ。お守りなんてできるかっての。勝手に食われりゃ良い」
「あんたねえ」
がた、と椅子の脚が、床と擦れて大きな音を立てる。立ち上がった少年の顔を、フェンリルはまじまじと見る。
「何してんだ」
「迎えに行く」
恬淡とした口調からは、何の感情も読み取ることはできない。
「勝手にしろ」
詰るような声音だ。
ゼドはそのまま店の外へ出て行った。彼の飲みかけの酒を、フェンリルが奪って一気に飲み尽くした。
シヴァは出番なのか、店の奥の舞台袖に上り、ミラーボールの光と客からの歓声を浴びている。
「外は昼夜問わず蛇蝎磨羯の類がうじゃうじゃいるんだ。ゼドが行かなかったら本気で食われるぜ」
高尚な笑みを浮かべ、オルクスが新しいシガーを口に咥えた。ルーシーがマッチを擦り、手を添えてそのV字の先端が焦がしてやる。芳醇なアロマの薫りが、煙と共に立ち昇った。
「丁度良い。俎上の魚は、情が湧かないうちに早めに切り捨てるべきだ」
「おい嫉妬か? みっともねえぞ」
「あ? 何が悲しくて嫉妬なんてするかよ。ゼドがやられようが何されようが俺には関係ねえけどよ、見ててイライラすんだ。あいつはゼドの弱点でしかないのに」
フェンリル。
涼風を思い起こす、落ち着きある低い声が名を呼んだ。踊り子の為の音楽と周りの喧騒がふっと遠のいた。静寂は今やただ、彼が言葉を紡ぐ為だけに訪れている。
「守るべき存在は神や人の弱点になるのではない。守ろうとする者を強くするのだ」
†
晩鴉が栖鴉の周りで旋回している。
地下街であるはずのアガルタの天井は、まるで外界の空のようだった。今にも雷鳴轟きそうな曇天が、遍く広がっている。灰白色の天井をゆっくりと浮遊する雲は、躙る物怪にも見える。揺籠にぶら下がる玩具に似た月は煙霞に捲かれ、舞い上がった塵埃は星屑の風をして煌めいていた。
「飛び出してきちゃったけど、早く戻らなきゃいけないわよね……」
潤んだ瞳はもう乾いた。
咄嗟に店を飛び出してしまったが、少し歩いたところですぐに独り歩きはまずいと気付き、シーナは店に戻ろうと身体の向きを変えた。その一歩踏み出した瞬間、突然足に何かが絡まった。バランスを崩したシーナは転倒する。
膝を擦りむいた。血が滲む。
シーナは上半身を起こし、振り返った。
暗がりから伸びた、骨と皮だけの枯れ枝と見紛う手が、彼女の足首を掴んでいた。咽喉から引き攣った短い呼吸が洩れた。
もぞり、もぞり。
陰影が揺れ、彼方側に引き摺り込もうとしている。
恐怖に呑まれて固まるも、はっと我に返ったシーナは、その手を振り解こうと足を我武者羅にばたつかせた。
「いや! 離してっ!」
必死の抵抗虚しく、飛蝗のように飛び上がったそれはシーナの上に躍りかかってきた。ごろごろと地面を転がりながら揉み合う。泥水が撥ねて頭が濡れた。砂利が口に入ってくる。
攻防戦の末、仰向くシーナの上に再びそれが乗り、首に噛みつこうと口を開けた。顔が近付いて、シーナは気付いた。
「人、間……?」
身が竦んだその矢先、シーナを抑えつけていた重みが消え、鈍い音と共に人間は数メートル先の壁に激突した。
眼前に鈍色の空が現れ、暫し状況を飲み込めなかったシーナは手をついて身体を起こし、面相を変えた。
血飛沫が辺り一面を彩り、人が亀裂の走る壁に磔にされて気を失っている。否、息をしているのかすら定かでない。
「死んで、しまったの……?」
「ああ」
めりめりと砂煙を立てて、壁から屍が剥がれ落ちた。落下音は虚しい程に軽い。
「これ、人間なの?」
「ああ」
それは、人間と判別し難い様相をしていた。骨と皮だけの四肢と肋骨の浮き出た腹が雑巾の様な服から覗き、雲脂と蝨の目立つ乱れ髪から窺える顔は髑髏に近い。頬は痩け、目は落ち窪んで、乾燥した皮膚は元の和肌を忘れ、劣化が激しかった。
愕然とした。頭の芯が痺れる。
シーナは発する言葉を失い、へたり込んだまま、ただそれを眺めるだけに止まった。
「これが? そんな……」
現実を受け入れられないシーナは、人を殺めたとは思えないほど平然としているゼドを見上げた。
「まだインフェルノを理解していないようだから言っておく。ここでは、一歩間違えれば人も神も簡単に死ぬ。生と死は隣人だ。俺達もまた然り。傍らには常に、死が佇んでいる」
こともなげにそう言い放ったゼドの表情には、何の感情も見受けられない。それどころか、死体には見向きもせず、落ち着いた様子で、服に付いた土埃を払っている。
「でも……罪を犯した人間だからって、こんな苦しみ方をして良いはずがないわ。飢えるのって、本当に辛いのでしょう?」
「死んだ奴の境遇に惆悵したところで、気が滅入るだけさ。躊躇も哀惜も要らない。自らを生かすのは『生』への執念、ただそれだけだ」
力の上手く入らない脚を動かし、シーナは恐る恐る屍に近付く。力なく地に横たわる手を胸の上で組ませ、瞼を閉じてやった。腐敗している訳でもないのに、その衰弱しきった肉体からは、鼻の曲がる臭いがした。
シーナは、冷や汗が背中を伝っていたことに気が付いた。震えの残る頤を引き、深く息を吸い込んだ。
瞑目する。
きっと、彼の言う通りなのだろう。
ヘヴンの常識が通じない世界で、己の無力さに嫌気が差した。無知が羞恥を煽り、自分の存在がひどくつまらないものに思えた。発する言葉の、なんと薄っぺらく浅はかなことか。
シーナが一人で外に飛び出さなければ。この道を通らなければ。ちゃんと自力で逃げ切れていたら。この人は死なないで済んだのかもしれない。しかし、死んだ者は戻らない。救おうと差し伸べても、掌から零れ落ちた生命の砂はもう、掻き集めて器に戻してやることは出来やしないのだ。
「何度も言うようだが、気に病む必要のないことだ。禍津さんも言っていただろう? こいつも、数日ほど死期が早まっただけさ」
膝をつくシーナを、ゼドは見下ろす。
優しい言葉に見えて、ひどく冷たい台詞であった。そして、彼がシーナの為にこう言っているのではないという事実にも、やるせなさが募る。