コミュニケーション
「加賀見くん、菅生さん、ちょっと来てくれる。今度の朗読会で協力してくれる人を紹介したいの」
授業最終のショートホームルームの後、俺たちは木戸先生に呼び止められた。
「今回の朗読会、手話サークルの協力で手話通訳士の方が来てくれることになったの。近くの聾学校の生徒さんも招待するテストケース。それでその手話通訳士の方が打ち合わせに今日来てくれてるので、あなた達に紹介するわね」
えらい大がかりなことになったな。戸惑う俺たちを引きつれ、木戸先生は応接会議室に向かった。
応接会議室には、30代前半の長い髪を束ねた痩身の女性がいた。
「初めまして。私、今回皆さんのお手伝いをさせて頂きます『水無月の会』の観月と申します。この度は朗読会をお手伝いをさせて頂きたいと思い参りました。よろしくお願い致します。ところで皆さんは、私たちの使う手話はご存知でしょうか」
「わたしはよく分かりません」
「僕も知りません」
「知ってる人のほうが珍しいですからね。それで今回は皆さんが通常の読み聞かせを、私が聴こえない方に手話でお伝えします。具体的には……」
観月さんの説明は続く。要は、ろう者へのサポートもあるが、健聴者である児童に手話の存在を認識してもらうのと、手話やろう者に接してもらい、偏見をなくすのが目的のようだ。趣旨はよく解った。
一通りの説明がつつがなく進み、このまま終わるかと思われた。
「質問があるんですけど」
「加賀見さんでしたね、何でしょう」
「今回『日本手話』と『日本語対応手話』、どちらでされるんでしょうか?」
会議室の空気が凍った。
「加賀見くん、何言っているの」
予定調和を崩す、加賀見の発言に木戸は咎めるように言った。
「木戸先生、大丈夫です。……加賀美さん、続けて」
「聞かせる対象年齢がもう少し上なら、中途失聴者の割合を考えて『日本語対応手話』だと思うのですが、この年齢層なら、『日本手話』も選択肢の一つではないかと」
「加賀見くん、本当に何を言っているの」
「ずいぶんとお詳しいようね。どこで聞きかじったか知りませんが。貴方、手話は知らないんじゃなかったんですか」
苛立ちを滲ませながらも抑揚を抑えた声で観月は言った。
「ええ、僕はあなた方の手話は知りません」
「だったら、えらそうに語らないで。不愉快だわ」
自分の大事な雛を傷つけられた親鳥のように、観月は声を荒げた。
そんな彼女に臆することなく、加賀見はゆっくりと立ち上がる。
「僕はこの春まで、瀬戸内海の宮邦島に住んでいました」
そう言葉を発すると、加賀見は滑らかにハンドサインを行った。その所作は流れる川のように澱みが無い。観月はそれ以外目に入らないかのように流れる手を見つめ、小さく呟く。
「そういう事ですか」
じわじわと、暖かい日差しにさらされる春の雪のように、先程までの怒りが溶けていく。
「分かりました。この件は一度持ち帰って検討させて頂きます。今日のところはここまでとしましょう」
慈愛に満ちた大地母神のような笑顔で、そう言った。
「すいません観月さん。うちの加賀見が失礼な事をしまして」
「木戸先生、失礼な事は何もありませんでした。忌憚の無い意見を頂いて、本当に感謝しているんですよ。加賀見さん、今度貴方の話を聞かせて下さい。私、個人的に興味があります。それではこれで……」
ぱたんとドアを閉め、観月は去っていった。
残されたのは、泰然自若とした加賀見と、当惑を顔一杯に浮かべた二人。
「加賀見くん、貴方一体何をしたの」
いち早く言葉を発したのは、教師の責務を背負った木戸であった。
「大丈夫ですよ。あの人、怒ってなんかいませんでしたから」
「私が状況を把握出来ていないのが、問題なの!説明しなさい!」
進行役なのに流れについて行けなかった悔しさが、木戸に攻撃的言葉を発させた。
「分かりました。最初から説明します。まず、手話には『日本手話』と『日本語対応手話』があるんです。『日本手話』はろう者のコミュニティで自然発生した物で、ろう者間で使われる事が多く、幼児期にろう学校に就学したろう者の第一言語でもあります。ただ、この『日本手話』は日本語とは文法もまるで違うんです。
そこで生まれたのが『日本語対応手話』。『日本手話』の単語を使い、日本語の言語構造に合わせて作られました。『日本手話』はろう者にとってはネイティブな物で、『日本語対応手話』は、日本語を獲得した後で聴こえなくなった中途失聴者や、健聴者には覚えやすい物です。この二つに優劣はありません」
「それで今度の読み聞かせに、どちらが適しているかの議論になっていたのね。じゃあ、あれだけ怒ってた観月さんの態度が、君の出身地を聞いた途端に変わったのは何故?」
「『日本手話』以外に、自然発生した別の手話があるんです。それが『宮邦手話』。瀬戸内海の宮邦島で生まれた手話です。
宮邦では漁業が盛んなんです。離れた船やエンジンの近くなどでは声が届きません。それで、短い表現で的確に伝えられる手話がろう者・健聴者の別なく使われてたんです。そこには、ろう者と健聴者の垣根はありません。一つの目指すべき社会の在り方かもしれませんね。
観月さんが興味があると言ったのはそれでしょう」
「けど、君は手話は知らないって」
「あなた方の手話、『日本手話』と『日本語対応手話』は知らないと言ったんです。『宮邦手話』は『日本手話』とはまた別物ですからね」
事後処理をする木戸を残し、二人は引き上げて行った。
「何か言いたそうな顔だな」
「……正直、むかつく気分を抑えられない。自分だけ特別って顔をして、見透かしたようなことを言って」
「別に俺は特別じゃない。俺の環境が特別だっただけだ。多かれ少なかれ、取り囲む環境は皆違ってるだろう」
「その言い方が、むかつくのよ」
「言葉は通じるのに、気持ちは伝わらないか。哀しいもんだな」
「知ったような事を言うなッ」
菅生は駆け足で一人去っていった。
加賀見はぽつりと残されている。
二人の距離は……遠い。
宮邦島は架空の名称ですが、宮邦島に当たる地域、宮邦手話に相当するものも実在します。なるべく現実に則した描写を心がけていますが、筆者の力及ばず異なる記載をしご迷惑をお掛けしては申し訳ないので、架空の名称を使用させて頂きました。
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