第49話 進軍開始
年が明けて、統一暦一〇〇九年。穏やかな冬も終わり、コンラート・エーデルシュタイン王子の出発の日がいよいよ訪れた。
「大人しく心優しいお前が、まさか初陣を迎える日が来るとはな」
「大袈裟ですよ、姉上。別に大戦争をしに行くわけではありません。この程度の務め、いくら私が初陣でも失敗しようがありません」
王城の一角。既に出発の態勢を整えた王族専用の馬車の前で、クラウディアは旅装に身を包んだコンラートと話す。
「それでも、やはり心配するのが姉というものだ」
「心配はご無用です。私ももう良い歳の大人ですから」
「歳など関係ない。いくつになっても、私にとってお前は可愛い弟だ。だから心配するぞ」
クラウディアが頭を乱暴に撫でると、コンラートは苦笑する。
「まったく、昔は私よりも背が小さくて、いつも私の後を追いかけていたのにな……」
子供の頃はよく、姉弟で一緒に遊んだ。自身もまだ幼かったクラウディアは、コンラートを前に一端に姉ぶって、騎士ごっこやら王様ごっこやらに興じた。コンラートが少し大きくなると彼に本を読み聞かせてやり、彼がもっと大きくなってからは勉強を教えてやった。
国王の第二子として生まれたコンラートは、堂々と勇ましいクラウディアとは対照的に、物静かで少し臆病で、そして優しい子供だった。臣下や使用人にも分け隔てなくその優しさを見せ、その気質で誰からも愛されてきた。
クラウディアが王太女として、王家や国を守る者として成長できたのも、コンラートの存在があったからこそ。心優しい弟を守ってやらなければと思いながら鍛錬や勉学に励み、その覚悟はやがて王家と国そのものを守る覚悟へと育った。
「ええ、小さかった私も、姉上に守ってもらったおかげでこんなに大きくなりました。なのでこうして、成人の王族にふさわしい務めを果たしにいくのです。私ももう一人前であると婿入りの前に証明して、姉上に安心してもらわなければ」
「……そうか。そうだな」
コンラートの言う通り、彼はもはや物静かで優しいだけの子供ではない。ただ姉として可愛がってやるだけの存在ではない。彼は成人した王族で、婚約者がいて、果たすべき役割がある。
優しいだけでは、これから彼が負う役割は務まらない。だからこそ、ただ優しいだけではないと証明するために、彼はこれから戦いに出る。
困難な任務というわけではない。それでも戦いに出る以上、死ぬ可能性はある。
国政の実務を取り仕切る王太女として、実の弟を戦場に送り出す。必要なことだと分かっていても喜べるものではない。
「そんな顔をしないでください、姉上」
コンラートが少し困ったように言う。自分がいつのまにか、ひどく寂しそうな顔をしていたことにクラウディアは気づく。
そう、子供の頃、本当はクラウディアの方が寂しがり屋で、だからこそ可愛い弟をいつも傍に置きたがった。優しいコンラートは、文句も言わず遊びに勉強にと付き合ってくれた。
王太女として次第に責任が増していき、数年前からは父に代わって国政の実務を取り仕切るようになり、忙しく日々を過ごすうちに、そんなことも忘れていた。
「済まなかった。私なら大丈夫だ。賢いお前ならば、必ず成し遂げられると信じている。それでももし、何か困ったことがあったら、後詰めにつくフェルディナント連隊を頼れ」
「はい、分かっています……本当は、彼らの後詰めも不要でしたのに。生ける英雄たるホーゼンフェルト卿と彼の連隊に、ただ私の背後で待機するだけの任を与えるなど。彼らにとっては簡単を通り越して退屈極まりない役割でしょう」
「国境と、愛する弟を守るための保険。そう思えば決して過剰なことではないぞ。ホーゼンフェルト卿もそう理解してくれている」
「では、せめて彼らに手間をかけさせないよう、しっかりと務めましょう」
いつものように優しい表情で言ったコンラートは、そこで表情を引き締める。
これほど凛々しい顔ができるようになったのか、とクラウディアは思った。
「行ってまいります。王太女殿下」
「……ああ。しっかりと務めてこい。我が弟よ」
コンラートは頷き、馬車に乗り込む。
表向きはバッハシュタイン公爵領への視察。数台の荷馬車と護衛の近衛一個小隊を率い、コンラートの乗る馬車は出発する。
