第106話 激動の幕開け
逃走し、あるいは戦死し、敵兵力が壊滅したヴァンター要塞へと、キルデベルトは堂々の入城を果たした。ツェツィーリアは参謀として彼に続いた。
「国王陛下」
「よくやった、パトリックよ。期待通りの戦果だ」
要塞掌握の指揮をとる「王の鎧」の隊長に一礼して迎えられ、キルデベルトは鷹揚に言う。覇王の直轄部隊は、敵軍の撃破を確かなものとする最後の決定打として、今回も十全の働きを見せたと言える。
「要塞内部の状況はどうだ?」
「敵は最後の一兵まで殲滅しました。武器と物資の類は『王の鎧』で押さえ、横領等が起こらないよう見張りを置いています。掌握はほぼ完了し、さらなる侵攻に向けた拠点化の作業も開始しております」
主君の問いかけに、パトリックは淡々と説明する。
「そうか、早いな。さすがに手馴れている」
「隣国との国境を制圧して橋頭保とするのは、既に幾度も経験がありますので」
これまでも周辺国を共に征服してきた腹心の冗談めかした言葉に、キルデベルトも小さく笑いを零す。
「後方からの物資輸送と、このノヴァキア領内での徴収を急ぎ進めよ。民兵と傭兵も集めよ。ここからは頭数が要るからな」
「御意」
キルデベルトの命令を受け、付き従う官僚の一人が一礼し、その場を離れる。
それを見送ったキルデベルトは、そのまま視線をツェツィーリアに向ける。
「これで、お前が尋常ならざる智将であることがまた証明されたな、ツェツィーリア・ファルギエール伯爵。今回の攻勢は、アレリア王国の歴史においても随一の鮮やかさを誇るものとして語られることだろう」
「国王陛下よりそのように評していただけますこと、他の何にも勝る喜びにございます」
ツェツィーリアはいつもの微笑より笑みを深め、慇懃に頭を下げる。その内心には安堵と喜びの感情があった。
これまでいくつもの国を征服してきたアレリア王国としても、今回の策はかつてなく大胆なものだった。失敗の許されない大一番だった。
大一番の勝負に、ツェツィーリアは勝った。策は文句なしの大成功だった。
この功績は、エーデルシュタイン王国侵攻での二度続けての失敗を補って余りある。ツェツィーリアの智将としての評判は維持され、さらに高まる。
そして何より、この勝利によって、自身の悲願達成にも一歩近づいた。
「このまま勝利を重ねてノヴァキア王国征服を果たし、その後にはエーデルシュタイン王国征服のための橋頭保も築いてご覧に入れましょう」
「ははは、大勝利で気分を良くしているのは分かるが、エーデルシュタイン王国のことまで語るのは尚早だな。まずはこのノヴァキアだ。あまり時間をかけて征服する余裕はない以上、残存兵力の掃討を急ぎ進めなければ」
「これは失礼いたしました。今一度気を引き締め、陛下の参謀としての役割を務め上げます」
そう答える声にも、やはり上機嫌が乗った。
「国王陛下!」
と、そこへ歩み寄ってくるのは前衛の指揮を任されていたアンジェロ・モゼッティ侯爵だった。
戦いの序盤から最前面に立っていた彼は、城門を破壊しての突撃の際には、自らその先頭を担っていた。ツェツィーリアたちは本陣からその活躍を見守っていた。
輝かしい戦功は持たずとも熟練の武人として生きてきた彼は、今は壮絶な死闘を潜り抜けた証として返り血と土で汚れきった姿で、キルデベルトの前で膝をつく。
そして掲げたのは、ひとつの首だった。
「敵将パウリーナ・バリエンフェルド子爵の首にございます。一騎打ちの末、私自身の手で仕留めました」
そう語るアンジェロにすぐには答えず、キルデベルトはツェツィーリアに目配せをする。彼はバリエンフェルド子爵の顔を知らない。掲げられた首が真に彼女のものかを判断できない。
一方のツェツィーリアは知っている。かつてツェツィーリアが仕えたロワール王国にとってミュレー王国は仮想敵であり、そのミュレー王国と対立するノヴァキア王国は、交流は薄かったものの一応の友好国だった。友邦の将であるバリエンフェルド子爵に、ツェツィーリアは一度だけ会ったことがある。
