第173話 出陣
冬が明けた西部統一暦一〇一三年。三月の下旬。ヨルゴス・カルーナの率いる軍勢が、ルディア大陸北岸を発ったという報せが、サミュエル・アレリア国王のもとに届けられた。
報せが届くまでの時間を考慮すると、ヨルゴスの大船団が紺碧海の島嶼部などで補給をしながら、最後の補給地点――ルドナ大陸西部の南に位置する島国に到着するまで、風にもよるが早くておよそ三週間ほど。
この島国は、大陸西部の各国に対して中立の姿勢を保ってきた。故に、ヨルゴスの軍事行動に積極的に協力することはしないが、アレリア王国のために動くこともない。ヨルゴスの軍勢が規定通りの港湾使用料を払い、法を犯さないのであれば、その滞在を拒むことはない。
故に、補給と休息を終えればヨルゴスの軍勢がアレリア王国へと前進してくることは、もはや確定。彼らがカルーナ地方の沿岸部に姿を現すまでの猶予は一か月強といったところ。
また、カルーナ地方とミュレー地方それぞれで、反乱への機運がさらに高まっている。アレリア王国軍の駐留部隊による支配がもはや及ばない一部の貴族領で、物資や武器の用意と思しき動きが見られ始めた。
またノヴァキア地方においては、王国軍駐留部隊のうち、ミュレー地方出身の将兵が脱走した。彼らは故郷の反乱勢力に合流し、反乱に加わるものと見られた。
こうした動きを見ても、ヨルゴスの軍勢の到着と時を同じくして、二地方で反乱が起こるのはもはや必然だった。
この状況を踏まえ、サミュエルはツェツィーリア・ファルギエール伯爵にカルーナ地方への進軍を命じた。王命を受け、ツェツィーリア率いる軍勢は冬明けより進めていた進軍準備を完了させ、南進を開始した。
それからおよそ一週間後。ヨルゴスが南の島国に到着するよりも前、アレリア王家の予想より早く、ミュレー地方における反乱が勃発。その中心地は大陸西部と大陸北部とを隔てる山脈の付近、すなわちミュレー地方北部で、主導しているのはやはり山岳貴族たちと思われた。旧ミュレー王家の関与は見られなかった。
アレリア王家としては意表を突かれるかたちとなったこの反乱勃発に対して、しかし王国軍は冷静に対処した。ロワール地方駐留部隊およそ三千のうち、事前に編成されていた一個連隊、総勢一千が北進。同時に、ノヴァキア地方の駐留部隊とノヴァキア公爵領軍、さらには公爵領民の徴集兵から成る軍勢およそ二千が、ミュレー地方へと西進を開始した。さらに、この軍勢と合流するために、ミュレー地方駐留部隊は、分散している各部隊が東の国境地帯へと移動を開始した。
偶発的かつ小規模な遭遇戦を除いては未だ交戦せず、両軍とも集結して本格的な戦闘に備える、静かな開戦。ミュレー地方全体に緊張感が漂う中で――反乱を主導するミュレー貴族は、山岳地帯の城塞都市で各部隊の動きについて報告を受けていた。
「……概ね順調だな。そしてどうやら敵も慎重だ。こちらの狙い通り、長い戦いになるだろう」
各地から届けられる現状報告と、斥候から届けられる敵側の動向。それらの情報を踏まえて呟いたのは、ヴィゴ・ホルムクヴィスト侯爵。齢六十を超えた、山岳貴族の中心人物。血筋としてはミュレー王家の血も流れ、一応はミュレー王となる正当性も持ち合わせる男。
ヴィゴの言葉通り、ミュレーの反乱軍の狙いは長期戦、つまり時間稼ぎだった。点在する都市や要塞を活かした防衛戦。そして、山や丘が複雑に並ぶミュレー地方北部の地勢を活かした遊撃戦。この二つの戦い方を組み合わせ、できるだけ長く反乱を続けることこそが目的だった。
かつてミュレー王家がアレリア王家に降伏しながらも、山岳貴族はこの戦い方でおよそ二年に渡って抵抗を続けた。それほど長く抵抗した理由は主に二つ。一つは、他国との融和が進んだ王国南部に比べ、山岳貴族たちの領有する北部は保守的な気風が強かったため。もう一つは、武闘派であるためにミュレー王家の前に立って果敢に戦った山岳貴族たちにとって、王家の受け入れた降伏条件が納得しかねる内容であったため。
この抵抗を通してさらに強まったアレリア王家への憎悪、そして旧ミュレー王家への反感が、今回の反乱にも繋がっている。
前回は二年持った。今回は数か月持ちこたえればいい。そうすれば大陸外からの軍勢を迎えたカルーナ地方の反乱勢力がアレリア王国を蹂躙し、その混乱に乗じてミュレー地方も再独立を果たせる。目的を達する見込みは十分以上にあると、ヴィゴは考えている。
