第100話 束の間の
冬は平穏の使者。
ルドナ大陸では、そのような諺が古くから語られてきた。
如何な戦いも、冬という季節を超えて続けることはできない。寒さが体力と気力を奪い、乾燥が病をもたらし、いつ降るとも知れない雪が不意に歩みを止め、ときに死を招く。
どれほど精強な軍勢も、冬の前では万全の力を発揮することはできない。どれほどの権勢を誇る大国の君主も、唯一絶対の神が遣わす平穏の使者を追い返すことはできない。神がもたらす冬に逆らって戦い続けようとすれば、その愚かさには敗北や死という代償がもたらされる。
だからこそ、エーデルシュタイン王国にいくつもの波乱が巻き起こった統一暦一〇〇九年においても、冬は平穏だった。
友邦であるリガルド帝国やノヴァキア王国も、そして敵であるアレリア王国も動くことはない。となれば、王国軍人も平時よりは心穏やかに過ごすことができる。
王国軍騎士であるフリードリヒ・ホーゼンフェルトも、王都ザンクト・ヴァルトルーデにあるホーゼンフェルト伯爵家の屋敷で、安らげる日々を送っていた。
「――思えば、ルドルフが生まれ、アンネマリーが世を去ったのも冬のことだった。ルドルフという名はアンネマリーが決めたものだ。息子が生まれたらそう名づけたいと言っていた」
雪が積もったある日の午後。屋敷の居間でお茶のカップを手に、フリードリヒの養父であるマティアスが語る。
「もしかして、由来はあの物語本の?」
「ああ。あの本の主人公からとったらしい」
大陸西部ではよく知られた、騎士である主人公が英雄的な活躍を見せる物語本を思い出してフリードリヒが尋ねると、マティアスは頷く。
「あの物語本はアンネマリーの愛読書でな。好きな物語本の登場人物から息子の名をつけるというのは、由来としては少々風変りかもしれないが、何とも彼女らしい……」
そう言って微苦笑を零すマティアスに、フリードリヒも笑みを返し、自分のカップを取ってお茶を一口飲む。
暖炉では炎が揺れ、室内はほどよく暖かい。
「お前ほどではないかもしれないが、彼女もなかなか読書家だった」
「そうだったのですね。お互いの好きな書物について、一度お話ししてみたかったです」
「きっと話が合ったことだろうな。本当の親子のように打ち解けることができたことだろう」
マティアスの言葉を聞きながら、フリードリヒは居間の壁に視線を向ける。
そこに飾られているのは、今は亡き伯爵夫人アンネマリーと、マティアスの実子である戦死したルドルフ、それぞれの肖像画だった。
貴族をはじめとした富裕層は、肖像画の中に己の姿を残す。マティアスの肖像画も、若き日のものと現在のものとがある。フリードリヒの肖像画も、養子に迎えられて間もなく、画家を屋敷に招いて描かせたものがある。
生者の肖像画を飾ることは縁起が悪いとされている。そして居間など私的な空間には、直接交流のあった近しい家族の肖像画を置くのが一般的とされる。
なので今は、居間の最奥にはマティアスの父である先代当主の肖像画が。そして側面の壁にはアンネマリーとルドルフの肖像画が飾られている。
年齢で言えば、二人とも現在のフリードリヒとさして変わらない。永遠に若いまま静かに微笑む養母と、凛々しくたたずむ血の繋がらない兄。フリードリヒは二人の姿を見ながら、マティアスの語る二人の話を記憶に刻む。
マティアスの養子となり、ホーゼンフェルトの姓を与えられたのは、彼の全面的な庇護を受けるため。己の才覚を最大限に活かし、エーデルシュタインの生ける英雄の後継者となり、そうして何者かになるという願望を達成するため。
しかし、今や自分の立場は、マティアスとの義理の親子関係は、実利を目的とするただそれだけのものではない。
マティアスはフリードリヒに、アンネマリーやルドルフとの思い出を語る機会が増えた。今は亡き二人との記憶を、二人がホーゼンフェルト家の一員として生きたことの証を、フリードリヒに受け継がせるかのように。
その意味を、フリードリヒは自分なりに理解しているつもりでいる。
自らの出自も知らない孤児フリードリヒは、こうしてフリードリヒ・ホーゼンフェルトになっていく。そう考えている。
食堂から居間へと繋がる、今は開かれている扉の脇に立ち、ユーリカは語らうフリードリヒとマティアスを眺めていた。