「……間違いありません。バリエンフェルド子爵の首です」
かつては言葉を交わしたときは、武門の当主の先達として憧憬さえ抱いた相手。今は敵国の将。首だけとなったその人相を確認し、ツェツィーリアは穏やかな声のまま言う。
「そうか……モゼッティ卿。ヴァンター要塞陥落のために尽力し、堂々の一騎打ちで敵将を討ち取ったその働き、誠に素晴らしいものだ。己の務めに実直に臨んだ果てに掴んだ戦果、大いに誇るがいい。今日よりお前も我が側近の一人だ、アンジェロよ」
「……至上の喜びと存じます、陛下」
信頼と親愛の証としてキルデベルトから肩に手を置かれ、答えるアンジェロの声には、重い響きがあった。
十年以上も冷遇され、今ようやくアレリア王国の重要人物の一人として認められた苦労人。その心中がどのようなものか。正確なところは、キルデベルトの隣でアンジェロを見下ろすツェツィーリアには分からない。
「バリエンフェルド子爵の首は腐らぬよう保存しろ。丁重に扱えよ。ノヴァキア王家の降伏の仕方次第では、子爵家に帰してやるものだ」
キルデベルトはそのように命じ、それに従ってバリエンフェルド子爵の首が運ばれていく。彼女を討ち取ったアンジェロは、敬礼を示してその首を見送った。
・・・・・・
その日の夕刻前。ヴァンター要塞の事後処理が一段落した頃。以後の掌握がアレリア王国軍本隊に任されたレコア砦より、イーヴァル率いるヴェレク傭兵団は要塞へ移った。
「国王陛下。我らヴェレク傭兵団、任務を完了してまいりました」
「よくやった、イーヴァル。もっと近くに寄れ。面を上げよ」
ひとまずの王の居所となった主館の一室。その入り口あたりで片膝をついたイーヴァルは、キルデベルトの言葉に従って数歩前に進み、顔を上げる。
王家から直々に雇われているとはいえ、大陸西部ではよそ者の、たかが傭兵団長。王の近くに寄るのは畏れ多い。室内に控えるパトリック・ヴィルヌーヴ伯爵たち護衛が、警戒心を一段高めたのが空気で分かる。
そのような空気を意に介した様子もなく、キルデベルトはイーヴァルを見下ろして笑う。
「此度は見事な働きだった。あのような地形の中にそびえ立つレコア砦への侵入、お前たちの他には決して果たせなかったであろう。お前たちの特性が存分に発揮されたな」
「お褒めに与り、恐悦至極に存じます」
上機嫌な雇い主に対し、イーヴァルは厳かに答える。
「お前たち北部猟兵の能力、もはや疑いようはない。能力を示し、戦果を挙げた者に報いるは君主の務めである……イーヴァル・ヴェレク。お前にアレリア王国男爵位を下賜する。今よりヴェレク男爵を名乗れ。併せて、領地として王領北端の一角を与える。村を築き、お前に付き従う者たちの新たな故郷とするがいい」
キルデベルトに言われ、イーヴァルは表情こそ変えなかったものの、息を呑む音は室内に小さく響いた。
「ヴェレク族はもはや使い捨ての傭兵ではない。我がアレリア王家に庇護されし臣民である。お前の同胞はアレリア王国の同胞である。お前は雇われの傭兵団長ではない。王国貴族の一員であり、我が臣下である」
「……ありがたき幸せ。これより我らは国王陛下の忠実なる臣として、身命を賭してお仕えいたします」
嗚呼。
これで、同胞は居場所を得た。
自分はヴェレク族の生き残りを正しく導き、新たな安住の地に辿り着いた。
これで、自分たちは、その子孫は、これからも血を繋ぎながら生きていける。
今一度頭を下げながら、イーヴァルの内心に安堵が広がる。もう、いつ死んでも悔いはないと思えるほどの安堵が。
・・・・・・
ノヴァキア王国とアレリア王国との国境地帯に、アレリア王国の増援が到来した。どのような手段を用いたのか、増援はノヴァキア王国側の間諜に進軍準備を察知されることなく、ほとんど奇襲に近いかたちで現れた。
その増援を率いているのは、キルデベルト・アレリア国王その人。すなわち今回の攻勢は親征であり、過去の例から考えて、キルデベルトはこの戦いでノヴァキア王国の征服を成し遂げるつもりでいる。
