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フリードリヒの戦場【書籍化】  作者: エノキスルメ
第五章 戦場に散った真の英雄たちへ捧ぐ。

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第156話 敗北者

 アレリア王国の軍勢が逃げ去り、エーデルシュタイン王国の軍勢がそれを追い、両軍とも通り過ぎていった後の戦場。血と臓腑の臭いにまみれ、死体が無数に転がり、負傷者の呻き声や泣き声ばかりが聞こえる平原の一角。

 そこで、鎧に記された家紋も見えないほど血と泥で汚れたツェツィーリアは、呆然と地面に座り込んでいた。


「……なあセレスタン。お前まで死んでしまって、どうして私がまだ生きているんだろうな」


 呟くように言った彼女の目の前には、戦いの怒涛に踏み躙られた忠実な副官の、変わり果てた遺体があった。

 フェルディナント連隊騎兵部隊の突撃から、セレスタンは身を挺してツェツィーリアを守ってくれた。二人揃って落馬し、その後も彼は覆いかぶさるようにツェツィーリアを庇った。幾度も騎馬や兵士に蹴られ、踏まれたのだろう。フェルディナント連隊が通り過ぎたときには、彼は見るも無残な姿になっていた。

 一方のツェツィーリアは、運命の皮肉か、あるいは神の悪戯か、怪我らしい怪我もなく生きている。フェルディナント連隊からも、逃げ惑う徴集兵たちからも踏み潰されることはなかった。味方が逃げ去ってからの追撃戦にも、戦場の端の方にいたために偶然巻き込まれずに済んだ。

 幸運が重なった結果として生き残り、しかし喜べない。何を喜べと言うのか。

 幼くしてファルギエール伯爵家を継いだ自分を、献身的に支えてくれた忠実な副官も、ついには失った。これで、ツェツィーリアが軍人として頼ることのできる父の遺臣は誰も残っていない。

 そして、アレリア王国はどうやら敗けた。敗北すべからざる戦いで大敗した。

 これ以上、生きて何をしろと言うのか。家族の仇を討ち、その仇の息子となった弟に討たれ、それで自分の人生は――奪われ奪うばかりだったこの人生は、虚しく完結すべきであったのに。


「おい、あいつは敵側の騎士だろう?」

「多分そうだ。マントを羽織ってるし、鎧もよく見たらそれなりに……いや、かなり質が良さそうだな。貴族かもしれない」


 そんな会話が近づいてくるのを、ツェツィーリアは呆然としたまま聞く。

 そしてふと思い立ち、セレスタンの遺体から頭髪の小さな束をとる。切る必要も引き抜く必要もなかった。割れた頭から皮ごと離れたそれを、鎧下の懐に収める。

 遺体は連れて帰れない。ならばせめて、遺髪だけでも。


「連れていこう。王国軍に渡せばいい金になるはずだ……おい、アレリアの騎士様。こっちに来るんだ」

「血まみれだな。自分の血か? 自力で立てるか?」


 呼びかけには一言も返さず、ツェツィーリアは手柄漁りをしていた傭兵たちによって捕縛され、連行され、そのままエーデルシュタイン王国軍の捕虜となった。


・・・・・・


 決戦の後方支援指揮官としてアルンスベルク要塞の管理を任されていた王弟エマニュエル・アレリアは、自軍が敗北し、王太子が行方不明となり、国王キルデベルトが重傷を負って要塞に運び込まれたとの報告を受け、兄のもとへ急いだ。


「国王陛下!」


 キルデベルトが運び入れられた要塞主館の一室に駆け込んだエマニュエルは、寝台に寝かされた兄の姿を見て絶句する。

 キルデベルトは短い矢に首を貫かれたままの姿だった。背中を負傷しているのか、流れ出した血が寝台から滴り落ちて床に血溜まりを作る。呼吸は弱々しい。これほどの重傷を負っているのだから当然のこと。むしろ、このような状態で戦場からこの要塞まで運び込まれ、まだ息があるのが不思議なほどだった。


「……誠に残念ながら、もはや手の施しようがございません。陛下が背中に受けられた矢のうち一本が内臓に達しており、その矢は折ったのみで抜くことはできておりません。首の矢も重要な血管を傷つけています。いずれも、抜けば僅かな時間で亡くなられることと存じます……野営地から馬車でこの後方まで運ばれる間、命を保たれたこと自体が奇跡でしょう」


 重苦しい空気を放ちながら答えたのは、キルデベルトに随行して戦場の野営地まで出ていた王家専属の医師だった。

 アレリア王国でも随一の腕を誇る医師の言葉ともなれば、エマニュエルも受け入れるしかなかった。少しの間ためらい、意を決して口を開く。


「薬を使ってくれ」

「……かしこまりました」


 この状況における薬が何を意味するのか察し、医師は小さな薬瓶を取り出す。

 死の間際にいる人間の意識を、一時的に明瞭にさせる薬。口元に運ばれ、傾けられた瓶から流れ込んできたその薬を、しかしキルデベルトは飲みきれずに吐き出す。血交じりの薬が、弱りきった覇王の口から溢れる。