それを見送りながら、クラウディアは小さくため息を吐く。
「難しいものだな、弟離れというのは」
・・・・・・
春の初頭。エーデルシュタイン王国軍フェルディナント連隊は、コンラート・エーデルシュタイン王子による進軍の後詰めを務めるために王都を出発した。
コンラート王子の一行は、視察の名目で先に公爵領へと発っている。フェルディナント連隊がすぐさま後を追えば軍事行動を起こす気であることをアレリア王国に察知される可能性もあるため、王子に一週間ほど遅れての出発だった。
「――そうか、無事に産まれたのか。よかったね」
「娘のためにもこれから頑張らないとな」
「はい。できるだけ早く騎士になって、娘にとって自慢の父親になりてえです」
行軍の最中、フリードリヒとオリヴァーとギュンターはそんな言葉を交わす。話題はこの冬、ギュンターの第一子である娘が無事に産まれたということだった。
愛娘の話となると、ギュンターも強面を崩して穏やかな表情を見せている。
「誕生したばかりの我が子と過ごす冬か。まさに幸福の極みだね」
「フリードリヒ様は、この冬は何をなさってたんで?」
「……伯爵家の継嗣としてひたすら鍛錬や勉強。後は、屋敷の書斎で本を読んでたかな」
ギュンターに問われたフリードリヒは、微苦笑を浮かべて呟く。
ホーゼンフェルト伯爵家の屋敷には立派な書斎がある。蔵書の数は、フリードリヒが育ったボルガの教会よりも多い。
おまけに、軍事貴族の屋敷の書斎ということもあり、その蔵書は歴史書や戦記物語本などが中心となっている。アリューシオン教に関する書物が多かった教会の蔵書より、フリードリヒの好みに合っている。
伯爵家の継嗣であるフリードリヒは自由に書斎に出入りでき、蔵書も含めていずれは自分の所有物となる。フリードリヒにとって、これは個人的に大きな役得だった。
「俺も本を読まないわけじゃないが、籠って読書ばかりというのも飽きないか?」
「飽きないよ。僕にとっては子供の頃からの、ほとんど唯一の趣味だからね。結局、自由な時間はほとんどずっとそうしてたよ」
「ははは、そうか。お前らしいな」
「……貴族様ってのは皆もっと、派手に金を使って遊ぶもんだと思ってやした」
オリヴァーが笑う横で、ギュンターがぼそりと呟く。
「そうする人もいるんだろうけど、僕は贅沢品にはあまり興味はないから。それに、養子に迎えられたばかりの立場なのに、伯爵家の資産で遊び惚けるなんてとてもできないよ」
「おいおい、書物だって高価なものだぞ? 一族専用の書斎なんて、それこそ貴族でも皆が持っているわけじゃないんだ。冬の間中そこに入り浸っている時点で十分に贅沢なんじゃないか?」
「……まあ、言われてみればそうなるのかな。書斎の蔵書は、初代当主様の頃から時間をかけて集めたものらしいし」
「フリードリヒ、あんなにたくさんの本を五年もかからずに読破しそうな勢いだもんねぇ」
「およそ百年かけて集められた蔵書を五年足らずで読破か。その後は一体どうするんだ?」
「……二周目の読破に取りかかるかな。二度読めば知識や理解も深まるから」
途中からユーリカも雑談に加わり、その間も淡々と行軍は続く。千人の隊列は止まることなく、街道を進んでいく。
最初の目的地は、王領とバッハシュタイン公爵領の領境のあたり、王都から二日半の距離にあるオストブルク砦。王都と公爵領の領都を繋ぐ街道に面して築かれたこの砦は、北西部国境防衛における重要な補給拠点となっている。
そこで補給を済ませた後、さらに北西へと行軍。コンラート王子の率いるバッハシュタイン公爵領軍がエルザス回廊へと進軍を開始する頃に合わせて回廊のエーデルシュタイン王国側に到着し、そこで非常時――王子たちの万が一の敗走などに備える。それが今回の作戦計画だった。
アレリア王国側の警備も手薄な最北の回廊で、冬が明けて間もない時期に進軍を行う。敵側もまさかこちらが数百人程度の兵力で進軍するとは思っていないであろうから、完全な奇襲が叶う。そして、決して無理をしてとどまることなく退く。
たったこれだけの作戦が失敗する可能性は低い。おそらく自分たちは、ただ後詰めとして待機するだけに終わる。連隊の誰もがそう思っている。
そう思っていた。
