第108話 国境突破
エーデルシュタイン王国の領土は、南に海岸を擁し、それ以外の三方は山々に囲まれている。山を越えて外へ攻めることは難しく、同時に山を防衛線として守りやすいことから、山々の内側が領土として自然と定着した。
その山々の名は、ユディト山脈。山脈には途切れ目や標高の浅い箇所がいくつかあり、それらが隣国との交流、あるいは交戦のための道となっている。
北のノヴァキア王国との国境にも、山脈の途切れた箇所がある。そこには国境を越える街道が走っており、そのノヴァキア王国側には関所を兼ねた砦が鎮座する。途切れた山脈を繋ぐように走る川、そこを渡る橋と一体化した砦は、ノヴァキア王国にとって南の国境防衛の要となっている。
砦に面した川は深さも水量もそれなりのものがあり、基本的には、砦が守る橋を通過しなければエーデルシュタイン王国からノヴァキア王国に入ることはできない。
この砦には常時百人の兵士が駐留しているが、ノヴァキア王国がアレリア王国に降伏した後、兵力が三倍に増強されていた。
アレリア王の命令によって、ノヴァキア王国がエーデルシュタイン王国に軍勢を差し向け、軍事的圧力をかけることになったと、砦の防衛指揮官にも王家より報せが届いていた。駐留兵力が一個大隊にまで増強されたのは、ノヴァキア王国側の動きを察知したエーデルシュタイン王国が、逆侵攻などの行動に出るのを防ぐためであると説明がなされていた。
その砦にエーデルシュタイン王国軍が接近してきたのは、六月の半ばのこと。
「……エーデルシュタインの生ける英雄か。友邦の将としてはこれ以上ないほど頼もしかったが、敵としていよいよ刃を交えるとなれば、いやはや恐ろしい」
敵が砦の前に現れ、陣を敷いてから一夜明け。隊列を組んで攻勢の準備を整えた一個連隊を見据え、砦の防衛指揮官は独り言ちる。
敵の本陣に上がっている旗は、王国軍旗と、そして花を模した家紋の旗。紛れもなく、ホーゼンフェルト伯爵家の旗だった。
英雄の連隊が目の前に布陣している。その事実だけで、砦を守る騎士と兵士たちは明らかに動揺し、緊張している。
ノヴァキア王国軍の基幹である二個連隊のうち、片方は西の国境地帯に、もう片方は東、王都ツェーシスに置かれていた。一方でこの王国南部に置かれている兵力は、隣国が今まで友邦だったこともあって少なく、治安維持と国境地帯の管理を目的とした一個大隊のみ。
この大隊も、精強とは言い難い。騎士たちはともかく、兵士たちは主力の連隊に入り損なったような連中。全兵力が今は砦に集結しているとはいえ、頼りがいのある戦力とは言えない。壊滅するまで西の国境で戦い抜き、あるいは国王を守って王都で死闘をくり広げた精鋭たちとは比べるべくもない。
おまけに士気は低い。自国が隣国に降伏したばかりで、士気が高いわけがない。
それでも、せいぜい三倍の敵を相手にした防衛戦。まだ勝算はある。
地の利は砦に籠っているこちら側にある。南から砦に迫る道は、川を渡る橋の一本のみ。数の利を活かせず、さして広くもない橋を無防備に渡ってくる敵兵を狙い撃ちにしてやればいい。
そうして死傷者を増やしてやれば、敵も大損害を被ることを恐れて退いていくはず。退きまではせずとも、さらなる攻勢は行わないはず。こちらは多くとも数回の攻勢を耐えればいい。
後は、王都から援軍がやってくれば自分たちの務めは終わり。簡単な話だ。
そのように思考を整理してまず自分を安心させた指揮官は、次に部下たちを安心させるため、口を開こうとする。
その第一声を、見張り塔から北を向いている兵士の報告が邪魔する。
「き、北からも敵が来ました! 数は……およそ二百!」
「何だと!? どうして北にそんな大勢の敵がいる!」
