黙示録 -γ
「嗚呼……俺の心のなかを、蠍がいっぱい這いずりまわる!」
満員の劇場が高揚感に満ち、舞台が最高潮に達する情景を思い描く。文献に綴られていただけの《《劇》》という文字が戯曲から抜け出し、まるで実際に体験したかのような臨場感を伴い、衝撃の渦潮となってシーナを襲った。
「──ってな」
目元を覆っていた指の狭間から、茶目っ気たっぷりの赤い眼が覗いていた。科白を諳んじる彼は、煽情的で婀娜っぽい。
一拍遅れて、ゼドの魅せる舞台に惚けていたシーナが、爛と目を輝かせた。
「すごいっ! はじめて劇を観たわ!」
「そうかよ」
照れた顔を隠しながらゼドが忍び笑う。やっと見せた、少しだけ少年らしい表情に、シーナはゼドの顔をまじまじと見た。
平積みされた本の表紙が埃を被って霞んで見える。そこに光が差して、金字のタイトルが浮かび上がっていた。
本にばかり気を取られていたシーナは、やっと部屋をぐるりと見渡した。曲線の目立つ部屋だった。部屋に入って正面には、大きな硝子窓。端々に亀裂が見受けられるも、室内にたくさんの光を連れ込んでいた。左手には背の高い本棚と、そこに収まりきらなかった本の山。端の方は崩れている。その傍らに木製の椅子が一つ。
反対側には、明らかに何処からか引っ張ってきたと分かる水道と、ガラス張りの簡素なシャワールーム、そして猫足のソファが無造作に置かれていた。部屋の隅には分解された機械と工具が転がり、天蓋が引き千切られたベッドには、医学書らしき本が見開きをうつ伏せにして置いてある。
「この部屋しか使っていないの?」
「ああ。十分事足りる。塒にしている場所は、他にもあるからな」
シーナは、ゼドの表情が元の仏頂面に戻ってしまったことが、残念に思えてならなかった。
「俺は寝る。シャワーを浴びろ」
タオルと石鹸が放られ、シーナは慌ててそれを受け取った。橄欖の香りがした。
ゼドはソファに身体を預けると、腕を枕にして目を閉じてしまう。暫時そこに立っていたシーナは、躊躇いがちにシャワールームの扉を開いた。ぎぃ、と引っ掻いたような不協和音が鳴る。
「透け透けだわ……」
羽衣を肩まで下ろして、もう一度振り返る。彼の銀灰色の髪と背中が見えた。配慮してくれたのだろうか。無愛想だが、優しい人だ。
固いシャワーの蛇口を捻る。
「冷たっ」
シーナは思わず小さな悲鳴をあげた。冷水が、頭から爪先までを一気に濡らす。思考が冴えてくるようだった。
インフェルノに来てしまった。そんな現実を今更ながら自覚する。
「ちゃんと帰れるのかしら……」
暢気な性格の彼女は、未だインフェルノの過酷さと事の重大さを理解してはいなかった。
†
結論から言えば、彼女は役立たずだった。
「何でもするってよく言えたな」
「しようと思ってはいるんだけど……」
しゅん、と首を垂れるシーナ。ゼドは目の前の昼食に視線を落とした。焦げたパンと形の崩れた炒豆のスープ。固化してきている上に粘性まで窺えるが、果たして腹を壊さず食える代物なのだろうか。
ヘヴンでは神官が四六時中世話を焼いていたらしく、身の回りのことすら儘ならない。よりによって豊穣の神なので、戦う術もなし。子供でもそれなりに戦える邪神とは異なるとは言えど、善神も戦える神は多いというのに、なんという引きの悪さなのだろうか。
思わず額にあてそうになった手をぐっと堪えて、スプーンの柄を握った。
「自分からお荷物抱えるなんて、らしくないじゃん」
「お前はいつまで居座るつもりだ。用は済んだだろう」
「つれないなぁ」
椅子の背もたれに頬杖をついてにやにやと笑う青年が、シーナを舐めるように見た。
無言でスープを口にするゼドが眉間に皺を寄せたまま、青年の無遠慮な行動を横目でちらと見て、次は腐りかけのパンを齧ろうとバスケットに手を伸ばす。
「っはー……綺っ麗ぇな魂だねえ。ねぇお嬢ちゃん、なんの化身?」
「櫛名田比売命。豊穣の神よ」
「倭の神か。豊穣とは、こりゃまた随分と大層な善神様を降ろす子だ。ヘヴンは今頃大騒ぎかな」
豊穣の神は、善神の中でも極めて崇められる存在だ。どの土地や文化においても、とりわけ大切にされてきた神である。
「貴方は?」
「俺はフェンリル。魔狼だ」
笑うと愛嬌があるが、どこか冷たい眼光を持つ犬顔の青年であった。吹けば飛ぶような軽い笑いを洩らすと、首に巻かれた頑丈そうな首輪が鈍い音をたてる。狼の獣神ということが良く分かる犬歯が、唇から大きく突き出ていた。
「イブから話は聞いたぜ。本当にこいつをヘヴンに届ける気か?」
