第15話 訓練の日々①
「はあっ、はあっ、くそっ」
辛い。やっぱり止めたい。軍になんて入りたくない。
いや、もちろん本気で入隊を止めたいわけではないが、そういう弱音が頭の中に浮かんでくるほどには苦しい。
訓練の最中、荒い息をしながらフリードリヒはそんなことを思った。
「フリードリヒ! 誰が休んでいいと言った! 立て!」
後ろから歩み寄りながら怒鳴るのは、騎士グレゴール。ホーゼンフェルト伯爵家に仕える従士長で、従士身分となったフリードリヒにとっては上官であり、今は訓練の教官だった。
「は、はい……待っ……息を……」
「敵が迫ってきてもそう言うのか!? 息を整えるまで追うのを待ってくれと!? ふざけるな!」
怒声だけで背中を突き飛ばすような迫力で、グレゴールに叱責される。
それでも、フリードリヒは立てない。元が頭脳労働ばかりしていた軟弱な人間なので、訓練を始めて十日ほどが経った現時点では、見違えるほど体力がついたりはしない。
昨日までの訓練も厳しかったが、ここまでではなかった。それがただの小手調べに過ぎなかったのだと、フリードリヒは今まさに身をもって実感していた。
「フリードリヒ大丈夫? ほら、手を――」
フリードリヒに歩み寄ったユーリカが、手を差し伸べようとしたその瞬間。
グレゴールが訓練用の木剣を瞬時に振り上げ、ユーリカの眼前に突き出した。反射的に一歩下がったユーリカは、グレゴールを睨みつける。
「……何」
獰猛な獣のようなユーリカの視線を受けても、グレゴールは微塵も怯まない。
「訓練の時間外であれば、お前とフリードリヒが何をしていようが構わん。だが、今こいつを甘やかすことは断じて許さん。手を差し伸べるな。こいつを早死にさせたいのでなければな」
死、という言葉が出てきたことで、グレゴールを睨むユーリカの視線が少しだけ揺れた。
「こいつが戦闘で役に立つとは、閣下も俺も端から思っていない。だからこそ、こいつの護衛としてお前も受け入れられたのだ。だが守るとしても限度がある。確かにお前は多少腕が立つかもしれんが、だからといってこいつを担ぎながら逃げたり戦ったりはできまい……この走り込みは、こいつに最低限の体力をつけさせるための訓練だ。馬を失っても隊から落伍せず、たとえ連隊が敗走したとしてもできるだけ敵に捕まらないようにするための訓練だ。この程度の走り込みで音を上げ、仲間に助け起こしてもらっているようでは、こいつは簡単に死ぬぞ」
淡々と語りながら、グレゴールは木剣を下ろした。
「こいつを好いているのだろう? 好きな男を戦場で死なせたいのであれば、ほら、手を貸してやるといい」
そう言われても、ユーリカは動かなかった。
「……大丈夫。自分で立てます」
この僅かな時間に多少息を整えたフリードリヒは、そう言って立ち上がる。
「まだ走れます。走ります」
ふらつく足で、それでもフリードリヒはグレゴールに言った。
「口だけなら誰でもそう言える。行動で示せ。どれほど前進が遅くてもいい。最後まで立ち止まらずに走り切れ」
「はっ」
力なく敬礼し、フリードリヒはまた走り始める。歩くのと大差ない速度で。
ユーリカはその隣で並走し、心配そうな視線を時おり向けながら、しかし手は触れない。
「……」
フリードリヒが走っているのは、ホーゼンフェルト伯爵家の屋敷の内周。今から二週間ほど前、フリードリヒとユーリカはフェルディナント連隊と共に王都に到着した。
王都ザンクト・ヴァルトルーデは、エーデルシュタイン王国の人口およそ六十万のうち、三万が暮らしている大都市。王国の経済、文化、そして政治と軍事の中枢。
宮廷貴族であるホーゼンフェルト伯爵家は領地を持たないため、この王都の貴族街に屋敷を構えている。