「閣下! 鷹が来ました! おそらくオストブルク砦からです!」
そのとき。連隊本部付の鷹使いが、空を指差しながら言った。
その言葉が聞こえた者たちが、空を見上げる。鷹使いの掲げる専用の旗を目指して、一羽の鷹が舞い降りてくるところだった。
それは王国軍の各連隊と、一部の要衝にのみ配置されている緊急伝令用の鷹だった。この鷹は指示された方向に飛び、最初に目にした専用旗の下に降りるよう訓練されている。
「……全軍、一時停止」
「停止だ! 全軍一時停止!」
マティアスの命令を、グレゴールが即座に大声で伝える。各部隊長がそれを復唱し、間もなく全隊が止まる。
まだ行軍初日の午後。にもかかわらず予定外の事態が発生したことで、皆がざわめき出す。
「あの、どういうことなんで?」
「緊急伝令用の鷹は最速で報せを届けられるが、訓練された鷹そのものが極めて貴重で乱用はできない上に、持たせられる情報量は限られている。オストブルク砦が早馬ではなくわざわざ鷹を送ってきたということは、何か予定外の、よほど尋常でない事態が起こったということだ」
状況を飲み込めていないギュンターに、オリヴァーがそう説明する。
「……だけど、おかしい。コンラート王子殿下の率いる軍勢は、予定ではまだ回廊に向けて出発すらしていないはずだ。この時点で何か緊急事態が起こって、それがオストブルク砦まで伝えられるとは思えない」
フリードリヒは怪訝な表情で呟きながら、ユーリカやオリヴァーと共にマティアスの近くまで移動する。
周囲にいる者たちの注目を集めながら、鷹使いは飛来した鷹の足首に取りつけられた書簡を取り外す。それを受け取ったグレゴールが、さらにマティアスに渡す。
「……街道の定期哨戒に出ていた、オストブルク砦駐留部隊の騎士からの報告。バッハシュタイン公爵領軍およそ三百が、砦に向かって進軍してくるのを確認。状況説明を求めるため、距離を置いて呼びかけるも矢による攻撃を受け、急ぎ離脱。公爵領軍は日暮れまでには砦に到達するものと思われる」
読み上げたマティアスの隣で、フリードリヒは驚愕する。ユーリカを振り返ると、彼女も片眉を上げて驚きを表す。
書簡を読み上げたマティアス自身も、目を鋭く細めて反応を示す。その隣で、グレゴールが険しい表情を見せている。
マティアスの言葉が聞こえていた者たちがその内容を周囲に語り、情報が連隊全体へと伝わっていき、ざわめきが一層大きくなっていく。
「公爵領軍が王国軍騎士を攻撃? 誤射……ということはないか」
「そうだね。王国領土の中で、王国軍騎士を敵と見間違えて攻撃するはずがない。一個大隊もの兵力をオストブルク砦に差し向けていることも合わせて考えると……」
オリヴァーの言葉に答えながら、フリードリヒは彼を振り返る。
「公爵領軍が王家に牙を剥いたということか? しかし勝ち目など……まさか!」
「……きっと、回廊からアレリア王国軍を招き入れる気だ」
目を見開くオリヴァーに、フリードリヒは硬い声で頷いた。
「フリードリヒ。お前の見解を語ってみろ」
マティアスに言われたフリードリヒは、思案しながら口を開く。
「……バッハシュタイン公爵家の手引きでエーデルシュタイン王国領土へと侵入すれば、アレリア王国軍はこちらの態勢が整う前に王都まで進軍することも叶います。だからこそ勝算ありと見て、バッハシュタイン公爵家はアレリア王国と手を組み、王家への反逆を企てたのでしょう。勝利の後に公爵が何を得られるのかは分かりませんが……わざわざコンラート王子殿下が公爵領に入ってからこのような行動を起こしたということは……王子殿下が共謀者である可能性も考慮すべき? 例えば、アレリア王国の手を借りて勝利した後、かの国にとって都合の良い傀儡の王としてエーデルシュタインの地に君臨するつもりで?」
辿り着いた恐ろしい推測に、フリードリヒは顔を青くする。
「その可能性も否定はできない。まだ推測に過ぎないが、それを最悪の想定とした上で対応すべきだろう……書簡を用意しろ。一通はオストブルク砦へ鷹を戻して届けさせる。もう一通は我が隊の鷹を使って王城へ届ける」
苛立つでも動揺するでもなく、ただ淡々と、マティアスは鷹使いに向かって命令する。
 




