黙示録 -δ
彼の言辞は少々意地悪で、一言一句が鉛のように重い。でも、真実をありのまま伝えてくれていることが分かるから。はぐらかさず真っ直ぐに向き合ってくれるから、信用に足る重みを伴うのだと、シーナは思った。
「何故、ヘヴンのお偉方の言葉を鵜呑みにする。何故、誰も己の目で見定めようとしない。それが真実だという保証は何処にもありゃしないっつーのに」
隣のゼドは無言で肩を竦め、空いた食器を重ねて、フェンリルの横を通って台所へ向かってしまう。
「奴らはまるで、世界掌握の権限を我が物顔で振り翳す羊飼いだ。柵の内に飼ったお前ら羊の脳をじわじわと溶かしてやがる。奴らの澄ました貞操面の皮を剥いだらどうなるか。残るのは腐りきった土地と頭が空っぽの人間だけさ」
──見物だと、思わねえか。
ヘヴンを嘲弄する野次を並べ立て、悪人面でにやつくフェンリルの灰茶色の頭を、水を拭ったばかりの手が軽く叩く。
「こいつに言ったってしょうがないだろう。子供じみた真似をするな」
「ひどーい。俺、お前より歳上なのに」
「だから言っている」
「フェンリルって、幾つなの?」
神の外観と年齢は、必ずしも一致することはない。故に、神の力量を見た目で判断されることはない。そんな真似をするのは人間だけだ。
「俺はもう、だいぶ生きてるぜ。変化も何度かした」
「背は伸びなかったけどな」
「うるせえ。お前こそこのまま変化が来ずに、その幼稚な姿のまま一生過ごすかもしんねえじゃねえか」
変化とは、人間で言うところの成長である。数日から数十日と期間は又々だが、その短期間で神の身体は目に見えて変化する。それも、単に大きくなるだけではない。角や牙、翼が生えたり。雄々しい尾が伸びたかと思えば、腕や脚が数本増えたりもする。中には完全な獣になったり、稀に性別が変わる者もいる。急激な変化に肉体が耐えられず、死ぬこともある。
変化は増大した力の証だ。そもそも神は基本的に、人間の願いが形を成したものである。人間に似た外見を取るのは至極当然の流れであり、認知されればされるほど、その神に対しての信仰や畏怖が彼らを成長させる。
因みにゼドは、生まれて間もない頃に毒牙が生えたきり、一度も変化していない。
「話が逸れたが、ゼド。こいつはお前の弱点だ。いいか? お嬢ちゃんを拾う選択をした時点で、お前は負けなんだよ、負ーけ」
尖った爪先で指差しされたシーナは、丸椅子の上で居住まいを正した。
「俺は負けない」
「んなこと言って、食い殺されたら洒落にならねえぞ。まだこの前の報酬を貰ってねえんだ。今お前に死なれたら困る。おい、お嬢ちゃん。あまりに目が余る様だったら、俺が直々に人食いの森に放っぽってやっからな」
「連れていかれないように頑張るわ」
意気込んだシーナは、にっこりと笑う。意図を掴めぬフェンリルは、そのただの笑顔に、僅かに臆した。
「フェンリルって、お兄ちゃんのことが大好きなのね」
「ば、馬鹿、お前、何言ってんだ」
顔を赤らめ、一人であたふたとするフェンリルを冷めた目で見ていたゼドが、静かに彼女の名を呼ぶ。彼は静寂そのもののようであった。
「この金で、メモに書いてあるものを買ってこい。できるな?」
「ええ」
硬貨数枚と紙の切れ端を預かり、意気揚々と戸の奥に消えた彼女の後ろ姿を打ち見て、何か言いたげなフェンリル。それを察して、ゼドは問われずして答える。
「陽が出ている間なら、大通りまで一人でも外に出している」
「ひと暴れでもしたのか」
「暫く奴らはこの辺りに顔を出せないはずさ」
「お前……」
インフェルノでは其処彼処に魑魅魍魎が蔓延り、常に危険が潜んでいる。
山に迷い込めば、巨人や食人木が騙し喰らおうと囁き掛けてきて、河海に近寄れば、堕ちた人魚や呑舟の水の精が海底に引き摺り込もうと、手脚を掴んで来る。野には美しい死の華が咲き乱れ、妖と悪魔が空を飛翔し、路傍には屍と飢渇に苦しむ玉響な命が青息吐いて輾転していた。
闇と邪気とが繚乱し、岩の緑陰や地下の闇、路地裏のから魔の手が忍び寄る。そんな無法地帯に彼女を一人行かせた途端どうなるか、結末は目に見えている。
予め面倒事は取り除いて置こうと、ゼドは屋敷の周辺の魔物を追い払っておいたのだ。
「まあいい。それよりゼド、例の件だが」