とはいえ、その屋敷もそう大きなものではない。従士の数も、領主貴族とは比較にならないほど少ない。屋敷を空けることの多いマティアスに代わって家政を取り仕切る家令。その他、上級使用人が数人。そして、副官として戦場に付き従うグレゴール。
その小規模な従士団に自分が加えられたのは、新たな家臣として使うためというよりは、元孤児というあまりにも後ろ盾のない立場故にマティアスが庇護を与えるため。フリードリヒはそう理解している。
「あと少しだ! 足を止めるな! ……終了だ! 休め!」
グレゴールに檄を飛ばされながら、ユーリカに寄り添われながら、自力で走り切ったフリードリヒは今度こそへたり込む。よく手入れのなされた芝の上に倒れる。
「……っ」
「本当に軟弱な奴だな。王国軍人なら、皆この五倍は走れるぞ」
息も絶え絶えのフリードリヒを見下ろし、グレゴールは呆れたように言った。
そんなことを言われても無理なものは無理だと、フリードリヒは思う。少なくとも、今はまだ無理だと。
「来年の春、入隊式に合わせて、お前とユーリカも連隊に加えたいと閣下はお考えだ。それまでにこの三倍、駆け足のまま速度を落とさず完走できるようになれ。それが最低限だ」
来年の春。今が初秋なので、およそ半年後。できるだろうか。
芝の上に寝転がって空を見上げながら、フリードリヒは不安を覚える。
「たった半年後じゃない……ですか。私は今すぐにでも余裕で走り切れるけど、フリードリヒには難しいんじゃない? ……ですか?」
未だ慣れない敬語に苦戦しながらユーリカが問うと、グレゴールは鼻で笑った。
「走るだけなら問題ないだろう。まだ若いからな。毎日走っていればすぐに体力はつく。むしろ、体力だけつければ軍に入れるのだから、なんとも恵まれた話だ」
怪訝な表情になったユーリカを一瞥し、グレゴールは話を続ける。
「普通は、王国軍に入る者は入隊試験を受けた上で、兵士なら入隊前に一年程度の訓練を受ける。体力があるのは大前提で、そこから行軍や陣形移動、槍や剣の扱いを学ぶ。士官である騎士は、そもそも入隊の前に何年も剣術と騎乗の訓練を重ねている。貴族子弟にもなればよほどの無能でない限り入隊自体を拒まれることはないが、それでも努力していない者はまずいない。自分の命と家の面子がかかっているからな」
語りながら、グレゴールはフリードリヒを鋭く睨む。
「それを、お前は閣下のご決断で入隊するのだ。盗賊討伐を成した才覚を見込まれ、半年の訓練で叙任を受ける前提で、最初から幕僚のような待遇でな……王国軍の歴史上、才覚を示した者が厚待遇で迎えられた例は少なくないが、その後の道のりは楽なものではない。軍人として実績を示せなければ、結局は軍を去ることになる。だからこそ閣下はお前を鍛えるよう私に命じられた。お前が実績を示すには、最低限、軍事行動についてこれなければならないからだ」
その話を聞いたフリードリヒは、身体を起こす。本音ではまだしばらく寝転がっていたいと思いながら立ち上がる。
せっかく掴んだ機会だ。田舎都市で育った孤児上がりの自分が、人生を変える機会だ。無駄にしてたまるか。そう思った。
戦場まで皆についていく体力がなかったために機会をふいにした、などという結果に終わっては悔やんでも悔やみきれない。
「もう立ち上がるか。もっと寝ていてもいいぞ?」
「……いえ、もう大丈夫です。やれます」
挑発するように言うグレゴールに、フリードリヒは答える。
「ははは、口先だけでないか試してやる。次は素振りだ」
屋敷の裏庭の隅に立てかけてある木剣を二本取ったグレゴールは、それをフリードリヒとユーリカの前に放った。
「フリードリヒは五十回。ユーリカは百回だ。一度も剣を降ろさずにやり遂げろ。開始!」
グレゴールの言葉を合図に、フリードリヒは素振りを始める。
力強く木剣を振るユーリカの隣で、木剣の重さにふらつかないよう足を踏ん張りながら、懸命に回数を重ねていく。




