第48話 国王
それで会談は終わり――かと思いきや、クラウディアはさらに語る。
「ところで、ホーゼンフェルト卿」
「はっ」
「父がお前に会いたいそうだ。お前と、その養子となったフリードリヒに」
クラウディアがそう言いながら、視線をマティアスからフリードリヒへと移す。フリードリヒは彼女の言葉の意味を理解すると、小さく眉を上げた。
王太女であるクラウディアの父。すなわち国王。ジギスムント・エーデルシュタイン。
彼が、養父マティアスのみならず自分にも会いたがっている。
「……?」
言葉の意味は理解したが実感が湧きかねて、フリードリヒは小首を傾げた。その様に、クラウディアは苦笑する。
「ここ最近は身体の調子が幾分か良いらしくてな。会えるときに会っておきたいと仰せだ。急な話だが、頼めるか?」
「もちろんにございます、殿下」
クラウディアの問いに、マティアスは迷うそぶりもなく答える。
こうして、フリードリヒの緊張など気にもされず、国王への拝謁が決まる。立ち上がったクラウディアとマティアスの後ろに続き、部屋を出たフリードリヒは王城のさらに奥へと歩く。
「父に歩いていただくのはご負担になる。悪いが、父の私室まで来てくれ」
「かしこまりました」
「……」
国王の私室。そこに入ることを許されている者はこの国で一体何人いる。そう思いながらフリードリヒは目を泳がせる。クラウディアに平然と頷いたマティアスが、この国でいかに国王との距離が近い人間であるかを、あらためて実感する。
歩いていくうちに廊下やそこに飾られた調度品の雰囲気、辺りをただよう空気までもが変わり、行政府としての空間から王家の生活空間に移動しているのだと分かる。
「そう緊張するな、フリードリヒ」
前を歩くクラウディアが振り返って声をかけてくる。フリードリヒは慌てて表情を引き締め、彼女を向く。
「父は別に、怖い御方ではないぞ。私と初めて会ったときのようにしていれば大丈夫だ」
「……はい、殿下」
口の端をかくりと上げるようなぎこちない微笑で、フリードリヒは答えた。
間もなく、クラウディアは精緻な装飾の施された扉の前で立ち止まる。ここが王の私室であるらしかった。
扉の左右に立っている近衛騎士に、クラウディアが剣を預ける。王族の彼女でさえ、国王に会うときは武装を許されないらしかった。
「父上。ホーゼンフェルト卿とその子息を連れてまいりました」
「入室を許す」
低く落ち着いた声色が、扉の向こうから帰ってくる。中から扉が開かれ、クラウディアとマティアスに続いてフリードリヒは入室する。
緊張した面持ちで視線は伏せたまま、視界の端に室内を捉える。
そこは私室という名の通り、国王が私的に過ごすための部屋であるらしかった。ベッドはない。寝室は別にあるらしい。病身の国王も、今は寝たきりというほどではないようだった。
室内には傍仕えの使用人らしき人物と、近衛騎士が一人。そして、奥の安楽椅子に座っている人物とその傍らに寄り添っているらしい人物の足元までを、フリードリヒは視界に捉えた。
「国王陛下。王妃殿下」
その場で片膝をついたマティアスに、フリードリヒも倣う。椅子に座っている人物が国王であると察しはついていたが、その隣の人物が王妃であることを知る。
「堅苦しい挨拶はよい。立ってくれ。お前も、お前の養子も」
言われてマティアスは立ち上がり、フリードリヒは視線を伏せたまま彼に続く。
「久しいな、マティアス。息災そうだ、私と違ってな」
「はっ。しかし陛下におかれましても、昨年拝謁した際よりご健勝そうで」
「ああ。あのときはいよいよくたばるのかと思ったが、持ち直した。人間とは意外と死なないものだな」
二人の会話に流れる空気は、君主とその臣下が共有するものとしては随分とくだけていた。
かつてロワール王国との戦いで新進気鋭の王として指揮をとったジギスムントと、その下で名将として活躍したマティアス。二人の距離感が、交わされる声からフリードリヒにも分かった。