暖炉の火が温めた居間の空気は食堂まで流れており、夕食作りが行われている厨房の暖かさも伝わってくるので、食堂も寒くはない。
「ユーリカちゃん。坊ちゃまのお隣に行かなくていいの?」
愛する青年とその養父の交流を見つめていると、声をかけてきたのはホーゼンフェルト伯爵家の家令を務める老女、ドーリスだった。彼女はいつものように柔和な笑みを浮かべながら、ユーリカの隣に並んで主人とその継嗣に視線を向ける。
「……うん、いいの。今は二人の時間だから」
ユーリカはフリードリヒの横顔を見つめ、慈愛に満ちた笑顔で言う。
・・・・・・
年が明け、統一暦一〇一〇年の二月。
王都に置かれているエーデルシュタイン王国軍の軍本部に、フェルディナント連隊の騎士と兵士たちが集っていた。
行われているのは、連隊長マティアスによる騎士叙任式。連隊内の騎士見習いや、必要な技術と教養を身につけた古参兵に騎士の称号が与えられる儀式だった。
二年前のアレリア王国との本格的な開戦以降、フェルディナント連隊は幾度かの戦いを経て、相応に人員を損耗した。現在の兵力は定数をやや割っており、充足は急務。特に士官かつ騎馬兵力である騎士の不足は解決しなければならない。
そのため、新規の騎士を連隊に迎えるのはもちろん、能力と経験を備えた優秀な軍人を積極的に騎士に登用することも、必要不可欠だった。
「騎士見習いギュンター。汝は王国に忠誠を誓い、誇りを守り、以て騎士となることを誓うか」
「私ギュンターは、王国に忠誠を誓い、誇りを守り、以て騎士となることを、唯一絶対の神に誓います」
新たに騎士の称号を得る者たちの列には、ギュンターも並んでいた。今、彼はマティアスの前で片膝をつき、首を垂れ、叙任式では定型である文言を述べる。
「よかろう。武勇を発揮して多くの戦果を挙げ、また騎士にふさわしい教養を身につけたその努力を認め、ホーゼンフェルト伯爵マティアスの名において汝を騎士に任ずる」
マティアスはそう宣言し、ギュンターの両肩を剣で軽く叩く。
叙任式は何事もなく終わり、新たに十人弱の騎士が誕生。ここに新たに入隊する騎士たちが加われば、フェルディナント連隊の騎士は定数を満たし、むしろ戦時体制としてやや余裕のある規模となる。
「おめでとう、ギュンター。今までよく頑張ったな」
「……ありがとうございます。これもオリヴァーさんのおかげです」
晴れて騎士を名乗れる身となったギュンターに、声をかけたのは直属の上官であるオリヴァーだった。騎士となる上で必要な教養や軍学の知識、礼儀作法を指導してくれた彼に、ギュンターは素直に礼を伝え、頭を下げる。
「俺は実家を離れて一騎士になったことだし、これでお互いの身分は対等になったな……歳はお前の方が上なんだ。くだけた口調になってもいいぞ?」
いつもの癖で自身の顔の傷跡に触れながら、オリヴァーはそう提案する。
この冬にファルケ子爵領へと帰郷した際、オリヴァーは婚約者と正式に結婚し、妻を伴って王都に戻った。
結婚をもって独立した騎士家の家長となり、血筋を表す意味でファルケの姓を名乗る機会はあるかもしれないものの、慣習法としては貴族の席から離れたことになる。軍服のマントからも、ファルケ子爵家の家紋は消えた。
騎兵大隊長にまで上りつめれば王家から宮廷貴族位を与えられる可能性は高いが、少なくともそれまでは、オリヴァーは皆と同じ平民の騎士ということになる。
「いや、さすがに勘弁してください。これだけ色々と指導してもらった上で、副大隊長のオリヴァーさんに馴れ馴れしく接することなんてできませんよ」
オリヴァーの提案を畏れ多いと感じたのか、ギュンターは恐縮した様子で答える。
「ははは、そうか。なら今まで通りに頼む……今夜はお前の叙任祝いだ。俺の奢りで、うちの小隊全員で盛大に祝ってやるから楽しみにしておけよ。好きなだけ飲め」
「お手柔らかにお願いします。あんまり酔いつぶれて帰ったら、また嫁さんに叱られちまうんで」
ギュンターは苦笑を零しながら、自身の変化を内心で噛みしめる。
かつて根無し草の傭兵だった自分は、今では妻子を持ち、このエーデルシュタイン王国に家を持ち、そして王家と国に仕える騎士になった。




