第92話 追手
早朝。出発の準備を終えてから、フリードリヒたちはメリンダとクレアを起こした。二人にできるだけ長く休んでいてもらうためにそうした。
身支度と朝食を終え、クレアの手を引いて表に出てきたメリンダを前に、フリードリヒは笑顔を作る。昨夜覚えた苛立ちを態度に出すような真似はもちろんしない。
「おはようございます。ご気分はいかがですか?」
「……大丈夫。私も娘も元気よ。ありがとう」
そう答えるメリンダは、しかし明らかにまだ疲れている。目の下の隈は昨日よりも酷く、顔はやつれている。力のない微笑には、気まずそうな罪悪感が込められている。
「あの……昨晩はごめんなさい。私、とても失礼な言い方を」
「いえ、どうかお気になさらず。早速ですが出発しましょう。お二人には申し訳ございませんが、それぞれ別の馬に騎士と同乗していただきます」
「……分かりました」
メリンダはまだ居心地の悪そうな様子だが、元はと言えば彼女の失言から始まった気まずさなので、フリードリヒたちとしては勘弁してもらいたいところだった。今はあまりゆっくり話している時間もない。
「クレア様。私と一緒に馬に乗りますか?」
「いいの!? 乗りたい!」
ユーリカがクレアの前にしゃがみ、視線の高さを合わせて言うと、クレアは目を輝かせながら答えた。母親と違い、彼女は本当にまだ元気があるようだった。
クレアはユーリカの前に抱えられるように騎乗し、そしてメリンダはヤーグの後ろに乗る。
フリードリヒでは要人を乗せるには騎乗技術的に不安があり、いざというときの戦闘の指揮役として柔軟に動く必要のあるオリヴァーやグレゴールも選択肢から外れ、大柄なギュンターはさらに人を乗せると馬の負担が大きくなりすぎる。結果、軍歴的にも騎乗技術的にも最も上のヤーグが侯爵夫人の運搬役に選ばれた。
さして裕福でもなく人口も少ないケルラ村には馬がおらず、当然馬車もない。荷運び用の小柄なロバが村長家に一頭いるが、ロバ用の荷車は人が乗れる代物ではないため、メリンダたちは誰かの馬に同乗させて運ぶしかない。
「貴婦人に対して失礼かもしれませんが、しっかりと私の腰にしがみついてください。できるだけご負担にならないよう馬を操るつもりですが、いざというときは急に激しく走らせることもあり得ます。あらかじめ謝罪を」
「え、ええ。分かったわ。よろしくお願いします」
貴族として馬術の心得は一応あるというメリンダだが、馬車以外での移動は久々らしく、不安げな顔で馬に乗る。それに対し、ヤーグはいつもより丁寧な態度で騎士らしく接する。
皆、昨夜のメリンダの失言など存在しなかったものとして、軍人としての役目に徹して動く。
「ヨハン。そっちの準備はどうかな?」
「間もなく終わります。こちらは大丈夫ですので、どうぞいつでもご出発を」
フリードリヒが歩み寄って尋ねると、ヨハンはそう答える。
この村に敵が再び来れば村人たちも危険に見舞われるため、彼らは一度この村を離れて南に向かい、ヨハンの親戚が村長を務めているという隣村に避難するのだという。
この村で死んだ騎士ウーヴェと、帝国軍騎士ハロルドの遺体も、隣村に運んで腐敗する前に火葬し、事態収束まで預かってくれることになっていた。
「そうか、分かった……本当に助かったよ。何から何までありがとう。君たちケルラ村住民の貢献は、必ず上に報告する」
「私たちは王家の民として、当然のことをしたまでです」
ヨハンの謙虚な態度に好感を覚えながら、フリードリヒは微笑を浮かべる。
「諸々の補償は、後日に王国軍からなされると思う。それが難しければホーゼンフェルト伯爵家から。僕が養父に頼んで必ず補償する」
「恐縮です」
その言葉を最後にヨハンたちケルラ村住民と別れ、総勢十四騎の王国軍部隊はメリンダとクレアを護衛しながらケルラ村を出る。
フリードリヒはユーリカの隣に並び、彼女の前に座るクレアの話し相手をしながら進む。そうしながら、どうか敵部隊と出くわさず味方の援軍と合流できるようにと願う。
道を北進する一行を、離れた森の中から見ている者がいたことには、誰も気づかない。
・・・・・・
五十人を率いてベイラル平原を越え、エーデルシュタイン王国領土に侵入したイーヴァルは、側近アハト率いる三十五人とも合流した。
空が白んできた頃には、夫人と令嬢を追跡していた部隊の生き残りとも合流。小さな村に十数人もの王国軍騎士がいることを確認し、さらには夫人の姿も認めた彼らは、夜半に襲撃を仕掛けるも退却を強いられたという。
異国の地で合流が容易に叶ったのは、彼ら大陸北部人が使う特殊な笛のおかげ。獣の骨から作られたこの笛は、細い高音が耳を突き、仲間に自分のいる方向を知らせることができる。
イーヴァルたちも大陸西部に来てから知ったが、自分たちほど感覚が鋭くない西部人の耳には、この笛の音はあまり聞こえないらしかった。結果として、敵に知られずに集結する道具として笛が機能している。
この笛を鳴らしながら移動していたことで、見張りとして村の近くに残っていた部下との合流も今果たした。
「帝国大使の夫人と令嬢は、王国軍騎士に守られながらこの先の村を出ました。他の部隊との合流を目指しているようで、北に進んでいます」
「……そうか」
報告を受け、イーヴァルは短く答えて思案する。