「お前が養子を迎えたと聞いたときは随分と驚いたぞ。まさか、生きてそんな話を聞くとは思わなかった。だらだらと生き長らえて何になると思っていたが、存外悪いことばかりでもない」
「こうして陛下に直接ご報告する機会を得て、心より喜ばしく存じます」
そこで、フリードリヒは強い気配を感じた。何か巨大な存在に意識を向けられた。そんな気配を覚えた。
「それがお前の養子だな」
「はっ、我が養子のフリードリヒにございます」
自身に言及する二人の会話から、気配がジギスムントのものだと、彼に視線を向けられたのだと理解する。
「フリードリヒ、顔を見せてくれ」
その言葉に、フリードリヒは面を上げた。安楽椅子にゆったりと腰かけている国王を見た。
国王ジギスムントは痩せていた。一目で病身と分かる痩せ方だった。
しかし、老い枯れてはいなかった。力強い精神力をその目から、表情から、そして全身から感じさせた。
クラウディアに初めて会ったときと同じ類の、しかし彼女よりもさらに強い存在感があった。
これがジギスムント・エーデルシュタイン。第十二代国王。軍制改革を成し遂げ、ロワール王国との大戦に勝利した偉大な王。
「お初にお目にかかります、国王陛下、ならびに王妃殿下。ホーゼンフェルト伯爵家が継嗣、フリードリヒにございます」
一礼したフリードリヒを、ジギスムントは興味深そうに見ていた。
「クラウディアに聞いていた通りの印象だな。勇ましそうではないが、賢そうだ」
「……恐縮に存じます」
語りかけるジギスムントの声は穏やかであるのに、フリードリヒは圧を覚える。相手を怖気づかせるような攻撃的な圧ではない。ただ、自然と畏敬を抱かされるような不思議な力だった。
ジギスムントの隣に立つのは、王妃アレクシア。彼女は何も言葉を発しない。物静かで控えめな性格の王妃として知られており、ジギスムントが病を患ってからは自身も表舞台から身を引き、夫に寄り添い続けているのだと、フリードリヒは聞いている。
「いずれ、お前がホーゼンフェルト伯爵家を継ぎ、我が娘の治世を支えるようになるのだな。私がそれを目にすることはないだろうが」
「……」
「クラウディア殿下の治世でもホーゼンフェルト伯爵家が王家のお役に立てるよう、全身全霊をもってこの者を鍛え上げ、私の後継者にふさわしい将とする所存です。陛下におかれましては、どうかご安心ください」
返答に窮するフリードリヒに変わり、マティアスがそう答えた。
「ははは、安心していつでも死んでよいと言うことか……フリードリヒ。お前に会うことができてよかったぞ。今日はよく来てくれた。下がってよい」
「はっ」
フリードリヒは自身の為し得る最も綺麗な敬礼をして見せると、使用人が開けてくれた扉から退室した。
拝謁の時間としては極めて短い。ジギスムントは本当にマティアスの養子を一目見たかっただけということか。あるいは、あれ以上長く気を張り続ける体力がないのか。
「フリードリヒ、ついてこい」
自身も王の私室から出たクラウディアが、そう言ってフリードリヒを案内する。
「父はしばらくホーゼンフェルト卿と話していることだろう。お前は別室で待っていてくれ……お前にとってはひどく緊張するひとときとなっただろうが、これで父も旅立ちの前の憂いがひとつなくなったことと思う。感謝するぞ」
「……いえ、そんな。お役に立てたのであれば僥倖です」
一人の娘として穏やかな表情を見せるクラウディアに、フリードリヒも微笑で答えた。
・・・・・・
一方で、王の私室ではジギスムントが大きく息を吐きながら姿勢を崩した。
「まったく、言うことを聞かない身体だ。国王らしく振舞うことも、もはやままならん」
そう呟くジギスムントの額から流れる汗を王妃アレクシアが拭き、彼の口元に水の入った杯を近づける。水を一口飲んだジギスムントは、疲れた表情でマティアスを向く。
