黙示録 -ς
「ほんっと、懲りねぇな」
「あの人いっつも女の尻ばっか追い回してるから忘れるけど、元は人間のお偉いさんだったんだろ?」
世も末だな、とフェンリルは注文したカクテルを掻き回しながら言う。ゼドには無花果酒が、シーナには林檎のジュースが出された。
「菅原殿に何か用があったのか」
「倭の神ならこいつのインフェルノでの生活の助けになる知恵の一つや二つ、持ってるかと思ってな」
ゼドはシーナを顎でしゃくってから、禍津を正面から捉えた。
「でも、出直す手間は省けたようだ。ここならシヴァ達もいる。同じ女に任せたほうが良い事もあるだろうし」
皆の視線が、シーナに集まる。彼女は初めて出会った飲み物の流動をじっくり観察し、匂いを嗅いでいた。それを、傾けたグラス越しにゼドは見る。何事も経験だ。新しいことを知る快感と、それに溺れる悦楽は、人を、そして神をも変える力を持つ。
頬杖をついて彼女を眺めるゼドの関心は、善神への興味へとすり替わっていた。
このまま悪を食めば、神聖を吐ざく神は堕ち、邪神に成るのだろうか。
こんな純真無垢な少女の身の内を、欲望と言う名の怪人が闊歩するようになるのだろうか。
──さすれば、この子はここにずっと居られるのだろうか。
「嘗めてみろよ」
さぁ、舐めてみろ。飲み下せ。渇きを癒し、誘惑の味を識れ。
おっかなびっくり、彼女は勧められるがままに硝子の縁に唇をつけ、煌めく黄金の液体を慎重に流し込んだ。
唇が濡れた。
喉が上下し、その果実の甘みを存分に賞翫した後、嚥下する。
途端、彼女は幸せいっぱいの笑顔になった。
「美味しいわ! お兄ちゃん、私これ好き!」
「な? 美味いだろ」
「うんっ。林檎? と言うのね。とっても美味しい果物ね」
ゼドは心中で嗤う。
侮るな。一度甘い蜜を啜れば、快楽がお前を欲望と懶惰渦巻く海へと誘うだろう。
こんなことを口走れば、フェンリルと同じレベルだ。そう思い直して、舌先にまで乗ったそんな稚拙な言葉を、ゼドは渋面で無花果の酒と共に飲み込んだ。
「可愛らしい嬢ちゃんだ。ヘヴンに返すのか?」
オルクスが眦を下げて問う。
「ああ。こんな使えねえ奴はさっさと楽園《ブタ箱》に返してやった方が良い。掃除も洗濯も下手糞、料理も滅茶苦茶。とんだ能無しだったぜ」
「慣れりゃ出来るようになるだろ。フェンリル、お前が教えてやりゃ良いじゃねえか」
「御免こうむるぜ」
フェンリルが吐き捨てた。
「しっかし、残念だなぁ。この子、成長したら相当な別嬪になるぞ。勿体ねえ」
オルクスはシーナを随分と気に入ったようだった。にこにこと屈託なく笑うシーナの頭を、腕を伸ばして撫でてやっている。
シガーを優雅に嗜むこの似非紳士、軽口を叩いて酒を片手に歓談を愉しみ、人畜無害な振りをして少女を可愛がっているが、歴とした死神である。加えて、彼の本性は性格の悪い加虐嗜好者ときた。恐ろしい男である。
高慢と不道徳のマントを羽織れども、意思なき強慾の手には下らず、紳士《いい男》の体裁で本性を覆い隠した、食えない邪の者。彼の優しい甘言の裏には、人を讒る腹心が張り付いている。
オルクスと酒を酌み交わしていた着流しの男が、椅子を回した。羅宇を持つ無骨な手が、煙草の火皿から灰を叩き落とす。
「俺は禍津日神の化身だ。この名を聞いたことはあるか」
「ええ、勿論。有名神だもの。でも、まさか本物に会えるとは思っていなかったわ」
赤子がするように、好奇心に促されてシーナが彼に手を伸ばした。
彼の逞しい肉体が正絹の着物と共に纏うは、一切隙の無い気配。正に、《《洗練》》の二文字が似合う。
紫紺の前髪から覗く、引き締まった面に嵌め込まれた切長の黒い眸は、漆のような黒。吸い込まれるほどの黯黮が、その奥に静かに沈んでいた。シーナと同じ色彩でありながら、全く異なる炯眼。一目で玄人の眼だと分かる。
禍津が、誰にも悟られぬほど微小な単位を後退った。それでも尚、伸ばされた彼女の指先が、彼の袖にそっと触れる。
「なんだ。やっぱり死なないじゃない」
「死ぬ?」
「ヘヴンでは、貴方に触れると生気を吸い取られて死ぬって噂があるのよ」
それを聞いて、真っ先にオルクスとシヴァが吹き出した。
「やるなぁ、立派に悪名轟いてるじゃねえか。流石、八百万もいる倭の神の中で唯一悪に選ばれただけある」
オルクスが禍津を肘で小突くと、禍津は煙混じりの小さな艶笑を零す。
「荒御魂の宿命だ」
禊に依て、削がれし黄泉の穢れ。それが彼の魂の源である。