指揮官は叫びながら、城壁上を北側まで走る。すると北西方向から、確かに総勢二百ほどの部隊が近づいてくるのが見えた。
兵士の装備は、確かにエーデルシュタイン王国軍の揃いの胴鎧と兜。距離があるのではっきりとは見えないが、おおよその色と形状で分かる。
「どういうことだ……いくらなんでも、これほどの軍勢に川を突破されるほどぬるい哨戒はしていなかったはずだ……」
ユディト山脈の北の途切れ目である国境地帯。そのノヴァキア王国側を走る川は、橋あるいは筏や小舟などを使わなければ渡るのに苦労する。
二百もの人数が川に近づき、筏や小舟で渡る準備をしていれば、平時よりも増やしていたこちらの哨戒に見つからないわけがない。哨戒が見つけさえすれば、こちらはあらかじめ対岸に数十程度の兵力を張りつけるだけで、少数ずつ渡河してくる敵の上陸を防げていた。
かといって、二個中隊もの戦力で国境地帯の周辺、川の源流よりも奥まった地点の険しい山中を突破するのは無理がある。神が創りし自然は恐ろしい。まともな道もない険しい地勢を、百人単位の軍勢が秩序を維持しながら移動するのは不可能だろう。例の、大陸北部出身の猟兵部隊ならば別だが、エーデルシュタイン王国にそのような戦力があるとは聞いていない。
それなのに、今は確かに二百の敵部隊が砦の北側に接近している。
掲げられた旗に記されているのは、こちらもホーゼンフェルト伯爵家の家紋。
「例の、英雄の息子か……」
苦虫を噛み潰したような表情で、指揮官は呟く。
エーデルシュタインの生ける英雄が養子に迎えたという人物。類稀な智将という噂は聞いているが、一体どんな魔法を使った。
「どうすんだよ! 挟まれちまったじゃねえか!」
「北側で戦う準備なんて何もしてないぞ!」
「そもそも北側を守るようにはできてないんだ、この砦は!」
「な、何で次から次に隣の国が攻めてくるんだ……」
「あれだけの数が北に回り込めるんだ……敵はどこかに、俺たちの知らない突破口を持ってるんじゃないか?」
国難の只中で不安を抱えながらも南の国境を守っていたときに、突如発生した予想外の状況。部下たちの士気はさらに下がる。一人が声を上げると、それに続いて次々に悪態や弱音、後ろ向きの憶測がまき散らされ、砦の中を飛び交う。
兵士の一人が叫んだ通り、この砦はあくまで南を向いて国境の橋を守るためのもの。ノヴァキア王国領土のある北側は城壁もさして高くなく、何より城門が頑丈とは言い難い。バリスタなどの防御設備もない。これは万が一、奇襲や工作で砦と橋をエーデルシュタイン王国側に奪取された場合に、正攻法をもって容易に奪還できるようにするための措置でもあった。
敵が北からも来ると分かっていればもっと防衛の備えをしたが、生憎何も準備できていない。投石の用意もなければ、城門の強化もしていない。今から満足に備えるには時間が足りない。
北の敵の兵力はこちらより少なく、砦を陥落させるには足りないだろうが、こちらの兵力を割かせるには足りる。砦の北側を守りきれるほどの兵力を割けば、今度は南側が兵力不足となり、士気ががた落ちしている現状も合わさって橋と門を守りきれなくなる可能性が高くなる。
「……」
勝てる見込みが薄い現状、それでも戦うべきなのか。無防備な北からの予期せぬ軍勢に攻められながら、南から迫る英雄の連隊に立ち向かえと部下たちに指示するべきなのか。そうして部下たちを徒に死なせるべきなのか。
しかし、国境を守るのが自分たちの務め。自分たちが戦わなければ、新たに南の隣国からも軍勢がなだれ込んでくる。王家からの命令は現状維持。であれば、遂行のために全力を尽くすのが軍人の使命。王家と国に忠誠を誓った騎士たる自分の使命であるはず。
どうするべきか。
「南から騎士が数騎、近づいてきます! 白旗を掲げています! 使者のようです!」