その報せは、ノヴァキア王国からエーデルシュタイン王国にも届けられた。王都ザンクト・ヴァルトルーデの王城で、王太女クラウディア・エーデルシュタインは急報を聞いた。
キルデベルトが自ら最前線に出てきての大攻勢。これはノヴァキア王国だけでなく、エーデルシュタイン王国にとっても注目すべき状況。うまくすれば覇王を討ち取ることも叶う。戦況によっては、少しばかり無理をしてでもノヴァキア王国に助力する意義がある。
だからこそ、クラウディアは臣下たちに命じ、ノヴァキア王国の状況を注視させた。同時に、フェルディナント連隊とアルブレヒト連隊の動員準備も命じた。
それから間もなく、事態は急変した。
ノヴァキア王国の国境防衛の要であるヴァンター要塞とレコア砦が、開戦初日に陥落。ノヴァキア王国側の防衛部隊はほとんど壊滅状態となり、王太子ユリウスが少数を連れてかろうじて東に逃れた。
アレリア王国の軍勢は既に要塞と砦を掌握し、さらなる侵攻に移っている。
「……そうか、分かった。ご苦労だった」
ノヴァキア王国から急ぎ舞い戻った間諜より、謁見の間でこの凶報を受け取り、クラウディアはため息をこらえて言った。
手振りで下がるよう伝えると、ほとんど不眠不休で馬を走らせて報せを届けた間諜は、近衛騎士たちに両脇を支えられるようにして退室する。
残ったのは、信用のおける側近たちのみ。その段になってようやく、クラウディアは嘆息した。
「あのヴァンター要塞とレコア砦がこうも簡単に落ちるとは……アレリア王もファルギエール伯爵も、やってくれたな」
「ノヴァキア王国がここから戦況を覆せるとは思えませぬ。あれだけ硬い国境地帯の守りを打ち破るようなアレリア王国の軍勢、その進撃を止めるのは、ノヴァキアに残る戦力では極めて難しいと言わざるを得ないでしょう」
本音を零したクラウディアの横で、厳しくも率直な意見を述べたのは、文官の筆頭である財務大臣ヘルムート・ダールマイアー侯爵だった。
「残念ながら、卿の言葉を否定することはできないな。友邦である我が国としては、ノヴァキア王国の逆転勝利を信じたいが……どちらにせよ、北の国境での備えが必要だ」
ノヴァキア王国がここから持ちこたえ、キルデベルト・アレリア国王を討つ機会があるようであれば、その加勢のために。このまま敗北してアレリア王国に下るようであれば、かの国との国境地帯の事態急変に対応するために。状況がどうなるとしても、ある程度の兵力を北に動かしておくべき。クラウディアはそう考えた。
「であれば、やはりフェルディナント連隊を北の国境に?」
「それしかあるまい。併せてアルブレヒト連隊も北に動かし、王国北部の貴族領軍も招集する……幸い、ノヴァキア王国への侵攻に忙しいアレリアの軍勢は、今は我が国に攻めてくる可能性は極めて低いからな。こちらとしては、兵力を北に集めやすい」
近衛隊の隊長であり、武官としてクラウディアに最も近しい立場にいるグスタフ・アイヒベルガー子爵の問いかけに、クラウディアは複雑な表情で頷いた。
「直ちにホーゼンフェルト卿とアイゼンフート卿を登城させよ。軍議を開き、具体的な計画を練るのだ」
「御意のままに」
敬礼したグスタフから、クラウディアは外務長官アルフォンス・バルテン伯爵へと視線を移す。
「そして、ノヴァキア王国の戦況についてより一層の注視を。必要ならば情報収集の人手は増員する。決して抜かるな。逐一報告せよ。この私に直接だ」
「かしこまりました」
今ばかりは普段の柔和な雰囲気を抑え、アルフォンスは厳かに答えた。
ひとまずの指示を下し、クラウディアは謁見の間の壁を向く。そこには代々のエーデルシュタイン王国君主の肖像画が並んでいる。
これからまた、ルドナ大陸西部の情勢が大きく動く。その激動を乗り越え、エーデルシュタイン王国が生き残るか否かは、もはや父ではなく自分の判断と行動にかかっている。
「……」
他の君主のものと比べても一際大きな肖像画の中で、凛々しく佇む建国の母ヴァルトルーデ。
彼女が自分を見下ろしているように、クラウディアには感じられた。まるで試すような視線で刺されているような感覚を覚えた。