畏怖の念の多さは邪気の濃さ、邪気の濃さは邪神の強さ。禍津は、インフェルノに集う荒くれ者の神々の中でも指折りの武神であった。
「羽衣が少し傷んでいるな。向こうで聖水は使っていなかったんだろう? 時々俺の所に来ると良い。清めの水がある」
「いいの? ありがとうっ」
「倭の神は繊細だなあ」
オルクスがしみじみと言う。
それを横目で見ながら、ゼドは酒を呷った。無花果の糖分が、身体の隅々まで染みてゆくのをゼドは感じていた。
シーナの羽衣が傷んでいた事に気付かなかった。内から外に出た環境の変化は、幼神のものでも頑丈な筈の衣を、解れさせるほど刺激的なものなのだろう。
「お前も、ヘルヘイムから聖水を引いてんだっけ?」
オルクスがゼドを見る。
「ああ。アンラ達に無料でやって貰った。代わりに喧嘩の片棒を担がされたが」
「そりゃいい。嬢ちゃん、ヘルヘイムって分かるか」
シガーを持つ手の手根に顎を乗せ、ぼんやり会話の応酬を見守っていたシーナに、オルクスは水を向けた。彼女は首を横に振る。
「ヘルヘイムってのは」
とんとん、と彼の磨き上げられた革靴が床を軽く叩く。少しだけ土埃が舞った。
「この地下歓楽街アガルタの更に下。地上から数えて第三の層のことだ」
ヘルヘイム。霧に包まれ、死の瘴気が漂う層。そこには、煮え滾るフウェルゲルミルの泉があり、そこから幾数もの川が流れ出ている。勿論、人間がそのまま飲めば即死だ。多くの神はそこから水を引いて、少しばかり手を加えて聖水《飲み水》にしていた。その手法が違えば、禍津やシーナが好む清めの水となる。
「ヘヴンから見放された土地とは言えど、奴等はインフェルノを監視している。変な動きがあれば、反乱因子として処分する為にな。だからインフェルノの民は、地下へとその活動領域を広げていった」
オルクスの胸糞悪い紳士顔が歪む。筋肉の詰まったシャツにベストを羽織った正装じみた格好は、意地悪な憫笑を余計、底気味の悪い表情に見せた。
「悪が集えば其処は地獄と化す。見ての通り、アガルタはこの様さ。傲慢な輩が威張り散らし、魂を貪り食い、嫉妬や憤怒の感情を露わにする。強欲に塗れ、怠惰に溺れ、色欲に溺れて澱んでいる。ま、俺はこの腐った空気が心地良くて堪らねえがな」
「悪趣味な」
「お褒めに預かり、光栄です」
年甲斐なく楽しそうに話すオルクスを見て、禍津は眉尻を下げる。
「堕ちていく奴らを眺める、あんたの嬉しそうな顔は気色が悪いって言ってんのよ」
遠くからシヴァが口を挟む。
「お前だって滾るだろ? 淪落は無性に俺達邪神の身体を悦ばせる。最早、細胞にまで根を下ろした宿痾に等しい」
あの、とシーナがおずおずと口を挟む。
「かんし? しょぶん? って一体何のこと……」
「ああ、嬢ちゃんはまだ知らなくていいことだ」
オルクスの見せる優しさは、その裏返し。加虐嗜好者の思考回路は理解したくもないが、彼の行動の意図をゼドは汲むことができた。オルクスとゼドには似通った所があると、以前フェンリルが言っていたが、その所為だろうか。
優しさと言う線引き。思い遣りと言う名の牽制。守る体裁を繕っては、突き放す。
「で、でも」
「後悔するぞ。ヘヴンに帰ればもう交わらぬ世界だ」
「ヘヴンは貴方達に酷いことをしているの?」
「やめとけ」
ゼドもやむなく忠告を入れた。
「私、知りた……」
じっと会話を見守っていたフェンリルが、拳をテーブルに打ちつけた。どんっ、と大きな音が鳴って、皆が静まり、彼を見た。
シーナなど、肩をびくりと飛び上がらせ、目を丸くしてフェンリルを凝視している。シヴァが奥から文句を言っている声が、やや場違いに聞こえる。彼の握るグラスからは、氷で薄まった橙の水が溢れ、テーブルを濡らしていた。
「だからヘヴンの奴は嫌いなんだ!」
狼が少女に牙を剥いている。
狼と少女の話が、何処かの民話にあるらしい。狼に誑かされ、自分の祖母の血と肉を食わされた少女は、裸にされ、狼の餌食にされかける。命からがら逃げ出した彼女は、後に狼を殺すらしい。皮肉な童話だ。話してくれた女人の罪状は、その残酷な内容を語った罪禍だと言う。
──狼に気をつけろ。
そんな教訓を反故にした代償は、きっと大きい。その身に纏う衣を赤く染め上げられなくなかったら、彼女を追放すべきではなかったのだ。
「糞みてぇな善人面しやがって。安穏とした暮らしの中で本当に脳味噌がピーナッツになったようだな」
「ちょっと、あんた、落ち着いてよ」