「――っ! はあぁっ! え、エマニュエル! ごほぇっ! こ、ここは!」


 それでも少しは薬を体内に入れることができたのか、今にも息絶えてしまいそうだったキルデベルトは、急に激しく呼吸をして言葉を発する。


「兄上、私は御傍におります。ここは後方の要塞です。ここは安全です」

「い、痛い! サミュエルは……ああ、痛い、痛いぃ! は、母上はどこにいる!? あぁ、母上、助けてください……」


 その言葉で、やはり多くを吐き出したために薬が足りないのだとエマニュエルは理解する。二人の母である先代王妃はエマニュエルが幼い頃に病で死んでおり、その母を呼ぶキルデベルトの言動は、死を前にしたうわ言だと分かる。


「兄上、どうか落ち着いてください。どうか……」


 エマニュエルは手を握って語りかけるが、キルデベルトは平静ではいてくれない。錯乱しながらうわ言を喚き、幼子のように母を呼び求め、喉からは血が泡立つ音が聞こえる。

 とても遺言など聞き出せる状態ではない。宰相として君主の死に立ち会いながら、自分にできることはない。いや、それ以前に。

 覇王として強くあり続けた兄の、これが最期の姿なのかと、エマニュエルは胸を絞めつけられる思いがした。


「はっ、はっ、はっ……そ、そうだ! 戦争は!? 決戦はどうなった!? ロワール、ミュレー……違う! エーデルシュタイン王国との決戦は!? エマニュエル!」


 突然、キルデベルトは覚醒を一段強くして言った。まだ錯乱は残っている様子だったが、自分が決戦の戦場から逃れ、今目の前にいるのが弟であることを理解している発言を見せた。

 兄の問いかけに、エマニュエルはどう答えるべきか悩む。真実を告げるべきか、あるいは。

 数瞬の葛藤の末、エマニュエルは笑みを作ってみせた。


「兄上、勝利の後の賑やかさをどうかお聞きください」


 そう言って窓の方を手で示すと、空気を読んだ医師が窓を開けてくれる。

 死にかけの覇王が運び込まれたことによる要塞防衛部隊の困惑、そして、壊走して要塞にたどり着き始めた生存者たちの混乱。その喧騒が聞こえてくる。虚ろな目で窓を向くキルデベルトには、喧騒の意味までは理解できまい。


「一度退却した我が軍は、このアルンスベルク要塞で態勢を立て直し、再びエーデルシュタイン王国の軍勢との決戦に臨みました。要塞に敵を引きつけ、野外に控えていた別動隊が敵の本陣を奇襲し、クラウディア・エーデルシュタイン女王を討ち取りました。今、要塞は勝利の喜びに満ちています」

「……? っ……!?」

「我々は勝ったのです、兄上」


 エマニュエルが簡潔に伝え直すと、ようやく弟の言葉を理解した様子でキルデベルトの表情が穏やかになる。


「そ、そうか、勝ったか……」

「はい、勝ちました。どうかご安心を」


 語りながら、声が震えそうになるのをこらえる。兄の手を握る自身の手に、自然と力がこもる。

 騙されてくれてよかった。心からそう思った。


「勝ったのか。それじゃあ――――お前が、父上に殺されずに済むんだな」

「……はい。また兄上に守っていただきました。ありがとうございます」

「だいじょうぶだ。俺はおまえの、兄なのだから。おれが……おまえをまもって…………」


 覇王らしからぬ優しい声で。少年のような表情で。呟くように言いながら、その言葉の最後まで辿り着くことはなかった。

 キルデベルトの目に、もはや生命の光はない。

 静かに医師が退室する気配がして、室内にはエマニュエルとキルデベルトだけが残る。


「……兄上」


 エマニュエルは優しく撫でるように兄の瞼を下ろすと、安らかな死に顔をしたその遺体に縋り、声を殺して泣く。

 逝ってしまった。運命に翻弄されて覇道を進んだ果てに、こんな痛々しい姿で。

 父王の呪いに怯え続け、兄としての使命感に囚われ続けた末に、このような言葉を遺して。

 元々、周辺諸国の征服と領土拡大を掲げたのは、二人の父である先代アレリア王ジルベールだった。彼がまだ王太子であった祖父王の時代、アレリア王国は弱小国家であり、隣国から度々侵攻を受け、国境地帯を荒らされていた。