呼ばれて顔を上げたゼドの頬から、するりと嬌笑が抜け落ちた。いつも通りの、澆薄な無表情である。端正な目鼻立ちをした顔が表情を無くすと、余計凄みが増す。
紅玉の瞳が、フェンリルの金眼とぶつかった。
「またか」
「ああ」
ちっ、とゼドが忌々しげに舌打ちをした。
金に目が眩んだ商人が、インフェルノ相手に闇取引をすることも珍しくはなくなった。ただ、懸念すべき点が一つ。近頃、阿片に苦しむ人間が日増しに増えてきたのだ。つまり、闇取引に手を出した商人の中に、阿片を流す輩が出てきたということである。依存してしまえば最後、もう阿片なしには生きられない身体になるのだ。中毒者は次第に価格が高騰するにも関わらず、薬に侵された者はそれを欲せざるを得なくなる。無論、インフェルノに住む人間に、金を払い続ける底なしの懐を持つ者などいない。日増しに中毒者が増え、そして死んでいく。厄介な事態である。これこそ悪の諸行と言わずして、何と呼ぶのだろうか。
「また掃溜の腐敗が進むぜぇ。薬に溺れた風狂が、今に喪屍と化して陋巷を徘徊するようになる」
フェンリルがぼやく。
「ただでさえ、喪屍に屍食鬼、ホムンクルスが彷徨いてるってのに」
「気の狂った人間まで居座られちゃ、正に地獄絵図だな」
明日生きるか死ぬかの渦中に身を置く者達から根刮ぎ金を収奪し、内では手に入らぬ資源を鹵獲する。後者は想像に難くないが、前者はどうだ。骨までしゃぶるつもりか。
「何か引っ掛かるんだよな……」
苛つくフェンリルの爪がテーブルを引っ掻いた。テーブルに、深い五本の線が刻まれた。
魔獣の食糧は、人間や神が食する動物や作物だけでは無い。インフェルノでは弱肉強食の食物連鎖が立派に成り立っており、雑食の彼らは怪物や妖怪の喉笛に容赦無く喰らいつく。
ゼド達邪神もよっぽど飢えれば仕方なしに魔物を食べるが、人の容をした神の味覚は人間に近しく、好んで食べる事はなかった。牛や豚の皮膚とは比べ物にならない程硬い皮はゴムのような食感で、生臭い肉を飲み込めば共に濁った瘴気まで嚥下する羽目になる。間違って血液が緑色の魔物にでも牙を立ててしまった日には、最悪の気分になること間違いなしだ。
要するに、魔獣は間違って薬漬けになった命を食べないよう、注意せねばならない。彼はそれを懸念しているのだろう。
「インフェルノの莫大な人と神の数を逆手に取って小遣い稼ぎをするならまだしも、罪人共を薬漬けにして何の意味がある。効率が悪すぎる」
ゼドは顎に手をやり、怪訝な面持ち。
フェンリルも口を開く。
「ヘヴンで後ろ指を指されないが為とは言え、インフェルノに裏門から立ち入る事自体、暴露たら一大事なはずだ。何故そんな危険を冒すのか」
「普通に考えれば、まずおかしい」
フェンリルが肯く。
「ここまで来ると、高が商人の蛮行と、悠長に傍観してる訳にもいかなくなってきそうだな」
面倒事を懸念したフェンリルの顰めっ面の眉間に、数本の深い皺が刻まれた。
「この話も含めて、一度イブの所に行くかな」
ゼドがそう言うと、フェンリルが首を横に振る。
「今は近寄らない方が良いぜ。赫とドゥルジの喧嘩に巻き込まれたらしくて、イライラしてる」
「また喧嘩をしているのかあそこは。アンラの奴、部下を放ったらかしにしすぎだ」
ぎぃ、と戸が軋んで、少女が顔を覗かせた。
フェンリルの顔付きが、パッと胡散臭い笑みに変わる。
「生還おめでとう、お嬢ちゃん。買ってこれた?」
「ええ! 見て見て、ほら」
「ちゃんとお使い出来たじゃん」
「でしょう?」
胸を張るシーナは、自慢げに買ってきた紙袋の中身をフェンリルに見せた。
「何、酒とチーズなんて買って。あんな奴らに気を使う必要ねえだろ」
二人の顔の横から延びた手が、袋に突っ込まれ中を弄る。
「ご機嫌取りも悪かないさ」
取り出されたのは、丸々と肥えた林檎。
ゼドが口をあけた。長く細い舌が見える。後方に反った、大きく鋭い牙が林檎を噛み砕いた。赤い皮が破れ、牙が果肉に突き刺さる。胸焼けしそうなほど甘い芳香が、口許から溢れてきた。
「面白そうだろう。それで良いじゃないか」
ひとり状況の掴めぬシーナだけが、きょとんとした顔で小首を傾げるのだった。
†
東雲の空が放つ幽けき光が及ばぬ、深い暗晦が広がっていた。
「此処は……」
「下水路だ」