百折不撓(ひゃくせつふとう)
この世で最強の存在がいくつかある。
その一つが涙ぐむ美少女である。
先ほどまで泣き濡れていた顔を拭い、うずくまっていた身体を起こし、その少女は俺に呼びかけた。
「さっき家庭科室で助けてくれた方ですね。……ありがとうございます。あなたのお陰で大事になりませんでした。本当にありがとうございました」
少女は深々と頭を下げる。
「よしてくれ。ああいう場面を何度か経験していたから出来ただけだ。そんな大層な事じゃない」
真っ直ぐな感謝の意を伝えられると、いたたまれなくなる。
「改めてお礼申し上げます。わたくし高等部二年九組、結城 茉美と申します。貴方のお名前、お聞かせ願い出来ませんでしょうか」
関わり合いになるつもりは無かったが、『名乗る程の者ではありません』と言うのは恥ずかしすぎる。
「……二年四組、加賀見 晃司……」
結城は目をぱちりと開き、俺をまじまじと見つめた。
「なんだ、同学年か。先輩かと思って緊張して損した~。あ、同学年ならタメ口でいいよね。アタシ敬語好きじゃないから、ヨロ!」
さっきまでの令嬢然とした雰囲気がガラガラと崩れる。
だがこちらの方が彼女に似合っていた。
肩まで伸ばした栗色の髪は太陽に映え、明るく煌めいている。
ヘーゼルの瞳は淡く、澄んだ光を放っていた。
夏の高気圧のような、爽やか空気を纏った少女だった。
はあはあと息を切らしながら誰かがやって来る。
「……結城さんここにいたのね、捜したわ。ごめんね、こんな事になって」
沈痛な面持ちで木戸先生が近づいてきた。
「そんな顔しないで下さいよ。先生に責任は無いんだから。みーんなアタシが招いた事。先輩たちの言うことはもっともです。事故を起こして部の責任問題になったら、それこそ取り返しがつきません。よくここまで我慢してくれていたと、感謝しているんですよ……」
結城は強がるように明るく言う。その結城を木戸先生はつらそうに見る。
「これからどううするの。『自立した人間になりたい。自分の食べる物ぐらい、自分で作れる人間になりたい』、あなたそう言って料理部に入ったのよね」
「料理は続けたいと思います。でも家では料理をさせてもらえませんし、街の料理教室では何故か出入り禁止なんです。……どうしましょうかね」
二人は口に手を当て、顔を見合わせ唸っていた。
部外者は退散するか。
そう思い立ち去ろうとした時だった。
木戸先生が俺の方を向き、はっとした顔をした。
「加賀見くん、あなた一人暮らしだったわね」
捕食者の眼で木戸先生は尋ねる。
「ええ、まあ」
「そしてマンションは学園から徒歩10分の距離」
「……はい」
嫌な予感が止まらない。
「コンロはガス?IH?」
「……IHです」
何故それを聞く。
「なら安心ね。結城さん以前パスタを茹でる時、ガスの火を引火させて危うく火事を起こすところだったから」
一体なにが安心なんだ。恐ろしい未来が迫ってくる。
「お願い、加賀見くん。あなたの自宅で結城さんに料理を教えてあげて!」
両手を合わせ、拝むように俺に頼んできた。
「そんな、そんな手があったなんて。……いいのね、諦めなくて。まだ料理を続けられるのね!」
赤く充血した目で結城が見つめてくる。
やめてくれ。頼むからやめてくれ。
「加賀見くん、お願いします。アタシに料理を教えてください」
形のいい頭を勢いよく腰まで下げ、必死の形相で頼んでくる。
「私からもお願い。キミしかいないの!」
木戸先生まで頭を下げてくる。
女性二人の懇願。これは一種の脅迫だ。
狼の狩りの仕方。まずは中堅の狼が獲物の前に立ち塞がり、後ろに逃げようとすると下位の狼が退路を断つ。仕上げはサイドから上位の狼が襲いかかり、仕留める。……自然界のハンターは、ここにもいた。
「改めて紹介するわ、結城 茉美さん。ちょっと粗忽なとこはあるけど、根は真面目で一生懸命な娘だから。失敗したとしてもちゃんと改善しようと努力するから、根気よく教えてあげてね」
あの惨状目にした後で、そう言うか。それに別の問題があるだろう。
「……いいんですか。問題じゃないんですか、女子生徒が男子生徒の一人暮らしのとこに入り浸るなんて」
俺は胡乱な目で木戸先生に言う。
「別に友人間の交流を性別で制約する校則はありません。節度のある交流なら、なんの問題も無し。その点は加賀見くんには全幅の信頼を置いています」
「紳士と言いたいんですか、ヘタレと言いたいんですか」
「そのどっちでもないわ。あなたからは思春期独特のギラギラしたものを感じないの。女の子はそういうのに敏感なのよ。あ、でも彼女がいたら変な誤解を招くかも。菅生さん、大丈夫なの?」
「なんでそこで菅生の名が出てくるんです。あいつは関係ないでしょう」
「……そういうのがあり過ぎるのも困るけど、無さすぎるのも問題ね。菅生さん、苦労しそう」
訳のわからんことをほざいているが、当面の問題をはっきりさせよう。
「それで俺は、結城さんに料理練習の場として台所を提供するという事ですか」
俺は仏頂面で言う。やや不機嫌さが滲んでいるが、仕方ないだろう。
「ええ、それと基本的なことでいいから結城さんに料理のやり方を教えて欲しいの。加賀見くん、料理できるんでしょう」
「ええ、多少は。魚を三枚におろしたり、コンソメをスープの素なしで作るぐらいは出来ます」
「……いい、加賀見くん。この先彼女が出来たら、絶対そんな事は言っちゃ駄目だからね」
何故か棘のある目で注意された。なにが悪かったのだろう。
「加賀見くん、本当にありがとう。これでアタシは自分の足で立つ人間に成れる」
あれ、おかしいな。いつの間に俺は了承したことになったのだろう。
俺は無条件に人助けする聖者ではない。
だが、この二人の笑顔を打ち砕く事の出来る勇者でもなかった。