 使命感から王太子自ら軍を率いて国境地帯の防衛に出ていた父は、そこで蹂躙された村々を、凄惨な暴行を受けた臣民たちの死体を何度も目の当たりにした。そして考えた。弱き国は踏みにじられるのだと。国が弱いままでは、王家が弱いままでは、民を守れないのだと。

 弱腰の祖父王を玉座から追い払うようにして若き君主となった父は、軍の強化に努め、そしてこれまで国境を侵してきた隣国への逆侵攻に乗り出した。幾度かの失敗を経て、ついには征服を果たした。それで終わらず、アレリア王国をさらに強くするために、周辺諸国のさらなる征服を目指す覇道を歩み始めた。


 臣民たちが歓迎した強き王は、しかし人の親としては残酷だった。

 国を強くすることにこだわり、王家の権力強化にこだわり、戦いに臨み、唯一の心の癒しであった王妃を失った果てに。父ジルベールは、強さこそが至上であり唯一の価値であると考える人間になっていた。そんな父にとって、王太子キルデベルトは有能な後継者候補だったが、病気がちで脆弱な第二王子エマニュエルはひどく醜い存在であるようだった。

 エマニュエルは少しでも父の落胆を和らげようと懸命に鍛錬に臨んだが、弱い身体は言うことを聞かなかった。失望を極めた父はある日、目障りなだけの次男を斬り捨てようとした。

 エマニュエル自身は全てを諦め、父の剣を受け入れようとした。しかし、キルデベルトが身を挺して守ってくれた。


「俺がエマニュエルの分まで努力します! 父上のご期待に完璧に応えてみせます! だからどうか、お許しください!」


 その時の光景は、兄の言葉は、今でも鮮明に思い出せる。兄の懸命の説得を前に、ようやく脆弱な次男に利用価値を見出だしたらしい父は、エマニュエルを人質にしてキルデベルトに壮絶な努力を強いるようになった。

 それは未だ少年の兄に課すには、あまりにも過酷な鍛錬と学習の日々だった。兄が失敗すると、父は代わりにエマニュエルを殴り、エマニュエルに剣を向け、そうして兄を脅した。キルデベルトは弟である自分を守ろうとしてくれて、そして――次第に、父と同じ気質を帯びていった。父と同じ目に、父と同じ声に、父と同じ思考になっていった。


 命を燃やして覇道を突き進んだ父が早逝しても、兄は解放されなかった。

 アレリア王国を変えた偉大な覇王は、死後も神の御許からこの国を、後継者たる新たな覇王を見守っている。臣下臣民たちが語ったそのような希望が、キルデベルトには呪いとなった。

 父は今もずっと、自分たちを見ている。だから自分は父の遺志を継ぎ、生涯父の期待に応え続けなければならない。兄はそのように信じるようになった。そして、子供の頃から恐怖と共に刻み込まれた覇王としての思考は、今さら兄の心から離れてはくれなかった。

 弟としてどのように語りかけても何らの効果はなく、キルデベルトは既に覇王という生き物になり果てていた。自分のせいで兄はこうなった。ならばせめて――自分も兄と同じ道を進まなければならない。兄が大陸統一という究極の理想を実現し、これまでとこの先の侵略による膨大な犠牲が意味あるものとなり、その犠牲に見合う平和をこの大陸が獲得する結末を目指して。たとえ一歩踏み外せば破滅する覇道だとしても、兄と共に行きつく果てまで行かなければならない。


 そう決意して進み続け、そして今日、破滅が訪れた。

 兄は敗北し、死んでしまった。覇道は潰えた。

 敗けて死んだ瞬間に、強大な征服者はただの侵略者となる。これから歴史は手のひらを返し、大陸西部の全てが変わっていき、兄の評価は覆っていくだろう。それでも。


「私は知っています。私が語ります。あなたの生涯を。あなたが生まれながらに覇王であったわけではないことを。あなたに別の一面があったことを」


 飽くなき野心によって侵略の限りを尽くし、遂には討たれた暴虐な覇王。世界はあなたをそのように見なし、語るだろう。

 だからこそ、せめて自分だけでも、あなたがただ己の野心に溺れた覇王ではなかったことを語ろう。書に記し、人々に伝えよう。あなたと私の罪が消えることは決してないとしても、何故私たちが罪を犯したのかをせめて正しく伝えよう。

 だからどうか。ようやく呪いから解き放たれた今は。


「安らかに眠ってください、兄上」


 そう語りかけ、エマニュエルはキルデベルトの額にそっと口づけをした。

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― 新着の感想 ―
[一言] ツェツィーリア生きていた ありがとう
[良い点] 姉さん生きてて良かった。 義父の仇ではあるがこのまま処刑されないで欲しいな。
[良い点] 人に歴史ありとは言ったもの。この弟が書を記すことができ、知らせてもそれを公にできればいいけど…記して公にすることなくひっそりと残せれば案の定かな。
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