指揮官が顔を青くして決断に悩んでいると、南を向く見張りが叫んだ。
それから間もなくして。砦に迎えられた敵側の使者――騎兵大隊長だというオイゲン・シュターミッツ男爵は、ホーゼンフェルト伯爵からの言伝を語る。こちらの騎士と兵士たちに囲まれた状況で、臆することなく堂々と声を張る。
武器を置いて降伏せよ。さすれば身の安全を保障する。こちらの指示に従って大人しく武装解除すれば、一時的に拘束はするが、国境での両国の対立が終結した後には身代金なしで解放する。マティアス・ホーゼンフェルト伯爵の名にかけて約束する。
破格の提案に兵士たちがざわつく中で、指揮官は思わず苦い笑みを零す。
「……なるほど。これはしてやられたな」
ノヴァキア王国はつい二か月ほど前に、アレリア王国に大敗し、降伏したばかり。これから自分たちの国が、自分たちとその家族がどうなるのか先の見えない状況で、元気よく戦える者はそういない。叙任にあたって誓いを立てた士官たる騎士たちはともかく、その下につく兵士たちが士気旺盛でいられるはずがない。
そこにきて、正面からは数倍の敵、そして無防備な後方にも敵が現れ、厳しい状況。そして敵側からは、武器を捨てて降伏すれば最後は家族のもとに帰してやるという勧告。一見すると優しいようで、こちらの士気を完全に打ち砕く恐ろしい一手だった。
約束の遂行を担保するのが英雄マティアスの名となれば、説得力は十分。彼ほど立派な将が約束を破りはしまいと、そう信じるに足る名前だった。
考えたのは、兵士を掌握する技を知り尽くしているであろうホーゼンフェルト伯爵当人か。あるいは、例の賢しい継嗣か。どちらでもあり得る話だと、指揮官は思った。
「大隊長、どうなさいますか」
「ご命令を……」
傍らから、副官や各部隊の隊長たちが言う。
この大隊の中では猛者と言うべき彼らの表情からも、できれば戦いたくない、という本音が見て取れた。無理もないことだった。
騎士の自分たちが務めを果たす気でいても、もはや関係ない。戦えと命じても兵士たちはまともに戦えないだろう。
「……降伏勧告を受け入れる。これは我が権限と責任において下す決断だ。降伏を命じたのは私であり、全ての責任は私が負う」
悔しさと諦念の混ざり合った表情で、指揮官は苦渋の決断を下した。
・・・・・・
「戦わずに落ちたみたいだね。よかった」
国境の砦、その北側の城門から騎士が出てくるのを見て、二百人を率いるフリードリヒは呟く。
砦から出てきたのは敵側の騎士ではない。騎兵大隊長オイゲンの副官を務める、フリードリヒも同僚としてよく知っている背の高い騎士だった。彼が砦を抜けてこちらへ来ることを許されたということは、敵がもはや戦う意思を持たないことを示している。
「これも君たちが協力してくれたおかげだ。ありがとう」
そう言いながら、フリードリヒは居並ぶ二百人を振り返る。
騎乗しているのはフリードリヒを含め数人。傍らではオリヴァーとユーリカが馬上にいる。
そして歩兵として並んでいるうち、真にエーデルシュタイン王国軍人であるのは、隊列先頭にいる兵士が十数人のみ。
彼らの後ろで三列ほどをなしているのは、王国軍の標準的な兜と胴鎧を身に着けた農民たちだった。彼らはエーデルシュタイン人ですらない。このノヴァキア王国南部に住むただの平民。それが今は、このような格好をさせられ、怯えながら並んでいる。
隊列のさらに後ろの方にいる者たちは、兜と鎧さえ身に着けていない。兜を色と形だけ模した帽子を被り、胴鎧を色と形だけ模した布を胴に貼りつけているだけ。
実際には戦う力を持たず、しかし遠目には確かにエーデルシュタイン王国軍に見える集団。それが、フリードリヒの率いる二百人だった。




