第80話 国境視察①
季節が秋に移り、帝国大使クリストファー・ラングフォード侯爵による国境地帯の視察が始まった。リガルド帝国によるエーデルシュタイン王国への連帯を身をもって示すように、妻と幼い娘まで伴って国境地帯へと発ったクリストファーは、北から南までを辿るように要所を巡り始めた。
まずは、最北の回廊ことエルザス回廊。その入り口に築かれた砦で警戒を続けるアルブレヒト連隊の駐留部隊を訪問し、激励した。
さらにはその後方、王領へと編入されて新たな秩序を築いている都市レムシャイトにも、クリストファーは足を運んだ。そこで視察したのは、バッハシュタイン公爵領軍の敗残兵によって編成された大隊だった。
指揮を担うのは、近衛隊や訓練部隊より派遣された士官たち。その下には騎士身分を剥奪されながらも生存を許された下士官と、領主の謀反に付き合わされて散々な目に遭いながら、それでも故郷を守るために軍人を続けることを選んだ兵士たち。
彼らは練度向上のための訓練や、回廊駐留部隊の後方支援を精力的にこなすことで、エーデルシュタイン王家が自力で回廊を守るための新たな兵力を得つつあることをクリストファーに示した。
その後、クリストファーは国境地帯の各貴族領を巡った。領主たちの屋敷に滞在し、リガルド皇帝家が友邦の国境地帯の安寧を願っていることや、その実現のためにいざというときは支援の手を差し伸べる用意があることを語った。
そうした政治的な会話に加え、文化芸術に関する歓談もくり広げられた。長年エーデルシュタイン王国の文化芸術に触れてきたクリストファーは、地元の人間でなければそうそう知らないであろう文化や伝承、各貴族領の出身の作家や芸術家、その作品について深い知識を披露した。
自身の治める土地について詳しく知られ、そこで育まれた文化芸術を称賛され、好感を抱かない貴族はいない。領主貴族たちは上機嫌になり、ますますクリストファーとその家族を歓待した。クリストファーは各地の領都で領主と共に民衆の前に立ち、帝国大使として演説し、その姿は多くの者に強い印象を残した。
そして、視察の一行は北方平原に到着した。
そこでは平原の監視を務めるブライトクロイツ伯爵家による歓待を受け、伯爵領軍による隙のない国境警備体制について、伯爵当人より案内と解説を受けた。
さらにここで、伯爵家の継嗣であり、ヒルデガルト連隊の騎兵大隊長である騎士ディートヘルム・ブライトクロイツ率いる部隊と合流した。西部王家直轄領とベイラル平原の視察に向けて、案内を受けるために。
そうした視察の様子は、王家が一行に付けた近衛隊の護衛と鷹使いによって、王都にも逐一報告されていた。
その報告はマティアスを含む王家の側近たちにも伝えられ、フェルディナント連隊の幹部による定例会議の場でも、マティアスによって話題に出された。
「さすがは両国交流の第一人者と言うべきでしょうな」
「正直、ここまで狙い通りの効果が発揮されるとは、最初に視察の話を聞いたときは想像していませんでしたね」
「むしろ狙い以上と言っていいだろう。これだけ目立つかたちでエーデルシュタイン王国への連帯を示せば、それを覆すような行動はリガルド皇帝家もそうそうとれまい」
歩兵大隊長リュディガーと弓兵大隊長ロミルダの言葉に、グレゴールが答える。
「帝国仕草ばかりがお得意な大使様でも、いやはや役に立つ場面もあるものだな」
「あれでも貴重な親エーデルシュタイン派の帝国貴族だ。それしか能がないのであれば、せいぜい目一杯の愛想を振りまいてもらわなければ」
若い幹部たちよりもいくらか辛辣な感想を零したのは、歩兵大隊長バルトルトと騎兵大隊長オイゲン・シュターミッツ男爵だった。
バルトルトの言った「帝国仕草」とは、周辺諸国の人間が、帝国人の振る舞いを否定的に語る際の言葉。一見すると友好的な帝国人が、意識的か無意識かは問わず自国を優越的に見るような言動や態度をとることを、癪に障る振る舞いとしてそのように言う。
親エーデルシュタイン派の筆頭であるクリストファーも所詮は巨大な帝国の一員であり、にもかかわらずエーデルシュタイン王国の良き理解者のような顔をしているのが鼻につく。そのように考える者は、王国軍人の中でも特に中年以上の世代に多い。ロワール王国との大戦を生き抜いた彼らは、大戦において帝国から支援を受けるに際し、帝国人の隠しきれない尊大さを見てきた。
彼ら大隊長たちの話を聞きながら、フリードリヒが思うのはディートヘルムのことだった。
謀反の事後処理がひと段落してヒルデガルト連隊からの援軍が帰還する前夜、フリードリヒは彼に誘われて夕食を共にし、酒も少し飲んだ。その際、彼は帝国人についてなかなか辛辣な持論を語っていた。彼はその年齢にしては珍しく、極端に帝国を嫌っているようだった。
そのディートヘルムは視察の一行の案内役として、ブライトクロイツ伯爵領でクリストファー大使と合流したという。あのように語っていた彼が、理想主義を体現したような帝国人である大使を好くとはとても思えない。