「分かってる」
「頭でも打ったのか? それとも暑さにやられたか?」
その呆れ口調は、心配しているというよりも、馬鹿にした感情を色濃く滲ませていた。
「お前、自分がウロボロスだからって甘く見てると痛い目見るぞ。こんな面倒ごと、いつもみたいに見捨てろよ。普段は平気で人を見殺しにする冷血漢の癖に」
「ウロボロスって、なあに?」
ぴた、と動きを止めたフェンリルは、少し驚いた様子で目の前の少女を見た。大きく瞠られた目が綺麗な三日月を描くのに、さして時間は要らなかった。
「ぐるりと大地に身体を回して、自分の尻尾まで咥えちまうほど巨大な蛇のことだ。こいつ、毒蛇ヨルムンガンドの邪神だろ? 蛇は悪の象徴、畏怖の対象だってんで、ここじゃ怖いものなしだ」
「やっぱりお兄ちゃんは強いのね! 確かにヘヴンで、蛇は恐ろしい悪の権化って習ったわ」
「そりゃいい教育だ」
スプーン片手に口の端を持ち上げ、ゼドは皮肉る。
「お嬢ちゃん、あんたさ、目の前で見捨てろって言われて反論しないわけ?」
「見捨てられたら困るけれど、その通りだから」
「へえ」
あからさまな嘲弄だった。
「帰りたいと思わないの?」
フェンリルが怪訝そうに、眉根を寄せる。
「もちろん帰りたいわ。朝食のスコーンも、厨房長が焼いてくれるミートパイも恋しいもの」
「ゼド……お前とんでもねえの拾ったな」
「俺も薄々感じてた」
あーあ、とフェンリルは、なけなしの行儀と共に脚を投げ出し、腕を頭の後ろに組む。健康的に焼けた小麦色の肌が、腕捲りをしたシャツから覗いていた。小柄だが、筋肉質だ。
「次に裏門が開くまで、半月はかかるだろうよ。それまで頑張れよー」
「ああ。言われなくても」
やりとりを聞いていたシーナは、小首を傾げた。
「裏門なんてあるの? ヘヴンとインフェルノを繋ぐのは煉獄門だけなんじゃ……」
「これだから世間知らずのお嬢様は」
芝居がかった大仰な素振りで人差し指を振り、フェンリルがシーナの声を遮った。頬をゆっくりと動かし、彼は笑っていた。
シーナは体が火照るのを感じた。だが、指先は不思議と冷たい。
開け放たれた扉から、鈍重な速度で湿気た風が流れてくる。今日も地上は暑いようだ。
「インフェルノには罪人、邪神、悪魔、怪物、妖怪……数多の悪の化身が跋扈してる。そりゃもう、血の匂いに拐かされて顔を出した魔物の大群が、空を真っ黒に染め上げるほどにな。でもよ、この枯れた大地に、それだけの者を養う力が本当にあると思うか?」
シーナは言葉に詰まる。考えたことが無かった。
豊かな土地と十分な食事、危険とは無縁の生活に、時折催される華美な宴会。温かな湯に浸かり、上等な衣を着て、ふかふかなベッドで眠る。ヘヴンでは常に何不自由なく暮らしていたが、与えられるものを、さも当然の如く受け取っていたことに今更ながら気付く。
突如、羞恥に駆られた。
「お前を責めてる訳じゃねえよ。温室にいたら鈍くなるのも当然だ。生まれたばっかの箱入り娘じゃあ尚更な。特にお前みたいなのほほん野郎なんか、一生知ることなく死んでゆくもんだ」
「のほほん野郎……」
「いいか? お前が通って来た、煉獄の正門『煉獄門』の他に、『地獄の穴』って呼ばれる裏門が幾つかある」
「そ、そんな。誰も知らないわよ……そんな裏門があるなんて」
「隠されてるからな」
シーナは、ゼドの方をぎょっとして見る。
絶対潔白の代名詞、悪事を嫌悪し正義を重んじるヘヴンが、隠し事など。
しかし、否定の言葉は喉につかえて声にはならなかった。シーナの中で積まれてきた常識が、けたたましい音をたてて瓦解してゆく。得体の知れぬ不安が、静かに背後に立っているかのようだった。
「インフェルノにはどれだけの生物がいると思う」
「え……」
「ま、俺もそんなどうでもいい数字、知らねえが。今ある単位じゃ表現できねえほどだろうな。そんな数の生物が、インフェルノの中だけで生活を賄おうってんなら、今頃ここは死体で足の踏み場が無くなってるばずさ」
「死体の山に登って、見晴らしがいいと吐かした奴がよく言うぜ」
ゼドの返しに、フェンリルはけらけらと笑っている。
「ヘヴンから物が運ばれてくるんだ。向こうでありふれた安物でさえ、ここでは馬鹿みてえに高い値で売れる」
「そんなこと、ヘヴンの民がしていると言うの?」
「お嬢ちゃんよ」
おちゃらけた態度の底に垣間見えた、冷え冷えとした本懐が思考さえ停止させる。
溜息混じりの声がほら、こんなにも怖い。
「不確実な根拠の上に成り立つ絶対ほど、信用ならねえものはない」