グロリア
空からは気高い光が降りていた。
先日までの滝のような雨に洗い流され、遮る雲ひとつない。
菅生の門出を祝福するような、素晴らしい朝だ。
俺はおろしたてのシャツと靴を身に着け、朗読会の会場に向かう。
集合時間の30分前、流石に早すぎたか。広場のベンチに腰かけ、生まれたての光に身をひたす。自分がまるで清らかなものになったかのような心持ちにしてくれる。
不意に陽の光が陰る。目の前に一人の少女が立っていた。太陽さえ霞むような眩しい笑顔で俺に話しかける。
「おはよう。早いわね、まだ30分前よ」
「遅いよりいいだろう。早く目が覚めたんだ、どうせ待つなら自宅よりこっちのほうがいい」
「子供みたい」
ふふっと菅生は笑う。その顔には少しの曇りもない。よかった。
「いよいよだな」
「……うん。ただの読み聞かせなんだけど、わたしにとっては新しい人生の一歩なの。成功しても失敗してもいい。悔いのないようにやりたい」
「……その気持ちになれたのなら、それはもう成功だよ」
菅生は俺を見つめる。その瞳は冬の湖のように澄んでいた。
「けどいい度胸だな。120名収容ホールがただの読み聞かせか」
「それは言わない。意識しないようにしてるんだから」
「……いっぱい来てくれるといいな」
「うん!」
この菅生の努力の結晶を、一人でも多くの人に見てもらいたい。努力が無駄じゃなかったと菅生に思ってもらいたい。神さま、どうかお願いします。あなたも不幸に溢れた世界が好きなわけじゃないでしょう。
芝生の遊び場に、先日話をした男の子たちがいた。
「よう、来てくれたんだな。ありがとう、菅生も喜んでいる」
少年はにかっと笑い。誇らしげに言った。
「約束だかんな。ともだち30人つれてきたぞ。ま、おれにかかればこんなもんさ。……菅生の姉ちゃんはまだ来てないのか?」
こいつは何を言っているんだ?
「菅生なら、ほらここにいるぞ」
俺は隣の菅生を親指で指さす。少年は顔を隣に動かすが、それから固まって動かない。どうしたんだ。
「……うそだ。うそだ。姉ちゃんがこんなにきれいなはずがねえ。姉ちゃんは髪はぼさぼさで、ほつれて、唇はかさかさで、目は髪の毛で隠れて暗くて、肌はゆーれいみたいに青白くて、こんなきれいなの姉ちゃんじゃねえ!」
えらい言われようだな。子供は案外よく見てんだな。菅生の顔は引き攣っている。
きれいになったと言われるのは嬉しいが、これはねえ。
俺が言えた義理じゃないが、女心をもう少し勉強しような。
俺たちが話ている広場に一台のタクシーがやって来た。
がちゃりと音が鳴り、一人の女性が降車する。
手話サークルの観月さんだ。先日の顔合わせ以来の再会である。
観月さんは俺たちに気づき、満面の笑みで近づいてくる。
先日のわだかまりは無いみたいだ。
「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします。加賀見さんも元気そうで。菅生さん……変わったわね。別人みたい」
観月さんは意外そうに、しかし驚きの表情を見せず冷静に言った。
「冷静なんですね、観月さん。普通このくらい変わればびっくりするもんですけど」
「ええ、菅生さんのこと、前もって聞いていたから」
「木戸先生が言ってたんですか?」
案外おしゃべりなんだな、あの人。
「いいえ、木戸先生じゃなくて……」
観月さんは妙に口ごもる。
「……先日、『日本手話』と『日本語対応手話』、どちらするかって言ってたわよね。今回試験的に両方の手話をすることになったの」
話の流れがおかしいな。
「手話通訳士の手配がなかなかつかなくて、ギリギリになったんだけど私ともう一人で今日はするの」
タクシーからもう一人、誰かが降りてきた。料金の支払いをしていたのだろうか。
降りてきたのは若い女性だった。いや若すぎる。俺たちと同年齢だ。
「紹介するわ。私と同じ手話サークル所属の 進藤 愛さん。……菅生さんはよくご存じよね」
そこにいたのは、いろいろなものをそぎ落とした、透明な水を思わせる、俗世からかけ離れたような少女だった。
「……あい……ちゃん」
目を見開き、両手で口を押え、菅生はただ立ちつくした。
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