「お前たちの感想は分かった。この場では好きなように語っていいが、外では多少言葉を選ぶようにしろ……さて、本題は大使の振る舞いについてではない。それを受けたアレリア王国の反応についてだ」
マティアスが言うと、幹部たちも表情を引き締める。
「帝国大使が国境地帯でこれだけ目立つ振る舞いをしていることは、当然ながらアレリア王国側も把握しているようで、それに対して反応する兆候が見られる。東部首都トルーズにて、軍勢が集結準備を進めているとの報告が間諜より入っているらしい」
「ほう。帝国のあからさまな挑発、やはりアレリア王は気に障ったようですな」
マティアスの言葉に、軽い調子で返したのはオイゲンだった。
「閣下。集結する軍勢の規模に関して、何か情報は?」
「およそ二千と目されている。北へと拠点を移したファルギエール伯爵に代わり、中央より新たに派遣された部隊がおよそ千。そして徴集兵が、おそらく同数程度」
ロミルダの質問にマティアスが答えると、大隊長たちは少し驚いたような表情になった。
「それは……多いですね」
「想定されていた中では最大規模の反応と言える。アレリア王としても、帝国に舐められたことがよほど気に食わないと見える」
皆の驚きを代表するようにリュディガーが呟くと、それにグレゴールが答える。
「あるいは、それだけ激しく反応しなければ面子を保てないのかもしれないな。既にエーデルシュタイン王国への攻勢に二度失敗しているのだから」
「……なるほど。リガルド皇帝家と同じで、アレリア王家も国内の貴族向けに意思を示す行動が必要というわけですか」
末席ということもあってこれまでほとんど発言していないフリードリヒは、バルトルトが語った推測に納得の意を示した。
「侵攻の主軸をノヴァキア王国方面に移している今、アレリア王国が本気で攻勢を仕掛けてくるとは考え難い。国境の突破は叶ったとしても、占領維持をはじめとした継戦を為すのが難しいだろうからな。とはいえ、規模が規模なのでこちらも対応する必要がある」
マティアスが再び口を開くと、皆はあらためて連隊長である彼に注目する。
「敵の軍勢が威嚇のために国境地帯に接近してくるのか、あるいはより強烈な示威行為として攻撃を実行するのかは不明だ。前者であれば良いが、集めた兵力規模から考えて後者の可能性も考えられる。ファルギエール伯爵に代わって新たに対エーデルシュタイン王国の指揮官に着任したのは、あのロベール・モンテスキュー侯爵だからな」
その名前に、グレゴールとオイゲンとバルトルトは小さく嘆息し、ロミルダとリュディガー、そしてフリードリヒは表情をやや硬くした。
ロベール・モンテスキュー侯爵。アレリア王国が領土拡大を成す前、先代アレリア王の時代から王家に仕える老将軍。親子二代のアレリア王と共に、周辺諸国を征服してきた歴戦の名将。
老齢ということもあって最近は王都に留まり、王領防衛を担う名誉職のような立場にいたと言われていたモンテスキュー侯爵が、エーデルシュタイン王国との国境を守る指揮官になった。彼が対峙してきたとなれば、いくら主力が北に移動していったとしても、こちらも油断はできない。
今回に関しても、侯爵のような古強者が二千の兵を率いて国境に迫るとなれば、ただの威嚇にとどまらず「エーデルシュタイン王国の軍勢と軽く当たってみる」などと考えることも十分に想定し得る。
「この状況でも、クリストファー・ラングフォード大使はアルンスベルク要塞まで到達し、視察を完遂する意向であるらしい。帝国の代表者として、アレリア王国の脅しに屈するつもりは毛頭ないとのことだ。少なくとも今のところは」
「なかなか見上げた度胸ですね」
「馬鹿を言え。元よりアレリアの反応は想定した上で視察が敢行されたんだぞ。脅しに屈しないのは当然、むしろ、敵の兵力が集まり始めただけで恐れをなして逃げ出すようであれば、期待外れと言うべきだろう」
マティアスの説明を聞いて感心するように言ったリュディガーに、グレゴールが吐き捨てるように返す。
「ラングフォード大使が今のところ期待通りの度胸を見せているのは歓迎すべきことだが、すなわちそれは、これから事態が動く中で、エーデルシュタイン王国が万全の態勢を整えて大使の安全を守らなければならないということでもある。そのため、フェルディナント連隊もアレリア王国側の攻撃に備えて出撃することとなった」
出撃。その言葉に、会議の空気はより一層引き締まる。ほどよい緊張感が室内に漂う。
「敵が襲来するのであれば、その場所はおそらく、これから大使が訪問する西部王家直轄領の西側――すなわちベイラル平原になると思われる。だからこそ敵も二千もの兵力を揃えるのだろうが、民兵の招集も行われるアルンスベルク要塞を攻めるにはそれでも到底足りない。そこへさらに我々が向かえば、敵に勝ち目はない。なのでアレリア王国側も無茶はせず、場合によっては我々の到着前に引き下がっていくだろう……とはいえ、相手はあのモンテスキュー侯爵。油断は禁物だ。心して任務に臨むように」
「「「はっ!」」」
連隊長の言葉に、幹部たちは声を揃えて答えた。




