第120話 アルンスベルク要塞包囲戦④
「……そんな!」
フリードリヒの悲鳴じみた叫びは、戦場の喧騒にかき消える。
数歩後ずさり、そのまま後ろ向きに倒れそうになったマティアスに、フリードリヒは急いで立ち上がり、駆け寄る。
その背を支えると、マティアスはフリードリヒの方を向いた。目は開かれ、息もしている。少なくとも即死ではない。
「グレゴール! ホーゼンフェルト閣下が!」
一人ではマティアスを支えながら下がれない。フリードリヒが咄嗟に呼ぶのと同時に、事態に気づいたユーリカがグレゴールの加勢に入る。いつにも増して鋭い、鬼気迫るほどの猛攻で猟兵部隊の指揮官を一時下がらせ、その隙にグレゴールがフリードリヒと共にマティアスを支える。
「閣下!」
「私はいい。隊列を崩れさせるな」
副官の呼びかけに、マティアスはそう返す。表情は冷静で、声はしっかりしているが、その顔からみるみるうちに血の気が引いていく。引いた血がそのまま、傷口から流れ落ちていく。
「弓兵部隊と合流した後、隊列を強化して後方の守りを固めろ。敵猟兵を退けられないようであれば、全隊で一時下がり……」
声は指示を下す途中で聞こえなくなり、目も閉じられる。口元に手をかざすと息はあるが、意識を失ってしまったようだった。
「遅れました、合流を――連隊長閣下!」
ちょうどそのとき。反転してきた弓兵部隊が加勢に入り、大隊長ロミルダがやってきた。
合流を報告すべき相手であるマティアスが矢を受け、意識不明に陥っている様を見て、その血相が変わる。
「敵の攻勢を押さえてくれ! これ以上の後退は避けなければ!」
「承知した! 各小隊、横隊を組み、斉射……くそ!」
グレゴールに答えたロミルダが部下たちに指示を下そうとするが、そう上手くはいかない。
こちらの隊列は弓兵部隊の加勢が来たことで一度は持ち直したものの、それも長くは続かない。それほどに敵の猟兵部隊の攻勢は苛烈だった。
こちらは兵力が増えたことで半包囲される危機からは脱したが、合流した弓兵部隊が隊列を組んで守りを固める前に、混戦に持ち込まれてしまう。
こうなると、遠距離攻撃を任務とする弓兵部隊は弱い。白兵戦用の武装は予備武器である短剣のみ。敵の軽装の不利を突くことはかなわず、数の有利も活かしきれず、劣勢に立たされる。
敵指揮官が一時下がった後も、ユーリカは引き続き最前で戦い続け、グレゴールも貴重な白兵戦力として先頭に戻る。フリードリヒはロミルダと共に、マティアスの身体を支えながら下がる。味方全体が押し込まれているので、下がらざるを得ない。
このまま下がり続ければ、その先にあるのは騎兵部隊と歩兵部隊の背中。既に敵陣に突撃している彼らは、すぐに反転して戦える状況ではない。
「駄目です! このままではこちらが挟み撃ちにされる! 一時退却を!」
「……止むを得ないか。シュターミッツ卿に伝える!」
マティアスの残した指示を思い出しながらフリードリヒが言うと、ロミルダも首肯し、伝令を走らせる。
連隊長が戦場で指揮不能の状態に陥った場合、指揮権を継承するのは原則として騎兵大隊長。なので軍規に則れば、可能な限りオイゲン・シュターミッツ男爵の判断を仰がなければならない。そうでなくとも、前方の騎兵部隊と歩兵部隊を置いて後方のこちらだけ勝手に退却するわけにはいかない。
間もなく伝令が戻り、一時退却についてオイゲンが了解した旨を報告する。それを受けてフリードリヒたちは戦場からの離脱を始めるが、この時点で本陣予備兵力と弓兵部隊の損害は相当に増えている。
合わせて、歩兵部隊と騎兵部隊も退却に移る。前方と後方を向いたそれぞれの部隊が、互いの背中を守り合うようにして徐々に東に移動する。
・・・・・・
「……尽く策が決まるな。まるで本当に神が味方についたようだ」
退却を開始したエーデルシュタイン王国軍フェルディナント連隊を遠く眺めながら、ツェツィーリアは微苦笑交じりに呟く。