「悪いな、お前の養子とあまり話してやれなくて」
「いえ。あれに一目拝謁の機会を賜っただけでも、光栄に存じます……いかがでしたでしょうか、フリードリヒは」
「なかなか良いと思うぞ。気質ではお前と随分違うようだが、本質では同じものを感じた。特にあの目だな。お前が若い頃の目とよく似ている」
そう言われ、マティアスは少し驚いたように片眉を上げた。亡き実子ルドルフにフリードリヒが似ていると思うことはあっても、自分自身に似ていると思ったことはなかった。
「ははは、今言われて初めて意識したという顔だな……しかし、私やクラウディアが気に入っているとはいえ、市井にまでフリードリヒの評価が行き渡るのはしばし先になりそうか。最近は暇つぶしに世相の報告ばかり聞いているが、なかなかの言われようだな?」
「私としては市井の噂に構うつもりはございません。ですが陛下がお望みとあらば、噂を打ち消すために動きましょう」
フリードリヒや彼を養子に迎えた自分のことを、民が好き勝手に噂していることは、マティアス自身も知っている。
「いや、そんな面倒なことをせずともよい。民とは好き勝手に貴人の噂をするものだ。私など、久しく表舞台に顔を出していないせいで、実はもう墓の中にいるなどと言う声もある。まったく我が民は不敬者ばかりだ」
ジギスムントは冗談めかして言い、マティアスは苦笑を返す。
国王の病状は、あえて公表されていない。その理由は、ジギスムントが病に倒れた頃とアレリア王国によるミュレー王国侵攻の時期が重なっていたことにある。
小国であるミュレー王国はおそらく長くもたない。かの国が征服されれば、次に狙われるのはエーデルシュタイン王国を含む東。そう考えたジギスムントは、自身の病状を秘密にした。
君主の死と、次代の君主への交代。いくら準備をしているとはいえ、その瞬間はどうしても多少の隙が生まれる。そこを突かれて大侵攻を受けるような事態は避けたい。
だからこそ今の状況があった。ジギスムントが既に死んでいるなどという不謹慎な噂が放置されているのも、アレリア王国を少しでも混乱させる策略の一環だった。
「……とはいえ、その噂もそう遠くないうちに真実となる。私は死に、そしてクラウディアが後を継ぐ。いよいよ私の時代も終わりだな」
「名残惜しいことに存じます」
「そうか? 私としては、だらだらと生き長らえずに済むようで安堵しているがな。老いぼれて失政を為し、晩年に名君の呼び名を返上した王は多い。私にはもはやその心配はない」
それが強がっての言葉ではないと、マティアスには分かる。ジギスムントはこのような考え方をする男だと知っている。彼のことはよく理解している。
名君ジギスムントと英雄マティアス。そんな呼ばれ方をしながら、国王とその忠臣として、二人は共に時代を歩んできた。
二人の評価を決定づけた、かつてのロワール王国との大戦。当時はまだ懐疑的な者もいた連隊の構想を、若く聡明で柔軟なマティアスは誰よりも正しく理解し、その特性を見事に活かして戦場で勝利を掴んだ。
だからこそ、ジギスムントはマティアスを称えた。彼の才覚を、勇気を、彼がもたらした勝利を王家の名のもとに喧伝し、そしてマティアスは生ける英雄となった。英雄としてその後も勝利を重ねた。
それももう、二十年近くも昔の話。若き将だったマティアスは壮年になった。そしてジギスムントは身体を病み、もはや王冠を戴いて人前に立つことすらままならない。
王も人である。人は必ず死ぬ。ジギスムントの時代を照らし続けた日は沈もうとしている。その後には、また新たな日が昇る。
「去り行くのも悪くないものだ。お前もそう思わないか、マティアス」
問いかけるジギスムントに、マティアスは静かに頷いた。今のマティアスには彼の気持ちが理解できるだけでなく、深く共感することもできる。マティアスもまた、後を継いでくれる者を得たからこそ。