「獲物が他の部隊と合流する前に追いついて仕留める。ここからは走るぞ……必ず任務を達成し、ヴェレク傭兵団の能力をキルデベルト陛下に示す。気合を入れろ」
イーヴァルの言葉に、部下たちは力強く応える。
九十人強の猟兵たちは、進路を南東方向へと変える。身を隠している足場の悪い森の中を、まるで整った街道を進むかのごとき足取りで難なく走り出す。
・・・・・・
ケルラ村を発って一時間ほどが経過した頃。メリンダとクレアの体力に配慮して小休憩をとっていた最中に、西方向の見張りに立っていたヤーグが血相を変えて振り返る。
「敵部隊が見えた! かなり多いぞ!」
その声で、皆が西を向く。フリードリヒも、立ち上がってヤーグの指さす方を見る。
「あの辺り、森の切れ目だ。隠れもせずに近づいてきやがる」
「……ここまで近づいたら、もう身を隠すよりも前進することを優先しているんだろうね」
ヤーグが指差した先には、確かに敵影があった。まだ距離は遠いが、森から出て堂々と身を晒しながら、走って進んでくるのがフリードリヒにも分かった。
思わず眉根に皺を寄せる。昨夜襲撃してきた敵が見張りを残していて、こちらがケルラ村を発ったことを知られる可能性はもちろん考慮していたが、これほど早く迫ってくるとは。敵が幸運なのか、あるいはこちらが不運なのか。もしくは、運に頼らず目標への接近を為せるほど敵が優秀なのかもしれない。
「見たところ、百人近くいるようですな」
「とんでもない規模だね……まともに戦ったら確実に敗ける」
グレゴールの言葉に、フリードリヒはやや離れたところにいるメリンダたちには聞こえないよう小声で答える。
帝国の大使当人ならともかく、たかがその家族を狙うにしては異常なまでの大兵力。百人がかりで獲物を追うほどに、アレリア王へ献上する成果を渇望しているのか。あるいはやはり、この任務によって主から能力を試されでもしているのか。
こちらは騎馬だが、数は十四騎。それもクレアを乗せたユーリカと、メリンダを乗せたヤーグを含めた数。警護対象を連れた状態で、百人近い敵部隊と戦うのは無理がある。
「先を急ごう。敵に追いつかれる前に、味方と合流するしかない」
フリードリヒの言葉で、一同は休憩を切り上げて馬に乗り、急ぎ出発する。
・・・・・・
それからの逃走劇は、非常に厳しいものになった。
こちらは馬に乗っているが、あまり速度を出せない。騎士たちはそれぞれ単独であれば全力疾走もできるが、警護対象を同乗させているとなればそうもいかない。
まず、幼子であるクレアの身体は、馬の疾走には耐えられない。
そしてメリンダも。都合よく二人用の鞍などないので、彼女は馬の背に厚手の布を敷いて乗っている。そんな状態であまり速度を出せば、足を怪我している上に体力の消耗も著しい彼女は、ヤーグの背にしがみついていられずに落馬してしまうだろう。
おまけに、援軍との合流まであとどれほどの距離を進むことになるか分からない。あまり飛ばしては、馬たちが疲労で潰れて歩けなくなってしまう。徒歩では到底逃げきれない。
なのでフリードリヒたちは、せいぜい速歩程度の速さで進むことになる。
そして、それを追う敵の猟兵部隊は、異常とも言える持久力を見せた。
軽装で敵地の只中を隠れながら移動し、これまでに体力を相当消耗しているはずの敵部隊は、しかし追跡の速度をまったく緩めない。おまけにさすがは猟兵と言うべきか、道が迂回している丘や森などもお構いなしに直進し、最短距離を踏破してくる。こちらの馬の速歩に引き離されることなく、むしろじわじわと距離を縮めながら着実に追ってくる。
このままでは追いつかれる。緊張からフリードリヒたちの表情は険しくなり、メリンダは恐怖からしくしくと泣き出し、不穏な空気を察してクレアも怯えた表情になる。
「前方から騎馬の集団が来るぞ!」
そのとき。先頭を進むオリヴァーが言った。フリードリヒがオリヴァーの隣に進み出て前方を見ると、道がカーブしている丘の陰から、十数騎がこちらへ近づいてくるところだった。
「あれは……鎧を見るに、帝国軍騎士のようだ。大使の護衛たちが捜索に加わっているんだろう」
騎士の鎧は自弁が基本で、同じ軍内でも統一されてはいない。しかし、リガルド帝国と大陸西部では、歴史や文化の違いからデザインの傾向に若干の差異があり、見る者が見れば分かる。
オリヴァーの言葉通り、間もなく合流してきたのは王国軍の捜索部隊ではなく、十五騎ほどの帝国軍騎士たちだった。
「メリンダ様! クレア様! ご無事ですか!」
「ああ、カーライル卿! 来てくれたのね! 私たち二人とも無事よ!」
「チェスター! ここだよっ! 私はここ!」
護衛部隊の指揮官であるらしい騎士が呼びかけると、ヤーグの後ろにいるメリンダが答える。ユーリカの前にいるクレアも、小さな両手を一生懸命振りながら言う。
二人の無事を確認した指揮官は安堵の表情を浮かべ、他の帝国騎士たちも、険しかった表情が幾分か和らぐ。
そして指揮官は、フリードリヒたちの方を向く。誰が王国軍側の指揮官か分かりかねている様子の彼に、フリードリヒはオリヴァーとグレゴールと顔を見合わせ、ひとまず自分が進み出る。
「王国軍騎士フリードリヒ・ホーゼンフェルトです。敵の追手が後方より迫っています。ひとまず進みながら話を」
指揮官はその言葉に頷き、三十騎ほどに増えた一行は北進を続ける。