アルンスベルク要塞の南側は丘の斜面が急であり、大部隊での行動に適さない。そのため戦場に駆けつけたフェルディナント連隊は、迅速に動ける北回りの経路で要塞を回り込み、危機に陥っている西側の防衛部隊を援護するためにこちらを攻撃するだろう。ツェツィーリアはそう考えた。
フェルディナント連隊が布陣前にゆっくりと周辺の哨戒を行う時間を与えないよう、彼らの到着時期に合わせ、ツェツィーリアは要塞への攻勢を開始した。彼らが一刻も早く援護に回らなければ要塞が危険な状況に見えるようにした。その狙い通り、フェルディナント連隊は要塞の北に急ぎ布陣し、要塞西側を攻めるこちらの部隊の側面を突きにきた。
ここでまた、ツェツィーリアの策が上手く決まった。丘の北に広がる森、その奥に潜ませていたイーヴァル・ヴェレク男爵たちは、フェルディナント連隊の背後を突くことに成功した。マティアス・ホーゼンフェルト伯爵がどうなったかまでは見えないが、指揮の要である本陣を襲われたフェルディナント連隊は一時退却を決めたようで、全部隊が下がり始めている。
これもまた狙い通り。要塞西側を攻めるこちらの部隊は、フェルディナント連隊による側面攻撃が早期に切り上げられたことで持ちこたえた。
そして今、敵の突撃を受け止めた部隊――ロベール・モンテスキュー侯爵率いる部隊の一部が、退却する敵の追撃に早くも移っている。
連係の完成度や陣形移動の速さで言えば、ロベールの部隊は再編を終えて間もない現時点の「王の鎧」よりも優れている。だからこそ、ツェツィーリアは要塞の東から合流してきた彼らを北に置いた。今、彼らはその練度を存分に発揮し、大隊規模の兵力が東から北に素早く転進してフェルディナント連隊を追う。
ツェツィーリアが命を懸け、自身の誇りと家名の名誉を賭け、悩み抜いて計画を立てた上で念入りに準備をした末に臨んでいる攻勢。とはいえ、ここまで上手くいくとかえって怖くなる。
ここが将としての自分の頂点で、今後は落ちるばかり……ということにならなければいいが。そんなことを思いながら、ツェツィーリアは戦いの推移を見守る。
・・・・・・
フェルディナント連隊の退却は、困難を極めていた。
後方から伏撃を受けた本陣と弓兵部隊。突撃を中断して下がる騎兵部隊と歩兵部隊。戦いが予定外の展開を迎え、どちらも迅速に動けているとは言い難い。なんとか合流したものの、態勢を立て直す暇もなく、隊列を乱しながらの退却は遅々として進まない。
そこへ、アレリア王国の軍勢は容赦なく追撃してくる。
猟兵部隊と、要塞を攻める軍勢から切り離された部隊、合わせて五百程度の兵力。それでも、既に少なからぬ損害を受けている上に、撤退戦であるために全力をもって戦えないフェルディナント連隊の足を遅くするには十分だった。
その追撃部隊の後方では、さらに数百の敵兵が要塞攻めの軍勢から離れて隊列を整え、追撃に加わる用意をしている。
ただでさえ混乱している撤退戦、この上でまとまった敵兵力から規律ある攻撃を受ければ、こちらは完全崩壊しかねない。硬い表情でそう考えながら、しかしフリードリヒには敵の追撃を退けて現状を打破する手立てがない。こんな戦況では、策を考えて実行する余裕などない。
グレゴールや大隊長たちの怒号が飛び交う戦場、混乱する味方の陣営の只中で、フリードリヒは意識を失っているマティアスに視線を向ける。
ホーゼンフェルト伯爵家の紋章旗を用いた急ごしらえの担架に横たわり、兵士たちに運ばれている養父に今は頼れない。彼が助かるのか、また目を覚ましてくれるのかさえも分からない。
「まずい、このままだと……」
じり貧のまま、増援を迎えた敵の追撃に耐えられず壊走することになる。そうなればフェルディナント連隊は力を失い、多くの人員を失い、マティアスも連れて帰れないだろう。
この場でとり得る最善手は何か。
「……シュターミッツ卿に伝令を!」
数瞬で覚悟を固め、フリードリヒは手近な兵士に言う。