こちらの実戦力は、貴族たちの手勢に加え、自らの意思で反乱に加わった民衆を合わせ、総勢で三千程度。民衆については先の侵略でアレリア王家に恨みを抱いている者から、戦功を挙げて成り上がりたい者、報酬や掠奪品目当ての者まで様々。腕っぷしに自信があるからこそ集まった連中なので、いずれも使いようはある。
そして、戦闘員ではなくとも協力してくれる民は多い。食料をはじめとした物資の提供や、こちらの部隊が秘密裏に移動することへの助力。逆に、敵の部隊が移動する情報の提供。有形無形の協力を得られる反乱軍は、実数以上に強いはず。
「出だしは順調に進んでいる。功を焦って動かぬよう各部隊に今一度、伝達せよ……若い貴族たちとしては物足りぬかもしれないが、名目上とはいえ総指揮官である私の顔を立てるようにと」
「承知しました」
ヴィゴの命令に、側近が苦笑交じりに答え、伝令たちに指示を出す。
隠居していてもおかしくない年齢のヴィゴが自らの意思で反乱の旗頭となったのは、ミュレー地方、否、ミュレー王国の未来を思うからこそ。
現在、ミュレー王国を囲む国々は、いずれも若い為政者を戴いている。エーデルシュタイン王国のクラウディア・エーデルシュタイン。アレリア王国のサミュエル・アレリア。そしてノヴァキア公爵領――どうせアレリアと密約でも交わして近いうちに再独立するであろう、仇敵ノヴァキア王国のユリウス・ノヴァキア。
それぞれ気質は違うが、いずれも有能さを発揮している。若い上に有能な君主など、接する立場からすれば危険きわまりない。どこで野心を発露させるか分かったものではない。そしてこれら隣国の君主が野心を抱いたとき、今のミュレー王国では――臆病なミュレー家当主ではとても太刀打ちできまい。
だからこそ、アレリア王家の慈悲に甘んじて再独立を果たすのではなく、アレリア王家に隙がある今のうちに、山岳貴族が主導して武力による再独立を成すべき。カルーナ地方の反乱勢力と連係してアレリア王国中央部やロワール地方を大きく切り取り、当初よりも大幅に国力を増した状態でミュレー王国を再興する。仇敵たるノヴァキア王国をはじめ、周辺諸国――そこには後々敵となり得るカルーナ王国も含まれる――に敗けない強きミュレー王国を築く。
その最初の一歩を刻むための旗頭となれるのであれば、老い先短き自分が果たせる役割としては十分すぎるほど。再興された王国の未来は、子や孫たちが切り開いてくれるだろう。ヴィゴはそう考えている。
・・・・・・
およそ一か月強の後に、ヨルゴス・カルーナの軍勢がルドナ大陸西部へ到達する。その報を受けたエーデルシュタイン王国軍フェルディナント連隊は、カルーナ地方の反乱勢力の呼応に備え、直ちに進軍準備を整えた。
そして、王都出発の朝。王国軍本部を発ったフェルディナント連隊は、王都住民たちの注目を集めながら大通りを進む。英雄の連隊、その出陣の隊列を、沿道に並ぶ民衆が盛大に見送る。
そして隊列が入るのは、王都にいくつもある広場のひとつ。そこは亡き英雄マティアス・ホーゼンフェルト伯爵の銅像が建てられて以来、王都住民たちからは英雄広場と呼ばれている。
隊列は連隊本部の一団を銅像の正面に置くようにして広場の中で一時停止し、騎士たちは下馬。連隊長であるフリードリヒは父の銅像と向き合う。
勇ましさを見せるのではなく、静かに佇んで王都を見守る。いかにも亡き父らしい姿をその栄光と共に永遠に刻む銅像を見上げ、しばし無言を保つ。その様を連隊の一同も、集まった民衆も静かに見守る。
最後に敬礼すると、連隊の皆がそれに倣う。フリードリヒは馬に戻り、騎士たちが再び騎乗し、隊列はまた動き出す。
間もなく、連隊は王都の門を通過する。城壁の中に収まりきらない建物群が並ぶ城壁外の市域をも抜け、景色は平原と丘、森ばかりとなる。
そして、隊列から一騎が抜ける。ユーリカ・ホーゼンフェルト伯爵夫人だった。
フリードリヒは振り返り、街道を外れて佇む馬上のユーリカと視線を合わせる。薄く笑んだユーリカに自身も微笑を向け、互いに頷き合う。
ユーリカは残り、ホーゼンフェルト伯爵家と幼い娘を守ってくれる。フリードリヒは進み、エーデルシュタイン王国と亡き父より受け継いだ使命を守る。
アレリア王国を目指して進むフェルディナント連隊。ユーリカは一人、その背を見送る。




